凪の戦い
一番ぼぉし、見ぃつけた。
口の中で歌う。
残照が、遥か彼方に消える。
足元の狼は、4頭に増えていた。
置いて来た内臓の方に行ってくれればいいが、
それでは、危機が去ったという確信と安心は得られそうにない。
野生動物の待ち伏せは、人間の想像を超えているだろう。
ならばここで、粘れるだけ粘って、身体能力を見てやろうと思ったのだ。
いま襲って来ないということは、この高さには届かないということなのだろう。
凪は、なるべく狼たちを消耗させようとしていた。
追いかけられたとしても、向こうの体力が無ければ諦めてくれるかもしれないし、
戦うとしても、筋力が弱まってくれた方が、助かる可能性が高いのだ。
失礼なことしてゴメンなー、と凪は木通の種をその顔に向けて飛ばした。
これが結構効くらしい。
ウォウッと吠えて、木の幹をガリガリしてくる。
1粒では反応がイマイチだったので、今は10粒ほど纏めて投げている。
先程、トイレに行きたくなって、我慢できずに木の後ろに回り、
上から用を足したのだが、そこに丁度、凪を追って来た1頭がいて、
まさしく火に油をかけてしまった。
心底、悪かったと思うが、トイレにまで付いて来たそっちも悪いと思う。
木通は美味しい。
栄養も水分も取れるうえ、その種で挑発も出来る。
食べれば幸せ、しかも荷物を減らせる。
一石が何鳥にもなる、素晴らしい植物だ。
早く芽が出ないかな、と凪は家の前に蒔いた種のことを考えた。
そして、手にした蔓からブチブチと葉を千切り、鹿の内臓が収まっていた部分、
ポッカリ空いた腹の中に落とす。
蔓はロープとして使う。葉は、焚き火用だ。
思い付いた自分を褒めてやりたい。
真っ暗な中、狼と戦うのは圧倒的に不利だ。
向こうは凪の何倍も鋭い、視覚と嗅覚があるのだから、
一方的に嬲られて終わりである。
人類の武器その2は、火だ。
燃料が無いため長時間は燃やせないが、
松明を作ることが出来れば、大いに牽制の道具になる。
(しかも、肉も一緒に焼けるっていうね!)
肉を狙うのは獣だけではない。虫も細菌もだ。
多少燻しておいた方が、味は悪くとも安心だ。
戦っているときに肉に気は配れないので、暫くは樹上に放置することになる。
蔓から葉を全て落とした凪は、とある仕掛けを作ろうとしていた。
手を伸ばして、毛皮から切り落とした鹿の前足を取る。
石ナイフで表面を引っ掻き、結んだ蔓の隙間に挿し込んだ。
傷を作ったのは、その方が血の味がして美味しいのではなかろうかと思ったためだ。
凪には生肉の良さは分からないが、狼さんならそれを知っているはずだ。
仕掛けは簡単。
要はロープの端に餌を付けて、もう一方で投げ縄を作るのだ。
カウボーイが振り回しているアレである。
狼の体重ではビクともしなさそうな枝を樹上から選び、そのロープをかけ、
端と端を合わせれば、完成だ。
狼が餌に喰いついたときに投げ縄を引いて輪を絞ることで、縊ろうという作戦だ。
ちなみに、基本的な製作方法は“知識”から引き出した。
(悪く思わないで、っていうのかな。こんな時は。
でも、俺も齧られたくないんだよ。・・・狼は、どんな味がするんだろう。)
いけない。とんだ食いしん坊だ。
せめて毛皮を取るだけにしておこう。
獲らぬ狼の皮算用、と呟いて、凪はロープを枝の先に巻き付けながら、
その長さ調節をした。
「よし!」
準備は出来た。
さあ、いざ。と腰を浮かせて。
「・・・ごめん、もっかいトイレ。」
凪は中座した。
プルプルと震えながら凪は元の位置に戻って来た。
うっかり足を滑らせかけたのだ。
もはや薄っすらとしか見えない闇の中は、一歩踏み出すのも冒険だった。
挑発された、と再び狼たちが騒ぎ始めるのを聞いて、凪はうんざりした。
(そろそろ、付けるべきだな。)
手近な細枝を折り、細かくしながら鹿の中に追加する。
(・・・頼むから燃えてくれよー。)
そして、小さめの火打石を取り出し、カチカチ打ち始めた。
大事なのは、乾燥している部分を狙うことだ。
凪は、木通の葉を重ねながら、燃えやすい形に整えていた。
それもこれも、日頃の成果である。
火花が、葉に止まった。
急いで、細く長い息をかけ続ける。
それは、凪の希望を表すかのように、―――灯った。
照らされた周りの状況を見て、凪は息を呑んだ。
「増えたー。」
狼は6頭になっていた。
口周りが赤いのは、恐らくあの内臓を食べて来たのだろう。
凪はチラリと火を見た。
あまり時間はかけられない。
再びこちらに興味を示している狼を見やって、凪は蔓を手にした。
膝が笑っている。
(けど、そんなの関係ねえっ!)
手にした縄に願いを託し、凪は、釣りを始めた。
スルスルと、輪の中を通って下ろされる鹿の足。
警戒する狼の鼻の前で揺らしてやる。
ジャンプして届くか届かないかのギリギリを見定めて、だ。
(一瞬だ。勝負は、一瞬。)
目を皿のように見開き、今誘っている個体以外が食いつく可能性も考えて、
群れ全体を見るようにする。
―――ォウゥゥゥ
―――ガウッ!
何やら相談している、と思った瞬間。
「来たっ!」
1頭がジャンプして食らいつこうとする。
ビクッとして揺れた手の動きが伝わり、ロープが揺れて、
狼の口から逸れてしまった。
イヌ科の生き物は賢い。
犬が猫じゃらしで遊べないのは、玩具から、操っている手、その手の持ち主と、
注意を向けることが出来るからだという。
(まだ、いけるか?)
冷や汗が流れる。
まだ騙せるか?
もう一度手順を思い出し、意識を集中する。
「来い・・・来い・・・。・・・!!」
跳んだ。
手の動きを抑える。
そして、ギッと音がして、枝に巻いていた蔓が伸び切ったことを知る。
今だ!と、凪は上げていた投げ縄の部分を落とし、狼の首にストンと落とした。
―――ギュッ
手にした蔓を引っ張り、輪を引き絞る。
腕に狼の体重がかかるが、思った程ではない。
何が起こったか分からないせいか、締めあげられて顎が動かないせいか、
狼が鹿の足を銜えて放さないおかげで、そちらの蔓にも負担が分散しているようだ。
ならば、もう怖いものは無い。
凪は、鹿との戦いを思い出して、時間が味方に付いてくれることを願った。
まさか、狼を倒す日が来るとは思わなかった。
凪は荒くなった息を整えようと、大きく空気を吸い込んだ。
(落ち着け、まだ1頭だ。)
仲間がどうにかされたことは分かったのだろう。
残る5頭が警戒を顕わにしている。
凪はチロチロと小さくなった火に、枯れかけていた枝を細かく裂いて投入した。
あまり大きくしてしまうと、すぐ上の枝に燃え移ってしまう。
気を付けなければならない。
しかし、煙たい。
木の内側に煙がこもってしまい、このままでは自滅しそうだ。
そろそろ下を直接照らしてもいいかもしれない。
凪は真っ暗になった森を見回し、
腕半分の長さの、上半分に葉が残った枯れ枝を、火に突っ込んだ。
小さな松明だが、下を見る分には足りるだろう。
火の移った枝を、小川の砂利に向かって投げる。
近くにいた狼が、サッと避けたのが、影で見えた。
眼が、明かりを照り返してギラギラと輝き始める。
(・・・どうしよう。)
しまったと思う。
計画では、吊るした狼を持ち上げてロープの先を切り、
投げ縄を再利用するはずだったのだが、予想以上に重く、持ち上がらないのだ。
足場が悪いため、力が入らないのも理由の一つだろう。
無理をすると、落ちてしまう。
枝を膝で挟み、鉄棒の要領で枝にぶら下がって、
ロープの先を切ろうかとも考えたが、
あまりに危険な行動のため、二の足を踏んでいる状態だ。
―――ゥウォウッ
ギチッという音に目を向けると、だらりと狼を下げていた蔓が、
ブルブルと動いていた。
何をしているのか、と下を覗いた凪は焦った。
狼が、仲間の死骸を足場にこちらに来ようと、何度も飛び上がっていた。
幸いにも、その跳躍では凪に届きそうにないが、
これで蔓の回収が更に難しくなってしまった。
(怖いよぅ。この状況、めっちゃ怖いよ。)
逆に、見えるようになったことで、恐怖が増してしまった。
あの登ろうとしている狼を振り落としたい、と思ったところで、凪は閃いた。
狼の死骸という錘の付いたロープを、振り回してやれば良いのではないかと。
そうすれば、狼の足場を奪うことも、勢いをつけた錘で攻撃することも出来る。
しかも、揺らすだけなので凪の負担は少ない。
支点になっている枝が心配だが、荷物や鹿肉は別の枝に掛けてあるので、
最悪折れてしまっても、ロープを失うだけだ。
いや、ロープの損失は大きい。が、命の危機に直結するものではない。
凪は覚悟を決めて、揺れるロープに手を伸ばした。
「このやろ!このやろ!」
ブランコのように大きく揺れる狼の死骸。
凪は、チョロチョロ動き回る影に当てようと、
身を乗り出してロープを揺らしていた。
太い枝があったおかげで攻め続けられる、と凪はこの木に感謝する。
「おりゃっ!」
―――キャンッ
確かな手ごたえを感じ、とうとう当てることに成功したと知る。
しかし、傷というには程遠い、
ただ少しの体力を使わせただけだということは分かっていた。
ハァ、ハァ、という呼吸音で、息が上がっていたことを自覚し、
凪はロープから手を離した。
グラングランと、振り子運動を続けるロープ。
(・・・疲れた。何か、無駄な運動をしただけのような気がする・・・。)
下に落とした小さな松明も燃え尽き、隣の鹿肉の中も僅かに赤が残るだけだ。
(消耗したのは向こうも一緒か。
でも、元々持っていた量が段違いだから、一緒だと考えちゃダメか。)
狼からすれば、凪は牙の届かない所にいる獲物。
諦めなければ、いつかは手に入る持久力が勝負の戦い。
凪からすれば、狼は取り除く術が無い脅威。
諦めてもらうか、劇的な反撃手段が手に入らない限り、生存の可能性が低い撤退戦。
(反撃。・・・弓矢?でも、狼に当てられる自信なんてこれっぽっちもない。
・・・・・・じゃあ、当てられる状況を作れば良いんじゃない?)
凪の脳裏に、先ほどジャンプしてきた狼が浮かぶ。
空中なら避けられない。
しかも、こちらを狙っているから頭まで一直線に狙える。
ブルリと背筋に震えが走る。
脅威を減らせる歓喜か、生き物を手にかける恐れか。
(でも、やってみよう。何もしないより、ずっとマシだ。)
留学だろうがサバイバルだろうが、行動することが何より大切だ。
揺れ動く幅が小さくなってきた振り子。
その動きが止まって、もう一度、跳躍してきたときを狙う。
チャンスは、おそらく一度。
危険を感じたら、もう近付いて来なさそうだ。
遠巻きに様子を見られて、凪の持久力が尽きて降りてきたところを襲うだろう。
凪は手を伸ばして矢筒を背負い、
弓の弦を張り、しならせ、指で軽く弾いて張り具合を確かめた。
下を見ると、振り子に近付いてくる影があった。
体勢を整え、矢を1本抜いて弓に添える。
狼は、なかなか来ない。
固唾を呑む凪は、挑発が必要なのではと思い付いた。
が、いま目を離す訳にはいかない。
(あ、そうだ。・・・バッチくってごめん。)
振り子の先に触れるか触れないかのところで、凪の様子を窺う狼。
その顔に向けて凪は、ペッと唾を吐いた。
―――グルルルルゥ
低い声と共に、鼻に皺を寄せるのを見て、凪は挑発に成功したと知る。
身を屈める狼を見据え、凪は弓を軽く引き絞った。
(!!)
ついに跳躍、と思ったが、然程の高さが出ず狼は着地する。
凪は先程と同じ個体かを毛の色で確認し、もう少し跳べるはずだと応援する。
(・・・頑張ってくれよ?俺も頑張るからさ。・・・真剣勝負だ、来い!)
こんな状況だからこそ、ゆとりは必要だ。
何か俺、格好良くない?と、多少酔いながら待ち構える。
(もっと燃料が必要かな・・・)
構えを解いて、取っておいた鹿の足を掴み、
後ろで様子を見ていた群れに向かって、投擲する。
もちろん、当てるつもりの全力投球だ。
―――キャゥッ
―――ウウォウゥ
ざわつく外野。
そして狙い通り、凪の眼下の個体は、敵意を燃やしてくれたようだ。
先程より沈む身体。
凪は弓を構え、相手から見えるように身を乗り出した。
再び引き絞る、そのついでに、小声の歌も添えてやった。
「Hey,you. What’s the matter? What are you afraid of?
You forget something important. Why don’t you run your heart?」
狼は哮り、1歩で距離を詰め、2歩で死骸を踏んで、
―――その眉間を射抜かれた。




