千春お嬢様の庶民飯万歳!
「千春お嬢様、いくらご主人様と奥様がいらっしゃらないからといって、このような所業は如何かと爺は思いますぞ」
「爺は分かっていないのですわ。このような戯れ、他の何事にも変えがたいことですもの」
西園寺千春はお嬢様だ。超お嬢様だ。この町の一等地に城の様に聳え立つ家があるが、アレが千春の家なのだ。もう一度言う。彼女は超お嬢様なのだ。
両親は基本海外を飛び回っていて、帰ってくるのは月一。だけど千春は、そんなことではめげない。たくさんの執事とメイドに囲まれて窮屈な生活を……送ってない。
なぜなら彼女の楽しみは、『学校帰りに気になった(庶民向けの)お店でお食事を頂くこと』だからである。
(……ふぅ。困ったものだのぅ。千春お嬢様は)
千春お嬢様はのんびりしてそうで意志が強い。執事のトップのウォルター茂山は千春からは爺と呼ばれていたが、このお嬢様の勢いには小さい頃から手を焼いていた。
木に止まっている小鳥と遊びたいという理由で、大人たちが気付く頃には地上2mの枝の上で歩いていて落ちかけたり、イルカと遊びたいという理由で、イルカショーの最中、いつの間にかプールの中に入って大人たちの目の前にイルカと一緒に現れたりetc...…。
そんな事はかなり小さい時の話なので流石に今はないが、それでもお嬢様の勢いは衰えず、この『庶民飯』習慣も、茂山が止めさせたくても止めさせられないのであった。
「ああっ!着いたわ爺!止めて、止めて!」
「仰せのままに」
“わざと目立たないように”安物の白いワゴン車にお嬢様と執事は乗っていた。西園寺家の跡取りなるものが、このような街中の、しかも庶民が集まるような駅前のうどん屋に居てたという噂が流れては困るのだ。と、お嬢様以外の使用人一同は思っていた。
*
「はぅあ〜! やっとやって来ましたわ! 駅前の『みつばや』さん!」
「お嬢様……完全にお車を止めますまでは窓から顔を出されぬよう……」
「はやくはやく」
程よく古びた駅前の、統一感のない一連の店の並びにふと現れる、しなびた蓬色の“のれん”がかかった店。それが『みつばや』。
千春は前からここに来たかった。道ですれ違った男子高校生たちが、ここのうどんの噂をするのを聞いてから。
「ねえ爺、今日も爺は表で待つの?」
「ええ、見張りをせねばなりませんので」
「そんな……平和なこの町に余計な心配ですこと。一緒に食べればいいのに」
「そういうわけにはいきません」
「そう?では、30分ほど待っててね」
「ええ、ええ」
千春は今日も、爺を店の中に連れ込むのを失敗した。
小さい頃は父の代わりに、たまに一緒にご飯を食べてくれた。たまにそれをやりたいだけなのだが、どうも千春の小さな願いはなかなか叶わなかった。
だが、そんなことに尾を引かれては一向に食べになどいけない。
千春はくるりと店の前に向き合った。
「素晴らしい趣ですわねぇ〜」
まるでダヴィンチの絵画を見るように、千春は『みつばや』にうっとりする。
古臭いガラスの引き戸の向こうは薄暗い。17歳の身空の女の子が一人で好んで入っていくような店ではまず無かった。が、千春は美味いうどんを想いながら戸を開けた。
*
ガラガラガラ……。
「お邪魔いたしますわ」
すぅっ……。
「!」
扉をスライドさせた途端、千春の鼻に抜けた出汁の匂い。
実は扉を開ける前から香ばしい匂いは漂っていたのだが、それはまだ序章の香りだったのだ。
かつお節か昆布かと思われる匂いが千春の身体中を駆け抜ける。これは美味いうどん屋だと千春は瞬時に理解し、じゅるりと小さな舌でよだれを受け止めた。
「らっしゃい」
『みつばや』の中はやはり薄暗く、どうやらあまり照明を強くしていないようだった。縦に細長い長屋の店内はカウンターのみで、床に固定された回転式の丸イスが千春を出迎えた。蜜柑色のボロになったイスは、修繕の跡が多いが愛されているのがわかる。明らかに千春が普段座っているようなものとは程遠い安物だが、千春は落ち着いて腰を下ろした。客は千春以外居ないようだった。
目線を少し左に移すと、先ほどの声の主……50か60代くらいの女性が居た。皺の数がこの店の歴史を思わせる。
そしてさらにメニューを見る。
厚紙に白い紙を貼って造られた手書きのメニュー。ところどころシミがあるのが味わい深い。
(何にしようかしら……)
*
メニューは小ざっぱりしたものだった。
かけうどん
きつねうどん
たぬきうどん
わかめうどん
にくうどん
……そして、かやくおにぎりといなりずしと、ただのおにぎり。
(このお方おひとりで店を切り盛りされているのかしらん)
頼むものを悩むついでに目の前の初老の女性に想いを馳せる。それはメニューが小ざっぱりしているから。ひとりで回しているのなら、できるだけシンプルなメニューで回しているかもしれない……いやでも、うどん屋はこんなものなのかとも思う。千春がうどん屋に行った経験は普通の人、つまり一般人よりも遥かに少ない。だから、比べる対象が少なすぎるのだ。まあそれを差し引いても、ただ単に女性のこだわりがあってメニューが固定されてるだけかもしれない……。
(……嫌だわ私ったら、こんなこと考えるなんて無粋ですわ)
千春は考えるのを辞めた。
そして決めた。
「恐れ入ります奥方」
「……は、はい?」
千春の言葉遣いっぷりに、“奥方”は度肝を抜かれた声を出した。
「きつねのおうどんと、かやくおにぎりを頂戴できますか?」
「きつねうどんとかやくおにぎりね、ハイハイ……。おにぎり結構大きいの2コやけど、お嬢さん全部食べれるかなあ……」
「問題ございませんわ、是非、お出しくださいませ!」
「はいよ、かしこまりました」
ハキハキ喋る千春に、料理人はニコっと微笑んだ。
*
カチャカチャ……。
麺を茹でる音がする。
千春はまるで小鳥のさえずりのように心地いい音だと思った。しっかり背筋を伸ばして、膝に手を置いて畏り、耳を澄まし、鼻孔を広げる。
やはり香る鰹節の匂い、うどんを茹でる熱気が肌でジリジリ焦れる。まっすぐ前を見据えると、料理人が慣れた手つきでうどんを創り上げるのが、こちらに向けられた背中から感じられた。
(待ちきれませんわぁ……)
千春の目尻は、既に麺を口に入れ味わったがのごとく、とろんととろけていた。
*
「はいよ、お待たせー」
ぱあぁっ!
千春から明るいオーラが放たれる。
(この日を待ちわびましたわ〜!)
千春の目の前には、うどんとおにぎりが同時に用意された。
薄暗い中で灯される明かりに照らされ、濃い黄金の、それなのにどこまでも透き通ったスープが光る。白い湯気がアツアツの証明だ。
そのスープには少し油が浮いていた。何の油か?そう、おあげの旨味たっぷりな油だ。その油がスープの香りを表情豊かにしていたのだった。
そして少し小麦色を思わせる白いうどんは、スープから所々顔をのぞかせている。消して彼らはお行儀良く並んではいない。料理人が茹で上げた麺をザッとスープに潜らせた時のままの形で自由に表現されていた。
あとは足りない色を補うように、白とピンクのコントラストが美しい蒲鉾ふた切れ、そして青いネギだ。
これが『みつばや』のきつねうどんの全貌である。
さて千春は、はやる気持ちでうどんを愛でたあと視線を右に移す。目線の先には、かやくご飯のお握りがふたつ、長方形型の陶器の皿に載っている。作り置きされていたものをレンジで温めなおした、かやくご飯おにぎりだ。どこかチープさが漂うが、それが味わい深い。こんにゃく、にんじん、鳥肉、うすあげ、しいたけ。この5種が細かく刻まれて香ばしい茶色のメシに散りばめられており、香草として三つ葉も顔を覗かせていた。そして忘れちゃいけない黄色いたくあん。これもふた切れだ。
(ではっ……)
さらに背筋をピンと伸ばし、千春は瞳を閉じて合掌した。
「いただきますわっ!」
*
「すうっ……はぁっ……っ」
千春はまず、その高く香り立つ、うどんの汁の匂いを嗅いだ。少し腰を前に倒すだけで、鼻腔に抜ける蒸気と出汁の匂い。たまらず声が漏れる。
もう待ち切れない。
そう言わんが如く、ゴクリと生唾を飲み込んだ千春は、箸立ての中に並ぶ黒い木製の箸をサッと見極めそして取り、無造作に汁に箸を突っ込む。
選び出された2本のツルツルとした白いうどんを汁の中から引っ張り出せば、彼女はふぅふぅと自らの息でうどんを申し訳ない程度に冷まし、一気に口の中に滑り込ませる。
「ずずっ……!ずずず……!ずっ!」
見た目のツルツルさはそのままに、口の中でうどんが暴れ出す。歯で噛み潰せばシコシコの噛みごたえに満足感を得る。出汁の味わいがプゥンと広がる。
(おい……ひぃっ……)
無言の感動がそこにあった。
「ずっ!ずずず……!」
もう誰にも千春を止められない。
たまに落ちて来る、束ねていない黒のロングウェーブヘアを耳にかけ直しながら、それでもうどんに喰らいつく!
「んぐんぐ……」
3分の1ほど、一気にうどんを駆け込んで、千春は少し我に帰る。
(お汁が飲みたいわぁ……)
グイ。
箸を右手に抱えながら器を持ち上げ、自らの小さなその唇に縁を添わす。
自宅の城でやれば、絶対に爺に注意される行為。それを彼女は厭わなくやる。罪悪感などこれっぽっちもない。美味いからやるのだ。
「ずずっ……」
熱いスープを身体に流し込ませる。
「……!!」
千春は思わず目を見開いた。
「あぁ……。美味しいですわぁ……。なんて美味なこと……」
「ありがとね」
女主人が思わず自然にお礼を言ってしまうほど、千春は頬を紅潮させて、それはそれは美味しそうに召し上がっていた。
(はぅあっ……。なんて美味しいのかしらん、このお出汁、鰹節の薫りがすんごく堪らない。ちょっと薄いお味だけど、物足りないなんてこと全く有りませんわ。うどんの風味を殺さないこのお出汁は完璧、いいえ、お葱、蒲鉾……この作品はスペシャルな芸術品ですわ!)
そこまで想い、千春はハッと気がついた。
(嫌ですわ!私ったらおあげさんを忘れていましたわ!)
*
うどんのあげ。
人にもよるが、それはきつねうどんのメインディッシュとも言える。
千春は贅沢にも、美しい出汁を吸ってふくよかになったおあげを、真ん中からお箸でむんずとつまみ上げ、小さな口に頬張った。
ーーじわっ……っ。
「〜〜っ!?」
思った以上の旨味が、千春の口の中に広がる。その甘めに仕上げられたおあげは、スープと喧嘩することもなく見事な連携プレーを見せ、良いものだとわかる油がじんわりと滲み出た。
「ずずっ……!」
まだ油が口の中に残っている間に、急いで千春はつゆを口の中に流し込んだ。
旨味を洗い流して行くときの出汁の味。これは堪らない。勢いでうどんを喰い、かまぼこを喰らい(このかまぼこもまた美味しいこと)、約半分ほどきつねうどんを平らげたのち……。
(うふふ……お次はあなたの出番ですわね)
千春が次なるターゲットとして定めたのは、陶器の長皿に載ったかやくおにぎりであった。
*
(えいっ!)
少し強めに箸を入れる。ふたつ並んだかやくおにぎりの内、千春が最初に選んだのは右側のおにぎりだった。どちらでも一緒といえば一緒なのだが、具の配分が違う。千春はしいたけが大きく見えている方に惹かれて、まずはそちらを選んだ。
海苔が巻かれていないタイプのかやくおにぎりで、箸を入れればホロホロといくつか飯粒が零れる。めげずに千春は一口分を取り上げ、口の中に放り込んだ。
(んぐ。ん……、んっ!)
おいっっしーーーぃ!千春は心の中で叫ぶ。
味は少々濃いめだが、うどんの汁を流し込めば溶け合う旨さだとわかる。と言うより、いま流し込んで千春はわかった。
口の中に入ったのは、うすあげとこんにゃくと人参、そして三つ葉で、ひとつひとつの味が死んでいなかった。半年ほど前、千春が店選びを失敗した時のかやくおにぎりは、具はたくさん入っているはずなのに、きつい醤油味に全て殺されて、具の味がなかった。だがこのかやくおにぎりは違う。味付けは濃いめのはずなのに、味のハーモニーが出来ていたのだった。
(はぅあ〜〜……美味しいですわ。何個でも食べれちゃいそう)
ぱくぱくぱくぱく……と、千春はよく食べる子だった。
ここで余談だが、千春の胸はEカップ。十分に肩がこるレベルの胸だ。小さい頃からぱくぱくぱくぱくよく食べるわりには太らず(その分運動も嗜んでいるのだが)、全部栄養が胸に行ったらしい。机と椅子の距離が近いと、場合によれば胸がつっかえるなどの弊害はあったが、幸いこの店は椅子が高かったので大丈夫なようだ。
*
さて、うどんも“あげ”も、おにぎりも嗜んだ。あとは最後の追い込みである。千春はここに来てうどんに七味を足した。
(ちょっと多目が好みですのよ〜♪)
サッサッサッサ。木製の筒に入った七味を気の済むまでかけた千春は、静かに七味を元の場所に戻し、呼吸を整える。
「ふぅ……」
一息つき、そして決意を新たにした。
(さ、行きますわよ!)
ずっずずず……!と、麺を一気に吸い込むように食べ進む。少し残していたおあげと、七味を利かせたつゆも一緒にバクバクゴクゴクと。残り1個半となったかやくおにぎりもスピードを加速させ、食べる食べる。
「はぁっ……はふっ……んぐ……はぁ。おいっひぃっですわぁ!」
いま『みつばや』には他の客が居ない。だからと言うわけでも無いが……この『みつばや』の店主は、実は千春が食べ始めてから見守るように……いや、見入っていた。口はぽかんと開いていた。何よりもよく食べる様が凄まじいし、何よりも幸せそうに食べるのだ。そんな様子がどうしても気になって、つい見入ってしまったのだった。
そしてあれよあれよと言う間に、目の前で器の中が、皿の上が、カラになって行くのだった。
*
カタン。
コト……。
ずず……。
すべての皿がカラになり、千春は食後の茶を口に含む。
そこには、さっきまでうどんやおにぎりに食らいついていた女子高生は居ない。居るのは、洗練されたお嬢様。西園寺家の跡継ぎであった。
「ごちそうさまでした。良い宴でした」
深々と、まるで女主人が神様でもあるかのように、千春は手を合わせそのままお辞儀をした。
それを受けた女主人は思わず気持ちがよくなって、満面の笑みでこう答えた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
*
千春が店に入ってから27分数秒の時が流れた。
(もうそろそろですな)
執事の茂山は、左腕に身につけた控えめなシルバーの時計を確かめて独りごちた。……とその時。
ーーガラガラガラガラ……。
店の戸が開く音がする。
それに合わせ、目立たぬようするりと車から降りた執事は、慣れた手順でお嬢様を車に誘導した。
ストン、車の後方座席に腰を下ろした千春は、執事に感想を言う。
「誠に良いお店でしたわ」
「左様でございますか」
「今度は爺もご一緒しましょうよ」
「考えておきましょう」
ここだけの話だが、実は茂山も『みつばや』の出汁の香りに幾分かやられており、密かに腹が減っていた。
だが、そんな事はお首にも出さない。
「ではお屋敷に戻りますぞ、お嬢様」
「お願いしますわ。執事長」
そうして『みつばや』の店先から、ワゴン車が一台発車した。
(おわり)