第九話 VS ゴリラ【前編】
別府の飲み屋街の一角で酔っ払いがふらふらと歩いていた。
生まれたての子鹿を思わせる千鳥足で真っ赤に染まった顔と酒気を放つ荒い呼吸。
男は朝まで飲み回っていたようだ。
「ヒック……ふざけろよォ……このオレ様があんな成金女に負けるわけねぇんだよォ……」
この男はユデゴリラ。
コロシアムでは優勝候補の一角とされ、小大会ではあるが三連覇を成し遂げる実力者だった。
しかし温戦コロシアムの予選で祈璃を相手に何も出来ずに叩きのめされたのだ。
準優勝まで祈璃が勝ち進んだこともあり、彼の評判は落ちることはなかった。
だがぽっと出の聞きなれない流派を扱う少女に負けたことは彼のプライドを大きく傷つけたようだ。
そして現在もそれを引きずっているのか毎日のように飲み耽っていた。
「おやおや。随分とのぼせ上がっているようだな」
男に近づいたのはセーラー服に身を包む少女。釣り上がった目はユデゴリラを見上げていた。
「ンだよ、ガキがよォ……ここはお前みてぇな石鹸臭い女がくるとこじゃねぇんだ、帰れ帰れ」
男は手で追い払うような振る舞いをする。
異常に肥大、硬質化した腕はそれだけで強い風を少女へ浴びせた。
「そう邪見に扱うなよ。ユデゴリラ、あの女に勝ちたいとは思わないか?」
「……ぁン?」
薄く微笑む少女に、男は眉を顰めた。
「いいですか。このように温泉拳とは基本的にこの三つの流派に分かれています。温泉拳本流、鉄輪流、そして明礬流。それぞれの違いを説明できる方はいますか?」
絢愛達の教室では温泉拳についての講義が行われていた。
黒板に三つの流派を書くのは温泉拳の講師である観海寺祈璃。
そう、彼女こそが温泉拳を教えているのだ。
彼女の質問に真っ先に手を挙げたのは絢愛と香織。
ほぼ同じタイミングで挙げた二人は互いを軽く睨み合ってはどちらを選ぶか祈璃の様子を見る。
「いつもお二人では良い学びになりませんね……では敢えて手を挙げてない方から選びます。杉井さん」
呼ばれた男子生徒は慌て、緊張した様子で背筋を伸ばして立ち上がる。
「お、おおおおお温泉拳はですねぇ、ええ、なんと言いますか、こう、温泉のエネルギーを力に変えてですねぇ〜」
緊張して上手く喋れないのか、予習を怠ったのか彼の回答は要領を得ない。
「見ていられんな。祈璃女史、私が答えてしまっても構わないですか?」
「亀井……!」
どうやら後者だったらしい。
手を挙げた隣の席の亀井に杉井は救われたように瞳をうるわせた。
「仕方ないですね。今日だけですわよ? では亀井さん、答えください」
亀井は眼鏡を持ち上げると、眼光を鋭く目の前の黒板へ向ける。
「温泉拳本流は肉体に温泉のエネルギーを流し、強化する流派です」
温泉拳本流は絢愛の属する流派だ。単に温泉拳と呼ばれることが多く、すべての温泉拳のはじまりに当たる。
肉体に温泉のエネルギーを行き渡らせ身体能力を著しく向上させるのだ。
「そして温泉拳鉄輪流は温泉のエネルギーを武器や防具に流し、強化する流派」
温泉拳鉄輪流は本流から分かれた、得物や装備の強化に視点を置いた温泉拳だ。
得物を強化するため、安定した堅実な戦術を展開できるが一度得物を失えば何もできなくなるのが弱点である。
先日絢愛が戦った温泉入道や星水はこの流派に属している。
「最後に温泉拳明礬流は温泉のエネルギーを具現化し、使用する。そうして創り出された物は湯ノ華と呼ばれている」
温泉拳明礬流は鉄輪流の中で生まれた温泉拳である。結晶化した温泉のエネルギーを様々な形に変え武器とするのだ。
変幻自在、使い手によって多様で多彩な戦い方が現れる反面、消費する温泉のエネルギーが他の二つの流派よりも圧倒的に高いためその使い手は多くない。
咲良姉妹もこの流派に属しているが、本来は二人でようやく湯ノ華で桜の木を一本具現化させているのだ。
「パーフェクトです。さすが亀井さんですね」
祈璃が亀井へ拍手を送ると周囲のクラスメイト達もそれに合わせて手を叩く。
「亀井、すまない、この埋め合わせは必ず……ッ!」
「気にするな。お前と私の仲だろう? 温骨ラーメン大盛りで手を打とう」
二人は机の下で固い握手を交わした。
「大変よ!」
突然教室にクラス担任が入ってきた。血相を変えて絢愛へと目線を送る。
「神村さん、早くきてください!」
「は、はい!?」
血気迫る勢いにあわてて絢愛は担任の後をついていく。
「私も様子を見てきます。皆様は自習していて下さいませ!」
二人について行く形で祈璃も教室を出て行った。
「どうしたんだろう?」「強盗かな?」「自習ラッキー」「亀井、替え玉は……」「無論、替え玉もだ」「はい……」
教室が喧騒に包まれる。
そんな中、香織だけは窓の外から学園前のロープウェイ駅へ走る絢愛と祈璃を静かに見つめていた。
「ウホホイアホホイ〜!」
絢愛達がロープウェイ駅に着くと、下から奇怪な鳴き声が聞こえた。
ロープウェイの真ん中、巨大な手でロープを掴み、宙づりのような形でロープを伝いながら登ってくるゴリラが見えた。
否、それは全身を黒褐色に染めた人間だ。
自身の身長ほどもある長く巨大な手を掲げて雄叫びを上げている。
「あれが闇泉士だというの……?」
祈璃が不気味そうに見下ろす。
「そうだよ、祈璃。それにしても黒いというか、禍々しいものだね」
「あれは凶化体だな」
いつの間にかクマハッチが二人の隣に立っていた。
「凶化体?」
「邪苦字は寄生虫のように体内に吸収され内部から泉士を負の力に染め上げる。だが邪苦字を多量に摂取すれば比例して得られる負の力も増すのだ」
「早い話がオーバードーズ……ですわね」
「無論代償は重い。幾千幾万もの亡者の魂に蝕まれ、たとえ浄化されてもその姿、精神が元に戻ることはない」
それはあたかも人間の理性など残っていないかのようにこちらを気に留める様子もない。
まるで一つの意思に沿って動き続けるだけの機械のようだった。
「あの腕……ユデゴリラさんですわね」
「ユデゴリラって何そのひどいネーミング……」
「油断してはダメですよ、絢愛。彼は温泉拳でも指折りの特化型……あの腕の攻撃を受けたら流石のあなたでもどうなるか分からないですわ」
温泉拳の中でも絢愛のように全身を強化する者は少ない。
全身に行き渡らせるということはそれだけ消費する温泉のエネルギーも高いのだ。
逆にユデゴリラのように身体の一部分のみを強化する特化型も少ない。
何故なら弱点が丸見えのようなものなのだ。
腕に特化すれば機動力が、脚に特化すれば防御策が、肉体の耐久性に特化すれば攻撃力も機動力も常人に毛の生えた程度となってしまう。
しかしユデゴリラは腕に特化した強化を行っても尚、小大会を連覇しコロシアムの予選に出場する実力者だ。
「分かった。それでも、ボクが助けてあげないといけない人だからね。じゃあ、行ってくるッ!」
絢愛は跳んだ。ロープウェイを伝い走りながら赤眼鏡を掛ける。
「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府……燃え盛れ、焦熱温戦ッ!」
彼女はロープウェイを下りながら火球に包まれる。膨張した火球が晴れるとそこには赤い和装の戦闘服を身に纏う温戦少女が現れた。
「!!」
彼女の姿を見たユデゴリラはロープの上に足を着けると蚊でも払うかのように腕を振り回す。
絢愛は立ち止まり、腕によって発生した風圧に抗う。
ロープの上という不安定な足場、彼女は一度態勢を整えようとバックステップする。
「あっぶな!?」
だがユデゴリラはそれを待っていたと言わんばかりにもう片方の腕を絢愛に向けて伸ばした。
彼女を掴まんと迫る拳を絢愛は蹴り飛ばす。
「やるじゃん」
絢愛は笑う。
そして再びユデゴリラに向かって走り出した。
第九話いかがでしたでしょうか。
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