そいつ
そいつは音も無く突然現れた。
黒々しくテカテカとしていて――これ以上語るのは背筋が凍るほど恐ろしいので止めることにした。
じっとして動かないそいつを見つめながら、自分もじっとして動く事をしなかった……。
これは決して恐怖だけではない。
ただ一目離すだけで、そいつは目にも追えぬ速さで高速移動して行方を晦ましてしまうのだ。本当なら今すぐにでも台所にある秘密兵器を取りに行きたいが、目を離してその場から居なくなる方が自分にとってそいつは見えない恐怖となり怖かった。
だから自分はそいつをこの場で退治する事を決意する。
そっと、気付かれぬよう音を立てずに自分は手元にあった雑誌を丸くすると、ゆっくりと立ち上がって静かに、静かに近づく。そうして射程範囲まで来たら丸めた雑誌を振りかぶり、叩く!
しかしその瞬間、そいつがまるで叩くことを知っていたかのように当然の如く躱した。
目にも止まらぬ速さで逃げていくそいつに自分はすぐさま追撃をかける。だがそれをそいつはいとも簡単に躱し、躱し、躱していく。
中々仕留めきれないイライラの中、そいつの当然の攻撃を仕掛けてきた。あろうことかそいつは羽を羽ばたかせこちらの顔めがけて飛んできたのだ! 自分は咄嗟に顔を右に動かし避けるが、ブウゥゥンという羽音が耳元で鳴り全身鳥肌が立った。
もうこれ以上の戦闘は体力的に、そしてそれ以上に精神的におかしくなりそうだった。
今すぐに決着を着けようと振り返り、そいつが逃げた場所を見て自分はニヤリと笑った。何故ならその逃げた場所とは――台所だったからだ。
冷蔵庫の下の隙間に逃げたそいつを追い詰めるように台所に行き自分は台所の戸棚を開ける。そこには先ほど言っていた秘密兵器――殺虫スプレーがあった。それを手に取ると狙いを澄ますように冷蔵庫下の隙間に向け、思いっきり噴射した。
勢いよく出る白いスプレー、放射状に何度も冷蔵庫下の隙間を往復させる。するとまるで巣を突かれた蜂のように冷蔵庫下の隙間からそいつは慌てて出てきた。
必死でそのスプレーから逃れようと床をジグザグに這って、そしてトップスピードのまま壁へ伝い、人間の届かない場所へ逃ようとする。だが、殺虫スプレーの射程範囲はとても長く、そいつが逃げた天上さえも届き、自分は絶え間なく殺虫スプレーを浴びせ続けた。
すると今まで高速で移動していたそいつは段々と弱り、ついには天井に掴まる力も無くなったのかポロリと天井から床へ落ちた。
裏返りになり、ぴくぴくとするそいつに自分は最後の一撃としてずっと持っていた丸めた雑誌を、
バンッ――
と、叩いた。
こうして口に出すのも恐ろしいそいつに勝利した。が、自分の心は晴れず、むしろ恐怖で染め上げられてしまった。
何故ならそいつは『一匹見たらあと三匹はいると思え』と言われているからだった……。