生きると書いて、戦うと読む。
凪は半信半疑で、手にした物を口に入れた。
甘い。ヤバい。
ただの枝だと思っていた。
バサッと頭上から降ってきた枝葉が、ごつごつと、捩じれた形をしていて、
白い蕾のような物が付いていたので、咄嗟に、これは何かと“知識”に尋ねたのだ。
食べろと、返ってきた。
その結果が、この衝撃である。
しかも、食べる部分は蕾のような実ではなく、枝だったことが何よりビックリだ。
その梨のような、干しブドウのような味に恋してしまった凪は、
木の周りをグルグル回って、ありったけの夢をかき集めた。
実の中には種もあり、凪は、帰ったら木通の横に植えると決めた。
今日は本当にツイているらしい。
それなりの大きさになったハンモックバッグを見て、自分の幸運を噛み締める。
ここに来るまでに、探し求めていた木通とその蔓も手に入ったのである。
何に使おう、と高揚した気分で歩く。
籠を編んでも良いし、ザルも良い。
が、初めて行く道だ。
迷わないように、慎重に進まなければならない。
凪は、今まで踏み入れていなかった、家の裏側の森を探索していた。
“知識”を駆使しているが、道らしいものがまるでない。
折角の“知識”も、顔にペシペシ葉が当たる状況では、目印を見付けることが難しい。
幸いなことに、“知識”の示す方向には刈り取れる太さの植物しかなく、
獣道と呼べる程度の密度で生えていて、進むことは可能だった。
秋口ということもあってか、枯れ始めている植物もあり、踏み倒しやすかった。
先程も、美味しい枝を拾うために多くの植物を踏み倒した。
結果、1本の木の周りだけミステリーサークルが生まれてしまった。
木々が風に吹かれて、ざわざわと音を立てた。
この深い森の中では、木漏れ日も射さない。
歩みが遅々として進まず、疲れていた凪は、この辺で休憩を取ることにした。
ちょうど、大きな木が倒れていたので、その上に腰掛ける。
倒木は湿気ていたが、腐っている訳ではなさそうだ。
座った瞬間にバキッと陥没して、お尻が嵌るということはなさそうである。
木通を口に含みながら、凪は後ろを振り返った。
入り口はもう見えないので、それなりの距離を進んでいるはずだが、
今どのあたりにいるのだろうか。
凪は、徐々に方向感覚を無くしてしまっていた。
草を分けてきたので、その後を通れば帰れるだろうし、“知識”もある。
大丈夫だろう、と思い直し、もう一口含む。
道の真ん中に撒きたくはなかったので、種は左右に投げ捨てた。
(物を投げ捨てるなんて、本当に行儀が悪い子になってしまった。)
投げてしまってから反省する。
最後の一口を含もうとした瞬間、右奥からガサガサと音がした。
(?!)
ここに来て初めてのことである。
人間か?熊か?狼か?
どうすればいいか分からなくなって、凪はフリーズしてしまった。
すでに成り行きに身を任せてしまった、まな板の上の鯉である。
速まる鼓動。近付いてくる音。
生い茂る草の向こうで、鼻を鳴らす音がした。
(人じゃ、なかった・・・)
どうやら動物のようだ。
そうか、ここは森の中だった、と身を竦める。
そんな凪の気配を感じたのか、首を伸ばしたその動物の顔が、草の上から現れる。
鹿だ。
紛うことなき鹿だ。
鋭く分岐した角。バンビの面影。
いや、鹿とトナカイの違いなんて分からないが、
このほっそりした顔は多分、そうだろう。
幸か不幸か、一先ず正体が分かったことで、凪は恐怖から解放された。
しかし、鹿にとっては、それどころではなかったようだ。
跳び上がるようにこちらに尻を向け・・・
駆けて行くのかと思いきや、その白い尻尾を振り始めた。
というか、バタバタと暴れ始めた。
蹴られては危ない、と荷物を纏めて倒木の上に立つ。
―――キイィィィーッ!
耳を衝く大きな声で、鹿が叫んでいる。
事態を見守っていた凪は、去るか見届けるか決めかねていた。
どうやら鹿は慌てた拍子に、立派な角を枝に絡めてしまったらしい。
(ここにいると危ないのは分かる。
あれが外れたらこっちに向かって来るかもしれないし。
一目散に逃げ帰るのが、危機管理としては満点なんだろう。
でも、放っておいたら家に来るかもしれないし、
ここで死んだら、肉食獣が寄って来るかもしれない。
それに、もしかしたら、今ここで冒険したら、肉が食べられるかもしれない。)
踏ん切りのつかない凪が、何かないかと辺りを見回していると、
両手程の大きさの石を見付ける。
弓に、手が当たった。
命を奪うことに、こんなにも躊躇いがある。
魚や虫より知能が高い、コミュニケーション能力を有した哺乳類だ。
葛藤していた凪の耳に、荒い鼻音が聞こえてきた。
ハッと前を見ると、
ギイィィィッ!と声を荒げ、凪を真っ直ぐ見詰めている鹿の姿があった。
煮え滾るような激情を、押し付けられた気がした。
本気だ。
これは本気で、凪を排除しようとしている。
(―――「やらなきゃ、やられる」か。
少年漫画じゃ、勇ましいセリフだったのに、
本来はこういう、泥臭い、血生臭いものだったんだな。)
倒木を飛び下りて、石を両手で掴む。
ジットリと手が汗で湿っているのを感じた。
これを投げて当てる。
どこに?と考えて、凪は鹿を観察した。
首元に当たれば大きくダメージを与えられるが、
その拍子に角が枝から外れてしまえば、形勢が逆転してしまう。
凪には丈夫な角も、速い脚もないのだから。
(脚か、良いな。脚を怪我したら追って来れないし、倒れたら追撃も出来る。)
凪は腰を右に捩じって右腕を引き、勢いをつけて石を投擲した。
下投げだ。
持ち上げて投げる筋力は無い。
(・・・甘かった!)
足りない覚悟を表すような速度で、石がゆっくりと飛んで行くのを見やる。
鹿が気付いて身動ぎ、
―――ゴツッ
その下腹部に命中した。
一際、甲高い声を上げて跳ねる鹿。
そして、滅茶苦茶という言葉が一番正しい表現だろう。
後ろ脚を何度も蹴り上げ、辺りの草や低木を踏みつけ、折っていく。
まさに、手負いの獣の形相。
凪は、次の石を求めて地面を目で探したが、草に覆われて見付からない。
―――バキッ
恐れていた音がして視線を上げると、
鹿の角を絡め取っていた木が、大きくしなっていた。
このままでは、数分もしない内に、鹿は脱出に成功するだろう。
その先は考えたくもない。
やるなら今しかない。
凪は弓を肩から下ろし、矢を番えた。
“知識”に教わるままに羽を持ち、映画で観た姿勢を思い出して引き絞る。
1本の棒を三日月型にしならせた簡素な弓は、想像以上の力が要った。
(狙うのは、―――眼!)
角が固定されていれば、頭を動かせる範囲も狭くなる。
的は狭いが、当たればかなり有利になる。
凪の手元離れた矢が、石のときとは違い、真っ直ぐに飛んで行った。
ストン、と突き刺さった場所を確認して、凪の頬が思わず緩む。
(・・・ツイてる。)
―――キイィィィーッ!
眼窩に、見事に突き刺さった矢羽が見える。
鹿は暴れる体の制御が出来なくなったのか、
たたらを踏んで崩れそうな姿勢を保とうとして、
枯れた音と共に横倒しになった。
(しまった!角がフリーになった!)
状況を確認するかのように、首を持ち上げる鹿。
後脚が空をかいて藻掻く。
動物番組なら、肉食獣はこのタイミングで首に咬み付いていた。
が、圧倒的有利な状況を手にしたことで、
獣ではない凪には、また迷いが生じていた。
(・・・可哀想、だ。)
ピーピーと鼻で声を出している。
が、自分の身体がどういう状況にあるか、何となく掴み始めたようだ。
地に足を付けようとしている。
凪の心に、再び焦燥感が現れた。
(何やってるんだ、俺。情け心を出してる場合じゃないだろう?!)
判官贔屓なんて、安全な場所で物を見聞きしているときが相応しい。
今の凪は、命を奪う責任やら何やらが怖いだけだ。
考え直せ。
狩猟を趣味でする人もいる。原人もマンモスをこうやって食べた。
ネズミ駆除も、漁師も、みんな同じだ。
(これは、俺が、生きるために必要な事なんだ。)
鹿の足が地に着いた。
凪は荷物を投げ出し、石のナイフだけ握りしめて向かった。
後脚で蹴られないよう背中側から鹿の頭を目指す。
顔の前で揺れる草が、煩わしい。
鹿が首を持ち上げ、前足の力で立ち上がる瞬間に、凪は飛び付いた。
角を掴み、首の上に伸し掛かって、顎と喉の間にナイフを突き立てた。
鹿が身を捩り、身体の軽い凪は振り解かれそうになる。
凪の石のナイフは、その皮を突き破ることも出来ていなかった。
が、ここまでやってしまった以上、もう後には引けない。
(シュッと切って、返り血も避けて・・・。漫画の主人公は凄いな。
でも、これが現実だ!石なんかじゃ刺すことも出来やしない。
俺がお手本にするのは・・・そう、チーターだ。)
動物番組で観た、肉食獣の狩りを参考にする。
彼等は牙や爪を持っていたが、身体の大きなヌーを仕留めるときは、
それを直接的に使ってはいなかった。
喉を噛み締めて窒息させたり、その骨を折ったりしていた。
凪は、ナイフを突き立てた右手をそのままに、上から左腕を回して締め上げた。
振り上げられる前足から顔と頭を守るべく、身体を丸めて、腹で右手を支える。
そして、鹿が首を持ち上げた隙を狙って、両膝を地面との隙間に捻じ込んだ。
なるべく首を反らせて、頭を動かしにくい状態に保つ。
これ以上、顔を振られたら、角で目を突かれそうだ。
どれくらい、そうしていただろうか。
鹿の呼吸が静かになり、凪は姿勢を保ったまま、そっと鹿の身体に目をやった。
腹部の動きは、止まっていた。
脚も、・・・ピクリとも動かない。
それでも凪は、息を吹き返すかもしれない、と手を緩めることが出来ないでいた。
(あと1分。
そう、1分待ったら、そこで最後の足掻きが無かったら、手を離そう。)
震える呼吸で、10を数え、20を数え、30数えたところで、
凪はそっと身体を浮かせてみた。
ズブリと沈んだ石のナイフから、少し血が滲み出ていた。
念のため左手で角を持ち、鹿の頭を支えていた膝を抜く。
―――鹿は、死んでいた。
凪は呆然と、獲物を見下ろした。
安堵と疲労で、何も考えられなかった。
まだ怖くて、角から手を離せない。
一先ず、右手で握りしめていた石ナイフを握り直し、ゆっくり引き抜く。
(・・・あ、ちょっと刺さってたんだ。)
先端の数cmに血が付いていた。
それをまじまじと見ながら、凪は震える足でようやく立った。
立ち上がると、自分が森の中にいたことを思い出した。
目に映る、踏みつぶされた草、石、折れた木の枝。
そして、凪のハンモックバッグ。
ハッと目が覚めるような感覚。
凪は、足元の鹿を見て、テレビの中の死んだ草食獣の目を思い出した。
(うん、死んでそう。)
けれど、まだ安心しきれない。
凪は、握りしめていた角を引っ張って、鹿を引き摺ろうとした。
生きていたら、その感覚で何かしらの反応が返って来るだろうと思ったからだ。
(うん、死んでる。)
重くて少ししか動かなかったが、鹿は無反応だった。
凪はようやく、その手を角から離すことが出来た。
フラフラと倒木まで戻り、鹿を横目に見ながら水を飲んだ。
さっきまで必死だったせいで意識を向けることが出来なかった“知識”に問う。
返答は、食べられます、だ。
ありがたい。
(今日は、本当に。―――ツイてる。)




