汗の結晶
朝起きると、再び両矢印を残して、ソーちゃんは消えていた。
家族以外の存在と同居するのは初めての体験だったので、
ホッと緊張が抜けるのと同時に、心細さや人恋しさが帰って来る。
更に寂しいことに、今日はドクターとお別れすると決めた日である。
凪は寿司桶を手に川中に佇んで、最後の別れを惜しんでいた。
流れに逆らいながら、少しずつ川底に去って行く姿。
「・・・もう罠には掛からないでね。」
別れの言葉を贈って、凪は寿司桶を洗う。
今日はこれに水を汲んで帰る。
鍋より容量が大きいので、暫くは川に来なくても困らないだろう。
えっちらおっちらの帰り道。
凪は、はたと塩造り計画の修正案を思い付いてしまった。
(・・・わざわざ海から海水を持って帰らなくても、岩穴にあった陶器を持って行って、現地で作れば良いのでは?)
塩造りは火を絶やしてはならないため、付きっ切りで作業を行わなければならない。
確かに塩釜の使用中も別の作業はできるが、塩釜に海水を満たすために数十分もかかる道を何往復もするのは、今の凪には正直言って無理だ。
何日かかけて溜めても良いが、海は森より収穫が少ない。
海水を取りに行くためだけに時間を使いたくはない。
逆に言えば、道具さえ揃えることが出来れば、現地で生産できるのだ。
焚いている間に浜辺や岩場で漁をすればいい。
足りないのは薪だが、纏めて運べる分、海水より持ち運びがしやすい。
湿っぽい岩穴は保管には向かないが、森の中で濡れない場所を作れば、
現地で薪を作ることも可能だ。
では塩釜改め、屋外湯沸かし装置は何に使うか。
決まっている。麻を茹でるのに使うのだ。
その合間に、お湯で身体を流せたら最高だ。
こうして凪の塩分補充計画は、上書き保存された。
薄い塩味の芋をモグモグしながら、凪は塩造りに必要な道具を準備していた。
岩穴から持ち出した陶器と、セットになっていた穴の開いた蓋。
背負えるだけの大量の薪と、それを束ねる長い木通の蔓。
熱湯を汲み取るためのココナッツの殻。
そして、凪を最も悩ませた、濾過装置だ。
葉っぱバケツの底を緩く縛って漏斗状にし、そこに煮詰めて冷ました海水を入れる。
底には短く削ったココナッツの外皮を敷き詰め、その繊維で濾す作戦だ。
はっきり言って濾過能力は低いだろうと予測している。
現地で副産物として出た灰も使えるそうだが、果たして効果はあるだろうか。
こんな装備で大丈夫か、と自問自答するが、成功すればそれで良し。
失敗すれば改善点が見えるだろう。やって損はない。
いつもの採集装備も整え、凪は「いざ」と海へ出発した。
砂浜に石を組んで簡易な竈を作り、陶器に海水を汲んで、凪は火を入れた。
なみなみと入った水が10分の1くらいに減るまで沸騰させ続けなければならない。
その間、火の様子を見ながら薪を焼べ、砂浜に出る道の途中に薪置き場を作る。
潮風と雨と、濡れた地面を避けることが大前提なので、床を少し浮かせた、
なんちゃって高床式倉庫を作ろうと思う。
薪が乾くまでにかなり時間がかかることを知った凪の、大自然に対するせめてもの抵抗である。
砂浜と森とを行き来しながら、目的に適いそうな場所を探す。
そして凪は、木が2本重なって倒れている場所を発見した。
多分、もう片方を巻き込んだのであろう倒れ方をしていて、表面を整えれば、
凪の腹の高さくらいの、ちょうどいい土台になりそうである。
目線を上げれば、隣の木から2m半くらいの高さに枝が出ている。
これ以上ない程の優良物件だ。
凪は一旦戻って薪を加えた後、倒木の腐り具合を見て、床材として使えるか確認した。下になっていた部分はかなり湿っているが、上半分は使えるかもしれない。
手斧では成形するのに時間がかなり掛かりそうだったが、
取り敢えず、凪は手順を考えることにした。
先ず、折れた2本の木の間隔を蔓で測り、その長さで丸太を切り出す。
次に、丸太を立てて縦に、円を8等分するように割る。
樹皮を剥いで乾燥させ、扇形の柱のような木材ができる。
その尖った部分を下に向けて、高さを整えた土台に打ちつけると、凹凸のある床になる訳だ。
この上で薪を完成させるのだが、雨に濡れないよう覆いをかけておこうと思う。
そこで、ヤシの木の枝葉や、それに近い形の植物を持って来て、根元を蔓で縛り、枝の上に掛ける。単純だが、根気のいる作業になるだろう。
恐らく、今日1日では完成しない。
が、やるしかない。
凪は頬をグニグニして「よし!」と気合を入れた。
何度も行き来している内に、グラグラと沸いていた海水の嵩が減り、白く濁って来た。“知識”先生によると、濁っている成分は塩ではなく苦味の素で、これを濾過して再び煮詰めるらしい。
不安のある葉っぱバケツの出番である。
ここまでずいぶん時間がかかったので失敗はとても怖いのだが、
何事もやってみなければ結果は分からない。
凪は砂を軽く掘って陶器の置き場を作り、薪で挟んで火から下ろした。
陶器が冷えてからココナッツの殻で苦い塩水を掬うので、ここで休憩を取ることにする。
海で小振りな山芋を洗い、小枝を差し入れて残り火に突っ込んだ。
出来れば海の幸も堪能したかったのだが、今の凪には海産バーベキューを楽しめる余裕がない。ので、せめて楽しい食事にしたいと、道々捥いだ柑橘類なのだろう黄色い実を剥く。酸味が強いけれど、疲れた体にはかなり美味いのだこれが。
小腹を満たしながら陶器の温度を確認する。
充分冷えたのを見計らって、凪は作業を再開した。
砂山に底をしっかり縛った葉っぱバケツを2枚重ね下半分まで埋めておく。
葉っぱバケツ漏斗バージョンには、下からココナッツの外皮、竈の中の灰、そして砂を敷き詰める。埋めたバケツの上に左手でこれを持ち、右手で慎重に陶器の中の苦い塩水を掬って、ゆっくり漏斗に流し込んだ。
(・・・上手くいってくれ頼む。)
全ては美味しい塩のため。いや切実に。
胡椒も醤油もない今、味付けは塩のみの日々なのだ。
甘い果実に柑橘類、香ばしいナッツと、サバイバルにしては恵まれていると思うが、塩気が無いと食べ物が喉を通らないのだ。そんな頼みの綱が苦くては、凹む。
凪の希望は薄っすら叶った。かもしれない。
出来るだけゆっくり落ちて欲しかったのだが、苦い塩水は期待していたよりずっと速く落ち切ってしまった。
持って来た飲用水で陶器を軽く洗い、濾過した塩水を入れて観察したが、苦み成分を濾し取れたかは分からなかった。
凪は悩んだ。
舐めてみたが、塩造り初心者の凪には辛いのか苦いのかの判断が付かない。
取り敢えず、家にある物とは全然違う。
ここでこの塩水を塩にするまで煮詰めるか、家に持ち帰り更に濾過を繰り返すか。
凪は、舌に残った味と薪の残量を確かめて、―――肩を落として腰を上げた。
早めに帰って来た家は、まるで日溜まりの中にあるようだった。
毎日、日暮れ前後まで外にいるので、薄闇のヴェールを脱いだ姿が新鮮だ。
周囲の様子も細かい所まで見え、手を付けていない部分が草で覆われてしまっていることが分かった。
昨日見付けた芋畑も、背丈の長い草で隠されている範囲の一部分だ。
(こう、大学の講義が早く終わって、まだ明るいラッキーみたいな気持ち。
色々、やろうと思いつつ出来てなかったことを片付けたくなるんだよな。)
よいしょっ、と声を出して余った薪を暖炉の横に積み上げる。
陶器には次の濾過を待っている塩水が入っている。
砂浜にいたときは気付かなかったが、こうして塩水状態になった物を持ち帰れば、
後は、濾過と、煮詰める作業と、最後の濾過で塩の完成なのである。
海で行う作業は、煮詰めた濃い海水を作るだけで良いのではないだろうか。
凪は自分の判断力に大いに満足した。
怪我の功名も、上手くいった理由を掴めるなら自分の力にできるのだ。
が、残りの作業は夜でも出来る。
明るいうちにやっておきたいのは、草刈りである。
畑の手入れという面もあるが、刈った草にも用があるのだ。
乾燥させれば火口や肥料に使えるし、灰にして濾過の材料にもできる。
時代劇で観たように両手でザリザリ撚れば、冬の間に草鞋を作る真似事を、つまり履物製作の試行錯誤が出来るかもしれない。
計画したなら、後は行動あるのみ。
凪は石ナイフを手に、芋畑と周辺の草を刈りに出た。
積み上げられた草の山から、青草の匂いがする。
住処ごと山に放り出されたバッタが、次の居場所を求めて跳んだ。
何だかとても懐かしい気がするのは、農耕を覚えた人間の遺伝子が、都会っ子の中にもあるからなのだろうか。
根を掘り出した芋の乾燥した蔓も、貴重な資源だ。
乾燥している物は、即戦力になる。
こうして日々、流した汗が、豊かな生活という結晶になるのだろう。
何だか詩人になったような気分だと、凪は思った。




