空の国の宰相
―――『風と雲の共和国』宰相私邸
宰相アラザフィラは、無意識に、忙しなく爪で机を叩いていた。
公の場では決して崩れない、と言われている顔が、苦々しく歪んでいる。
先程、配下の報告を受けてから、軽くはない焦燥感が、彼を不安にさせていた。
長年にわたり解決できていない問題が、目前に迫った国家間の協議で、
再び議題に取り上げられることになったからだ。
そのせいか、配下の前で、つい悪態を吐いてしまった。
苦笑して気遣ってくれた彼には、後でもう一度詫びておこう、と思いつつ、
アラザフィラは、次の一手を考える。
それは、10年前。彼がまだ統領府に入る前の出来事である。
国宝であり、外交戦術の要でもあった『神聖なる蛇の書』が、
国立図書館から、何者かに盗まれる事件が起きた。
もし、これが周辺国に知られれば、国の威信が落ち、安全保障の揺らぐことは
間違いなく、当時の統領府は必死になって、この事件を隠蔽した。
密かに捜索部隊を編成、投入したが、
政権が移り変わった今も、発見には至っていない。
今回の会談相手は、とある海洋国家である。
立国して間もない国家だが、その発展ぶりは驚くほど速く、
新興国としての立場を築きつつある。
つまり、扱いは丁寧に、慎重にしなければならない相手だ。
アラザフィラの頭を痛めているのは、『神聖なる蛇の書』の貸借の話である。
アラザフィラとしては、自ら率先してかの国と関係構築をしてきただけに、
無下に断るわけにはいかず、
さりとて、この話を有耶無耶にし続けるわけにもいかなかった。
長年、請われている内容でもあり、
これ以上、返答を引き伸ばすのは、流石にもう限界である。
(・・・いっそ、秘密裏に捜索を援助してもらうか。
大きな借りと賭けになるが、発見後の貸借を保証すれば、
いい結果になるやもしれん。)
アラザフィラは、相手国の女王と、その相談役の姿を思い浮かべた。
彼女らは、国を興してからというもの、
精力的に、各国に散在する『神聖なる蛇の書』の情報を集めている。
最近では、とある鉱族の部族とも、
それに関して何らかの交渉を進めていると聞いた。
実は、こちらが所有していた『神聖なる蛇の書』は、すでに解読済みであり、
写本や解読書が、数多く存在している。
そして、それらは、新解釈が出るたびに彼らに融通しており、
それを交渉材料にして、かの書の所在を曖昧にしてきた経緯がある。
彼らが、内容を把握しながらも、なお本体を求め続けるのは、
何のためなのだろうか。
(支援の依頼は、その真意を確認してから、か。)
先程の報告時に、すでに探りを入れるよう指示をしている。
またですか、と呆れて言った配下にも、若干は悪態の責任があったかもしれない。
アラザフィラは、止まり木を掴み直した。
止まり木は、しなやかに身体を受け止めてくれた。
その心地の良さは、そのまま弟分の優しさを表しているようで、
贈ってくれたときの嬉しさが蘇った。
この後、統領府から、彼が抜け出してくることになっている。
統領になっても頻回に抜け出しを繰り返すので、初めのうちは小言で対応していたが、その度に「あそこは息が詰まるんだよ、兄ぃ。」と、切実に訴えてくるので、
近頃は何も言わずに迎えるようにしている。
彼の前任として、統領をやった身には、
あの居心地の悪さがよく分かっているからだ。
『風と雲の共和国』は、統領をトップに政を行う、共和制の国家だ。
統領には、一定数の住民の推薦を受けた者が統領戦で優劣を競い、
その勝者が就任する。
任期は2年で、現統領の出場も認められている。
逆に言えば、統領戦に勝てなければ、続投は出来ないということだ。
統領戦はトーナメント式の試合で、実力という名の腕力で勝敗を決する。
年齢不問。すべての国民に統領の資格があるとするのが、この国の特徴だ。
アラザフィラは、7年前に統領の座に着いた。
彼が勝ち抜くまで、その席には、
いつも同じような、体躯の良い氏族が収まっていた。
しかし、惰性で続く政治に、アラザフィラは不満を抱いていた。
未来に、必ず起こる災厄が待っているというのに、
安穏に浸るだけの生活で良いのか、と。
確かに、今の生活を続ける分には困っていない。
出生数も伸び、国外での商売も軌道に乗って、
『風と雲の民』は繁栄しているだろう。
けれど、『その時』は必ずやって来るのだ。
生き延びるためには、進化を続けなければならない。
余裕が出来たなら、更に備蓄を進め、いま困っている他の種族に援助をして、
『その時』に助けてもらえるような関係を作り続けるべきなのだ。
統領府には、その気概も、意思もない。
そう、憤っていた。
当時の統領の任期があと半分になったとき、
耳の速い仲間たちから、情報が寄せられた。
『神聖なる蛇の書』の盗難事件である。
事件のあらましから統領府の対応まで、アラザフィラは情報を集め続けた。
隠蔽が完全に成功したようだと知ったときは、
統領府の腕も馬鹿にできないな、と仲間と笑い合ったが、
このとき、アラザフィラの心は決まった。
すでに、混乱に乗じて、次期統領候補の力を削ぎ始めていた。
悪友たちの情報網を頼りに、有力氏族と交渉を重ね、ついに、総統戦に挑んだ。
すべては、『風と雲の民』のため。
この合言葉は、現統領ワジャにも引き継がれている。
「おっと、早く来すぎたかな?」
わざとらしい声に顔を向ければ、
バサバサと五月蝿く、本棚に着地したワジャがいた。
「無音で降りることもできないのか?どこの子供だ。」
こちらも、わざと渋面で対応する。が、すぐに笑ってしまった。
「・・・なんか、楽しそうだな、兄ぃ。」
「馬鹿者。羽の端に松の葉が付いておるわ。」
慌てて身体を確認し始める様子が、また笑わせてくれる。
そう、この抜けた弟分こそ、現統領のワジャだ。
つい数時間前まで、統領府で顔を合わせていたが、
そこで見たキリリとした表情が嘘のようだ。
当前ではある。公と私的な場の違いを叩き込んだのは、アラザフィラだ。
彼が「統領になる」と言ったときに、
「エルソムの指導に付いて来れたら、認めてやる。」と返し、
結果、彼は見事に、粗野な少年から洗練された青年へと成長してみせた。
「・・・松のある所に行ったかな?」
「・・・弛んでいるな。ここに来る以上、周りには気を付けろと言っているだろう?
しかし、気が利いているな、松葉とは。
・・・さっそく、手土産を確認させてもらおう。」
「えっ、何のことだよ、手土産って。」
「何って・・・、いや、何でもない。さて、打ち合わせに入ろう。」
「兄ぃ、そんな顔で見ないでくれよ・・・。」
ワジャが呟いているが、構っている暇はない。
今日は、かの海洋国家との協議内容について詰める予定なのだ。
執務室の扉を閉め、天窓の覆いを広げ、誰も中を窺えないようにする。
振り返ると、執務机の前の止まり木から、身を乗り出して書類を眺め、
ワジャはスタンバイしていた。
厳つい顔になった今も、こうして昔のままに懐いてくれている、
可愛い弟分の行動は、アラザフィラを落ち着かせてくれた。
深呼吸を一つして、自分の止まり木に戻る。
アラザフィラは、宰相である。
『風と雲の共和国』の未来を担う現統領には、
力強く国を導くことができる、カリスマ性と勢いがあった。
しかし、まだまだ甘さも残っている。
そこを補うことで、統領と国を支え続けるのだと、
アラザフィラは、いま一度、目の前の統領に誓った。
固有名詞が多いので、追記で登場人物紹介します。
”風切り羽” ワジャ・ハ・リヤハ(ハイイロチュウヒ族)
”隠し爪” アラザフィラ・マクハ・フィヤ(ハイタカ族)
”踊れる老貴族” エルソム・ダイラ(トビ族)