ロッジ暮らし
暖炉の中で沸騰している鍋の中身を見ながら、
凪は自分の身に起きたことを反芻していた。
家の住人は、まだ帰ってきていない。
戻ってきちゃった、と家に入ったときの気恥ずかしさはさておき、
今の自分の状態は、まさに異常である、と再認識したのだ。
(だって、語学留学のために飛行機に乗って、飛行機のトイレで気を失って、
気付いたら森の中で薪を割ってたんだぜ?
・・・どこのラノベですか、このやろー。)
すでに日が落ち、外は真っ暗になっている。
森が、家のすぐ側まで迫っているかのような、錯覚がする。
薪割りの音は、ずいぶんと大きかったはずだ。
山彦のように、森の中で音が反響していたのだから。
にも関わらず、この時間になっても、誰も来ない。
まるで、本当に自分一人だけが森にいるようだ。
パチリ、と音がして小枝が爆ぜた。
凪は、棒を2本使って、菜箸のように鍋を混ぜる。
中身は、今朝見付けた、あの塩漬け肉である。
少量の水を沸かして、それで煮るだけの料理だ。
味付け?腹に入ればそれでいいです。
何の肉かは知らないが、鶏肉ではなさそうだ。
見たところ、牛や豚の肉に似ている気がする。
料理の経験がほとんどない凪には、判別など出来ようはずもない。
でも、何か野菜がほしいなと主夫ぶる、今日この頃の凪だった。
鍋を火から下ろしてテーブルに乗せると、凪の腹の虫が、再び騒ぎ始めた。
熱くてまだ手が出せないが、とりあえず手を合わせて、お肉に挨拶をする。
いただきます。
考えれば考えるほど、困惑する状況である。
いま、凪は壮大なる仮説を立てていた。
(飛行機で何らかの事故が起こり、俺は意識を失った。
飛行機が無事だったかはわからないが、とりあえず俺は無事に地上に降りた。
しかし、何らかのショックによって記憶を失い、
森の中でサバイバルすることになった。
そして昨日、薪割り中に記憶を取り戻した。
うん、本が一冊書けそうな内容だ。日本に帰ったら書いて稼ごう。
タイトルは、そうだな、二十一青年遭難記?)
今は、これ以上の考えは思い付かない。
スープは塩辛かった。
が、汗をかいた後の塩分は、格別だった。
温かさにホッと息をついた凪は、
例の感覚について考えられるほどの余裕を、取り戻していた。
『ここでの生活を教えてくれる閃き』のことだ。
あるのは助かる、が、得体の知れないものが自分の中にあるというのは不安だ。
まあ、無いと泣くしかなかった訳だが。
普通、体得した技術には、得る理由や過程がついてくるものじゃないだろうか、
と、凪は思う。
脳のことなど難しいことは知らないが、
[食べ物に困ったから、芋を作る方法を習得した]だとか、
[そのままじゃ食べられなかったから、火を熾して焼いた]だとか、
技術とは、何かしらの必要に駆られて、身に付けてきたものであるはずなのだ。
そういった、[森の中で生活していたから]、その方法を得た、という、
記憶を一切持たず、生活方法だけ知っているなんて、おかしい。
(うん。誰に言っても、頭打った?としか言われないだろうな。)
今日はよく働いて疲れたし、早く寝たい。
寝たい、が、身体が汗でベタベタしている。
服の替えなどないし、身体を水で流すくらいはしたい。
凪は、大甕を見て溜息をついた。
その中の水を使って体を拭けばいい、と思い立ったのはいいが、
拭く布がない、と気が付いた。
布といえば、例の床下収納庫の上に設置してあった箱に、あった気がした。
そして、箱から取り出して悩み始めること5分。
布は、バンダナほどの大きさがあったが、1枚しかなかった。
凪は、洗う用と水分を取る用に、2枚以上、欲しかった。
幸い、しっかりと目を詰めて織った、麻のような触感の布である。
汚れも取れそうだし、水分も吸ってくれそうだ。
(手で洗えだって?バッカ、このベタベタが手で落ちるかよ!)
だがしかし、この布。
手に取ると、あまりの薄さにゴシゴシやるのが心配である。
きっと、何回も使えないだろう。
それはあまりに勿体ない。
今後、布を手に入れられる保証もないし、どうやって得るかの見当もつかない。
それに、他人の物を勝手に使いつぶす人間にはなりたくない。
まあ、すでに色々と泥棒してしまっているが、
住民に会えたら現在地も分かるし、現在地が分かれば帰り方も考えられる。
帰ったら、食料も新しいタオルも、使った倍の量で返せる。
・・・薪が、都会のホームセンターにあるかは疑問だが。
しかし、よく考えると、汚れを取ることよりも、
身体の冷えを予防することの方が大切だ。
凪が、いつ、この森にやってきたのかは分からないが、
飛行機に乗ったのは初秋だった。
この森の中も、同じように朝晩が冷える。
濡れたまま暖炉の前で震えるのはごめんだ。
ロッジの中に、水を流せる場所がないのは、もう知っている。
つまり、外での行水だ。
もっと早い時間帯に、気付いていれば良かった。
赤い暖炉の中で、薪が燃えて崩れる音がした。
急いで追加を足す。
薪も無駄に出来ないことだし、早く覚悟を決めて身体を洗わなければ。
夏より冬が苦手な凪は、思いつめた顔で大甕に桶を突っ込んだ。
冷たい。やっぱり冷たい。萎えた。
これを被るくらいなら、臭いままでいい気がしてきた。
(いや、がんばれ俺!服だって着の身着のままなんだ。
汚れたまま放置するのが、衣類を傷める一番の原因なんだ。
ここで行水ついでに、服も洗おうって決めたじゃないか!)
中学時代に、母からよくもらった小言である。
意を決して、暖炉の前で服を脱ぐ。
こういう覚悟が必要なものは、勢いが大事なのだ。
あっという間にフルチンになった凪は、走って行って桶を掴み、
そのままの姿でロッジを飛び出した。
ちまちまと水で身体を流し、手で洗う作業は、もはや自殺行為だった。
凪は、修験者が真冬に行う、滝行のようだと感じていた。
(なんて苦行!
・・・待てよ、こうしてる間に住民さんが帰ってきたら、
俺、ただの変質者じゃね?うわ・・・恥ずかしい。
顔が熱い。・・・あ、冷たいのがちょっとマシになった気がする。
逆に気持ちい・・・、待って待って、何のプレイ!?)
寒さと不安と焦燥感と、羞恥心の波に揉まれながら、
凪は必死に手を動かしていた。
そして、桶の水が尽き、身体をあらかた流し終えた凪は、
ハイ、終了!と、ロッジに飛び込んだ。
しっかり戸締りをして、誰からも見られないようにする。
桶をその辺に置いて、布を引っ掴み、暖炉の前に陣取った。
先程から、ずっと歯の根が合わない。
ガチガチ、ガタガタと騒がしく、ただ温もりだけを欲する身体が、
待ち望んだ暖炉の恩恵によって、解きほぐされていく。
ぽたぽた垂れる水を、がむしゃらに拭う。
温もりと解放感に、しばらく、ぼおっとしていたが、
服を洗って、この身体と一緒に乾かすつもりだったのを思い出した。
まだ仕事が残っていたと、凪はうんざりするが、仕方がない。
ここには、着替えもなけりゃ、洗濯機もないのだ。
程よく身体が温まったところで、再び桶に水を入れて持ってくる。
まずはパンツだ。
小さい上に、一番汚れを取りたい物である。
冷たい水にも慣れ、凪は無心で手を動かした。
さっきの苦行が、煩悩を流してくれたかのように、
凪はひたすら、パンツを、シャツを、洗った。
ズボンも洗おうかと思ったが、大きいので今夜中に乾くか分からなかったのと、
お腹をこれ以上、冷やしたくはなかったので、止めておいた。
一息にしなくてもいいものも、この世にはあるのだ。
霜焼けのように真っ赤になった手を火にかざすと、ジンジンした。
凪の表情は、もはや無になっていた。
これを毎日するのは耐え難い。
昔の人は、凄かった。
どんなに冷たい日でも、川やら井戸やらで、洗濯桶と洗濯板を手に、
衣類を洗っていたのだ。
現代っ子の凪には、辛い作業だった。
しかし、昔の人のような身体と根性がなくても、凪に有るものがある。
知識と知恵だ。
先人の積み上げてきた経験を、技術として使うことが出来る。
まあ、これらも先人あってのものだから、
先人を前にしたとき、胸を張って言えるものではないが。
けれど、効率的な順序を練ることは出来る。
(まず、寒い季節は、日が出ている間に、お風呂もとい行水をする。
温かい方が、脂汚れが落ちやすいから、よりキレイになるし、時短にもなる。
服は日中に使う物だから、汚れの具合を見て、夜にする。
・・・いや、もしかして行水しなくても良かったのか?
布をしっかり絞ったら、暖炉の前で体を拭けたんじゃ・・・!)
凪は、思わず、パンツを干していた手を止めてしまった。
フルチンが、寒かった。