狩る者、狩られる者。
休憩後、凪は“知識”の示すまま、この先に流れているという小川に向かっていた。
凪がいつも使っている川の支流になるらしく、
道に迷っても、最悪それを辿って行けば、川に出られそうである。
(良かった。ちょっと道に自信なかったから、助かった。しっかし・・・、)
「おっもい・・・」
ズルズルと、後ろ脚を両手で持って引き摺っている鹿が、かなり重い。
(でもそれだけ、身が詰まってるってことだもんな。)
「頑張れ、俺。」と、呻きながら進む。
相変わらず生い茂る草を、踏み倒すのも疲れたが、辿り着かなければならない。
それは、血の臭いのためだ。
狩った物は、ただちに処理しなければ、すぐに傷んでしまうらしい。
ただ、家の側で解体を始めると、
その臭いを嗅ぎつけて獣が寄って来てしまうのだとか。
家から離れた場所で、かつ解体しやすいのは、その小川だと“知識”が言うので、
凪はウンウンと、こうして運んでいる訳だ。
(そういえば、“知識”には、俺が出来ないことも、あったな!)
目的地まで、あと100m程である。
進むにつれて、何となく、細流も聞こえてきた気がする。
目の前の低木を避け、横を通ろうと草を踏み折った、そのとき。
視界が明るくなる。
1歩、2歩、3歩、と進むと、足元に草が無くなった。
幅は1mくらい。
深さは、足の甲がつかるくらい。
狭いが、砂利で覆われた場所もある。
小川が、あった。
鹿を砂利の上に転がし、しばし休息を取った後、
凪は解体を始めることにした。
石ナイフでは切れ味が悪いので、普通のナイフに頑張ってもらう。
肉を削ぎ落とすのは石でも出来るが、皮を裂くのは難しいだろう。
鹿の眼に突き刺さっていたままにしていた矢を引き抜くと、
かなり深くまで入っていたことが分かった。
恐らく、抑えている間に食い込んでいったのだろう。
凪は、まず血の付いた石ナイフと鏃、それから手を洗うことにした。
汗や血でベタベタになっていたものが、綺麗な水で洗い流されていく。
ふと身体もべた付いていることに気付く。
今まで夢中になって、それどころではなかったという証拠だ。
身体は洗えないので、手で水を掬って、せめて顔を洗っておく。
それだけでも、生き返ったような気がした。
いつまでもこうして涼んでいたいが、そんな訳にはいかない。
“知識”の教えによると、解体手順その1は、獲物を吊るすことだ。
前後の脚を伸ばせば、凪の身長を優に超える鹿を吊るすのは、
難度が高そうだが、やるしかない。
吊るしても折れなさそうな太い枝を持つ木を探す。
鹿に出会う前に採取した木通の蔓を使う予定だったが、そこで嬉しい誤算があった。
目当ての木に、もっと丈夫な蔦が絡んでいたのだ。
枝の先から解けば、その枝に鹿の足を括り付けやすくなる。
凪は気合を入れ直して、何度目かの木登りを始めた。
鹿の両足を開いて固定するのは、重労働だった。
結ぶだけでは滑り落ちてしまうので、足の筋肉と骨の間に穴を通し、
枝を突っ込んで広げ、そこに蔦を通したのだ。
今にも落っこちそうで、不安だ。
そのときはそのとき、と割り切って、凪は次の行程に入った。
洗浄である。
動物の毛皮には、ダニやらノミやらが付いている。そういうものらしい。
それをまず洗い落とさないと、解体中に肉に付いてしまう。
そんなものを食べたくはない。
凪は小川から葉っぱバケツで、せっせと水を汲んでは洗った。
気が遠くなるような回数をこなし、蔦に生っていたブドウで疲れを癒しながら、
凪は頑張った。
納得するまで洗い終わると、日が少し傾いていたのが分かった。
一息入れる間もなく、次の行程に移らなければ、暮れてしまう。
ここから先は“知識”にフルで働いてもらう。
まあ、手を動かすのは凪なので、休むことは出来ない訳だが。
(まず喉を、少し横から切り開きますー。・・・よいしょ。)
肉と認識してしまえば、刃物を突き立てることに躊躇いはない。
(次に罠猟したとき、肉と思って見れば、気持ちは楽になるんだろうか。)
それを考えると、今回はなかなか良い体験をさせてもらったと思う。
いざというときの心構えは、言葉で伝えられても分からないものだと、分かった。
(あった。これがその管か。)
鹿の喉にある管を、千切れにくい草を使って、何か所も縛る。
以前から、釣り糸代わりに使ってきた草だ。
水辺には、かなりの確率で生えているので、重宝している。
(続きまして、お尻の穴。・・・の管を取り出して、縛る。)
触りたくない場所だが、致し方ない。
喉と同じように、管を縛った。
それからは、上から下に、肛門から喉まで、腹部の皮を裂いて、剥いでいく。
内臓は傷付けてはいけない、と“知識”から警告を受けているので、慎重に。
終わったら、脚の皮にも縦に切り込みを入れ、脚の皮をグルリと剥いで、
上から下に、脚の付け根から頭まで、毛皮を引き下ろした。
この時は石ナイフだ。
普通のナイフは、切断力が物を言うときに登場してもらう。
凪は自分の筋力と体重の無さを嘆いた。
皮を下に引っ張るとき、体重を利用しようとしたのだが、
向こうの方が強かったためだ。
(皮の力に負けるとか!負けるとか!)
しかも毛が抜けること抜けること。
凪は悪戦苦闘して頭まで剥ぎ取り、前足の膝から下と、その首を落とした。
よくある頭付きの毛皮。あんな感じだ。
巧くいったと安心したのも束の間。
(次は内臓ねー。はいはい。)
でも少し休憩させてほしい、と凪は小川で手とナイフを洗い、
水で鹿の身体を流し、毛を洗い落とした。
口にブドウを放り込み、その酸味を味わって、気持ちを切り替える。
(休憩ってこんなに大事なんだな。
学校の休み時間とか、何の疑問もなく、あるものはあるって気持ちでいたけど、
意味があって作られた時間だったんだなー。)
首を回して、肩を鳴らして。
身体の準備を整え、よし、と凪は3回戦に挑んだ。
ここから先は、また石ではないナイフの出番だ。
肛門の下からナイフを入れ、内臓を包んでいる膜を切り開いていく。
と、ナイフが鹿の胸まで来たところで。
「うわぁ!」
ピューッ、と血が噴き出してきた。
鹿に齧り付いて作業をしていた凪は、その洗礼をもろに受けてしまった。
シャツの下半分が嫌な色に染まっていく。
「最悪ぅー。最悪ぅー!」
これしかないのに、と泣きそうになる。
が、ここで手を止める訳にはいかない。
ナイフを握りしめ、凪は再び鹿に向かった。
幸いと言っていいものか分からないが、噴き出ているのは血液だけの様子。
“知識”によると、それ以外の物が混ざっていた場合は、
その場で鹿肉を諦めなければならないこともあるそうだ。
ありえない。
ここまで頑張っておいて、それがおじゃんとか。
ないわー。と、呟きながら、凪は鹿の腹部に手を突っ込んで、
その内臓を膜から剥がしていく。
剥がれていく内臓は、その重みで自然と垂れ下がり、
最初に縛った肛門の管の上を切り、最後に喉の管を切ると、
見事にズルリと外れて落ちた。
これで最後かと思ったが、“知識”はもう一つだけ残っていると言う。
心臓や肝臓の確認だ。
割ったり表面を触ったりして、
この鹿に病気が無かったかを確かめなければならないらしい。
凪は嫌々、内臓に手を入れ、指示されるままに作業をした。
何となく後味が悪かったが、これで鹿は肉になった。
最後にもう一度、水で洗い流し、一つ頷いて満足する。
(もう猟師を名乗っていいよな、これ!)
鹿が肉になった頃、日は森の木に隠れ、夕暮れが近付いていた。
(・・・さて、困ったぞ?)
解体に満足した凪だったが、これからどうしようかと悩んでいた。
もちろん、皮も肉も持ち帰る予定ではあるが、問題は内臓の処理である。
(この辺りに放置すると、肉食獣が来ちゃうわけだ。)
少し遠出をしてでも、離れた場所に捨てるべきだろう。
釣りの餌にする等、使い道はいくらでもあるだろうが、
今の凪の処理速度では持て余す材料だ。
腐って更に処理が難しくなるなら、森に返した方が良い。
“知識”は、埋める方法もあるよ?と提案してくれるが、正直キツい。
もう帰る気力も尽きかけている。
凪は鹿を括り付けた木に登り、それを樹上に引き上げた。
そして、ハンモックバッグも枝に下げる。
凪は枝の上で水を飲むと、水袋も樹上に置いて、木から降りた。
そして、どうせ洗うのだからと、シャツで包んだ鹿の内臓を持ち、
川の向こうへ歩き出した。
体力を温存すべく身軽にしたかったのだが、荷物は食べ物でいっぱいだ。
熊が出た場合、下に置いておくと、鹿も貪り食われかねないので、
かなり筋力を使ったが、引き上げておいたのだ。
小川を渡り、それに沿って下流に向かう。
この方向は、恐らく海に繋がっているのだろう。
右手は、鬱蒼とした森。
家の周りと大差ないはずなのだが、何故か恐ろしい気配がする。
こんな時は、あれだ。
「ぼく怪獣じゃありません。オバケちゃんです。猫によろしく。」
森に住むお化けの振りをしておけば、大丈夫だろう。
5分ほど歩いただろうか。
もう少し進むつもりだった凪の足が止まる。
聞こえてはいけないものが聞こえた気がした。
耳を澄ませる。
―――ゥオォォォン・・・
間違いない。アレだ。
とうとう出くわしてしまったようだ。
とにかく逃げなければならない。
“知識”も、走れしか言ってない。
凪はシャツを解いて内臓を出し、えいやっと森の奥に放り込んだ。
こんな物を抱えていたら、狙って下さいと言っているようなものだ。
急いで元の場所に戻る。
(でも、どうするよ。肉なんて抱えてたら、バレたとき逃げられない・・・!)
狼は、絵本でも小説でも、その執拗さで、よく描かれる。
追いつかれなくても、その内、臭いを辿って家まで来そうだ。
どうしよう。
凪が木に登り切ったのと同時に、ソレは姿を見せた。
白と黒と茶色の斑が美しい、狼だった。
凪は、動物が好きな方である。
狼なんて、特に素晴らしい。
(・・・こんな状況じゃなかったら、ね。
安全な場所にいたら、「見れてラッキー!」って、はしゃげるのに。)
3頭いる。
凪の足元で、鹿肉をガン見して様子を窺い、ウロウロしている。
何が欲しいかは明らかだ。
しかし、それを差し出せば助かるのだろうか?
恐らく、否だ。
降りてきた新しい獲物を、見逃してくれるはずもない。
(“知識”さん!)
頼りにしていたものも、鹿肉を囮に逃げろ、としか言ってくれない。
しかし凪は、諦めたくなかった。
初めて、命がけで戦った。
ここまで処理するのに、どれほどの時間と労力を費やしたのか。
それらをあっさり投げ出すことは出来なかった。
命大事の凪だったが、ここを切り抜けられなければ、
家にいても安心できないと分かってしまった。
(何か1つでも、対抗手段を見付けないと。
俺に関わったら痛い思いをすることになるって、こいつらに思わせないと。)
矢。5本ある。
火。小型の火打石を持って来ている。
投げる。骨でも枝でもいい。
ほら見ろ、こんなに出来ることがある。
爪も牙もない人間の武器は、想像力だ。
凪は、自分に出来ることを探しながら、足元の獣たちの観察を始めた。
(・・・逃げるにしろ、戦うにしろ、一番怖いのは回り込まれることだよな。
まずは、何匹いるか確かめないと。)
そう、今ここにいるだけとは限らない。
最初に聞こえた声は、かなり遠くのもののように感じた。
狼が、声で連携を図るのは有名だ。
だとすれば、あの声の主は、まだ到着していないと思われる。
(少なくとも4頭。さて、じゃあ、どうやって追い払う?)
うんうん策を練っている内に、凪の頭はショートした。
「・・・うん、もういいやー。」
(どーせ、しばらくここから動けないんだし?
お腹空いてるし、疲れたし。
こんなんで名案とか、浮かーぶわーけなーいじゃーん。)
大きく息を一つ吐いて、幹に背中を預け、指を組んで腕を前に伸ばした。
強張っていた身体を解していると、グルルル、と低い唸り声が放たれた。
ビクッとして、下を見る。
凪がリラックスしたのが気に食わなかったのだろうか。
歯茎を剥き出しにして、2頭が唸っていた。
「こっわ。・・・美人が台無しだぞー。」
恐怖を誤魔化すために、声に出してみる。
すると、効果があったと思われたのか、
3頭目まで、ウゥゥゥ、と唸り出してしまった。
困った凪は、取り敢えず。
「じゃあ、いただきまーす。」
ご飯にすることにした。
(あー、いい度胸してるわー、俺。)
相手がムキになっているからと言って、
自分までムキにならなければいけないものでもない。
相手が真剣になっていたら、自分も真剣にならなければ失礼だと思いがちだが、
動物相手に精神を消耗する必要もない。
これから戦いを挑むのなら尚更だ。
凪は、鹿とバッグがしっかり固定されているか確かめてから、
木通を口に放り込んだ。




