森の籠城戦
ゼィ、ゼィ、ゼェー、ハアァー。
凪はゆっくり速度を落とし、歩きに変えた。
喉がカラカラで痛いが、水は昨夜の内に飲み干してしまっていた。
そして、そんなことはどうでもいい。
家に辿り着いてしまえば、またしばらく籠城できる。
せっかく、色々なことが出来そうだったのに、と凪の脳裏に、
ココナッツや麻、塩、そして海の情景が浮かんでは消えていく。
しかし、命大事だ。
臭いを辿って来られる可能性がある以上、暫くうかつに出歩くことは出来ない。
家の中でも出来ることはあるさと、凪は自分を慰める。
見覚えのある倒木を見付け、凪は安堵して涙が出そうになった。
まだ油断はできない。
映画ではこういうところを狙われる。
そう自分に言い聞かせて、凪は歩みよった。
倒木を乗り越え、その向こう側に何もいないことを確認し、
凪は飛び下りようとした。が。
(ヘビ~~~ッ!!おのれ~!)
道の真ん中から、こちらを見つめているものがあった。
泣きそうだ。
何もこんな時に出なくたっていいじゃないか。
これは回り道をするしかない。
毒の有無は分からないが、その攻撃速度は動画で散々見たので知っている。
アレの上を飛び越えることは、ちょっとできそうにない。
倒木の上をソロソロとカニ歩きして、凪は迂回路を“知識”に問い合わせた。
倒木に立つと、草の上を見渡すことが出来た。
少し海側に向かって進めば、行きと同じような獣道があるようだ。
ちなみに、そこの蛇はやはり毒蛇だった。
(捕まえたらマムシ酒に出来るかもって?そんな場合じゃないよ。)
せめて、網やら簡易な刺股やらが作れた後に、挑戦させてほしい。
命からがら逃げているときに出来ることではない。
凪は茂みに次なる蛇がいないことを祈りながら、草を踏み倒して先を急いだ。
出口は、薪割り場の近くだった。
見慣れた家が見えた瞬間、凪はちょっと泣いた。
長かった。
ここまで本当に長かった。
(とりあえず。水、飲ませて・・・)
沸いた鍋の中身が白湯になった頃、凪は引き戸の強化に挑んでいた。
つっかえ棒はあるが、鍵も何もない、本当にただの引き戸だったからだ。
狼に体当たりされれば外れてしまいそうだと、凪は危ぶんでいた。
“知識”に確認すると、
引き戸と、その裏の壁に穴を開けて棒を通す、
鍵を付けるような方法はあるとのことだったが、
今の凪には、それが実現できそうな工具が石ナイフくらいしかない。
時間がかかりすぎるので、まずは別の手を考えたい。
(あのとき逃げた狼は2頭。
引き戸を破られた後、2頭同時に雪崩れ込んでくるのは勘弁して欲しい。
じゃあ、1頭ずつなら?最初の1頭は、弓で仕留められるかもしれない。)
家の中をキョロキョロ見回して、作戦を練る。
もしかしたら、もう二度と襲って来ないかもしれない。
全部、凪の被害妄想で終わるかもしれない。
しかし凪は、家を舞台にした戦を想定して備えなければ、
枕を高くして眠れないところまで、追いつめられていた。
そしてその予感は、的中する。
トロトロと微睡む凪の耳に、グウゥ、という声が入った。
パチリと目を開き、いま聞いたものが間違いではないか、耳をそばだてる。
家には窓が無いので、外が見えるのはドアの取っ手穴だけだ。
(と、思っていた時がありました。)
凪は横たわっていた梁から身を起こし、
屋根の一部、もとい天窓の蓋を持ち上げた。
板一枚分の幅しかないが、十分だ。そこから出入りするつもりはない。
狼め、昨夜の借りを返してやるぞ。と、凪は抱いていた弓を握った。
(追いつめられた凪さんは、狼すら噛むのだ。
ここは俺のホーム。ここなら負けない。)
鼻から息を吸い込むと、木の匂いがした。
嗅ぎなれたこの家の、安心の匂いだ。
落ち着きを取り戻した凪は、視線を家の前に向ける。
角度的に3分の1も見えないが、うろつく1頭が、確かに見えた。
ヴフ、ヴフ、と密やかに声を交わしている。
いると分かれば、行動あるのみ。
凪は梁の上を這って進んだ。
そして、引き戸の上に到達すると、壁を成している板に手をかけ、押し上げる。
家の造りを“知識”に問いかけたのは、そういえば今回が初めてだった。
凪はすっかり、この家のことを知り尽くしている気になっていた。
(まさか、こんなスナイパーの真似ができる家だなんて。)
もぞもぞと穴から這い出し、庇の上に身体を乗せる。
暖炉の火は絶やしていなかったので、戸の取っ手穴から漏れる光が、
狼の姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。
さて、どうしようか、と凪は思案する。
(気付いて警戒される前に一度、射っておこうかな。)
それは本格的な狩り狩られの始まりを意味する。
動く的に弓を引くのも初めてだ。失敗する可能性が高い。
が、狼の動きをただ待っているのも無意味な気がする。
凪は、庇の上をじりじりと、影の出ない際まで進んだ。
(引き戸の裏に細工も出来たことだし。
悪いけど、この戦争は、俺のタイミングで始めさせてもらう。)
狙いを付けて引いた弦が、ギリ、と音を立てる。
狼に音を聞きつけられる前に、凪は手を離し、
シュッという矢羽の音に勝負の行く先を委ねた。
―――キャンッ
飛び退いた影と、飛び跳ねた影。
次の矢を用意しながら、様子を窺う。
―――ヴフッヴフゥッ
―――グゥヴゥ
どうやら片方に当たったようだ。
森に身を隠そうと、下がって行く気配がする。
冗談じゃない、と凪はもう一度、矢を放った。
ガッと木が削れたような音がして、凪は的から外れたと考える。
軽く足を引いた影は、完全に森の陰に入ってしまった。
そして、先程から引き戸をガタガタと揺らす音がする。
矢が当たらなかった個体だろう。
ゴトン、と重い物が落ちる音がして、凪はつっかえ棒が外れたことを知る。
急いで庇の上から引き戸の上の梁まで戻る。
ここからが本番だ。
バリバリと、狼が引き戸に爪を立てている。
凪は引き戸が少し開き始めたのを見て取った。
狼もそれに気付いたのか、隙間に鼻を突っ込んで抉じ開けようとしている。
凪は梁にうつ伏せになって、矢を握った右手で引き戸の上部に触れ、
ドン、と殴って音を立てた。
そして、狼の鼻が引っ込んだ瞬間に、引き戸を一気に開いた。
(驚いただろ?)
上から開いた引き戸の外を見る。
凪は、狼の姿がその前から消えたことに不安を覚えつつ、作戦通りと頷いた。
そのままの姿勢で、狼が訝しがって姿を見せるのを待った。
やげて、鼻を鳴らして臭いを確かめながら、狼が姿を現した。
狼を慎重にさせている理由はこれだ。
仕掛けその1。引き戸のすぐ後ろに積んだ、高さ1mの麻の束。
横からは入れないように、机と椅子で引き戸の左右に押し付けてある。
この1mというのは絶妙な距離だと凪は思っている。
助走をつけて越えるには楽だが、その場からのジャンプでは、
ちょっと本気を出さないと越えられない高さだと思う。参考は家の犬だ。
引き戸の前は幅80cm程のテラスになっている。
手すり付きで、よくアメリカの映画に出てくる造り。
要するに、助走は出来ないけれども、
ちょっと頑張れば飛び越えることの出来る高さを作ったのである。
(ちょっと頑張れば有り付ける餌なんて、俺でも我慢できないだろうな。
さあ、食い付いて来い!)
狼の脚に力が入った。
ここ、と凪は梁にセットしておいた次なる仕掛けを投入した。
狼が飛び込んでくるその鼻づら目掛けて、いくつもの薪が飛んだ。
正確に言えば、引き戸の上の梁と太い薪を蔓で結んだ、振り子ハンマーを、
狼が麻の上を通過するタイミングで、上から落として当てるだけのものだ。
―――ギャンッ
(どうだ!現役の大学生の頭は、賢いだろう!)
上手くいったことに、ほくそ笑む凪だが、そう笑ってもいられない。
仰け反って戸の向こうに下がった狼に、止めの1発を入れてやらなければならない。
凪は梁の上から身を乗り出し、右手の矢を素早く番え、弓を引いた。
矢は狼の右肩の下に当たり、転がった。
(毛皮?!毛皮か、ちくしょーっ!)
矢は残り2本。
これまで全て外していないことを考えると、
素晴らしいビギナーズラックだったのかもしれない。
そう考えている間に、凪は梁の上から引き戸を閉める作業に入っていた。
矢が入らなかった時点で、この作戦は失敗だ。
次の手を考えなければならない。
速く、と焦る手に、ドンッと衝撃が伝わる。
狼が再び引き戸を破り始めたのだ。
後20cmというところで、狼の頭が入った。
(しまった!入られ・・・・・・あれ?これチャンス?)
このまま絞めてやろうか、動けない状態で射ってやろうか。
右膝で引き戸を必死に抑えながら、矢筒から矢を引き出す。
が、モヤシな脚の筋肉は頼りにならない。
(くそぅ。半月も川の往復してるんだから、
もうちょっと立派になってくれたっていいだろうにさ。)
ガタガタと開き始める戸。
凪は必死に弦を引き絞って、放った。
―――ギャアァンッ
ドンドン、バリバリ。
かなり暴れているようだ。
右目を貫かれて、喉を戸で抑え込まれ、口を開けて、―――
(あれ?死んでるんじゃない、これ?)
膝の筋肉も、限界とばかりにプルプルしているが、そんなことは言ってられない。
凪の脳裏に、先程、森に身を隠した1頭の姿が浮かんだ。
(さっきみたいに毛皮に邪魔されて、軽症で済んでいたんだとしたら、
このドンドンはもしや・・・・・・!)
恐らく最後の1頭が、仲間を助けに来たのだろう。
しかし困った、と凪は思う。
家の中に入られたときの戦い方もシミュレーションはしていたが、
なるべく家の中での戦闘は避けたい。
壊して欲しくない物ばかりだし、矢も残り1本。
それが尽きれば、1対1の乱戦で、頼りはナイフだけになる。
テーブルは戸に寄せてあるので、床でドッタンバッタン出来るが、
狼と正面切って戦うとか、少年漫画ではないのだから、止めて欲しい。
そんなことをツラツラ考えていると、不意に膝が軽くなった。
―――ガウッグウゥゥゥッ
―――キャンッグアァァアッ
―――ガウッ
―――ガッ
―――・・・・・・
(え?何?外で何が起きてるの?)
耳から入った情報だけで察するに、戸の前にいた狼を何かが引きはがし、
そのまま戦闘に入った、というところだろうか。
(・・・)
ある。
考えるのも嫌だし、想定もしたくないが、一つだけ心当たりがある。
(あのサソリが、家まで来たってのか?!)
だとしたら最悪だ。
もうこれからずっと家に籠らなければならない。
毛皮さえ通らなかった凪の矢が、あの硬そうな体表に通用するとは思えない。
とにかく、戸ピッシャンしなければならない。
そのためには狼の頭が邪魔だ。
その前に状況の確認だ。
凪は意を決して、ヒョイと上から引き戸の隙間を覗き見た。
そして、
驚きの速さで決断。
ぶら下がったままの振り子ハンマーの蔓を掴んで梁から飛び下り、
狼の頭を蹴り出して、ピシャンと戸を閉め、
つっかえ棒と麻の束の設置を厳重にやり直した。
(いた!マジでいた!手、じゃない鋏振ってた!)
それから、もう一度ハンモックから梁によじ登り、
庇の上から状況を確認しようと匍匐前進する。
見下ろすと、そこには驚きの光景が広がっていた。
明るい室内から出たせいで、まだ夜闇に目が慣れないが、
テラス左の階段を降りた、その右手。
早い話が、家の前に、こんもりと小さな山が出来ていたのである。
何の山か。
見ればわかる。狼と狼と狼と狼と狼と、鹿肉だ。
その横に、あのサソリが鎮座している。
暗闇に溶け込んだサソリは、凪にとって恐怖でしかなかった。
隊長は1m以上あるだろう。
横に並んだ鹿肉と同じくらいなのだから、間違いない。
持ち上げられた針の付いた尾も、同じくらい長いに違いない。
前を通ろうものなら、瞬殺される。プスッといかれてお終いだ。
(もしかして、ここも危ない?)
庇の上にも、もしかしたら届く何かを持っているのかもしれない。
凪は背筋を震わせて、ただ見ているしかできなかった。
―――ギューゥ
凪はその音にビクッとして、慌てて腹を抑える。
恐怖の中でも腹は減るらしい。
(何もこんな時に鳴らなくても!)
気付かれたか、と冷や汗の出るまま見下ろすと、
サソリはまた鋏を振って、鹿肉を掴み、歩き出した。
そしてテラスに足を掛ける。
マズイ、と凪が行動を起こす前に、サソリはさっさと引き戸に辿り着き、
―――鹿肉を引き戸の前に置いて、元の場所に戻って行った。
(え、え?どゆこと?)
サソリの気持ちになってみる。
目の前の相手が腹を空かせていそうだったので、餌を持って行く。
(気を引こうとしてるか、餌でおびき寄せるかだな。うん、判らん。)
下手に関わらない方が良いだろう。
母との約束その二、トラブルに遭わないよう行動すること。
(・・・この約束、守るの大変だわ母さん。)
取りに行ったら襲われるかも、取りに行かないと機嫌を悪くさせるかも、等々。
ひたすらトラブル続きの凪は、
家にサソリが押し入って来た時の対処法をグルグル考えている内に、
庇の上でウトウトと微睡みの沼に嵌ってしまい、そのまま寝入ってしまった。




