食べると書いて、生きると読む。
明けて次の日。
凪は、自分がいかに恵まれた環境で生きてきたのかを痛感していた。
空腹や不安が、どれほど眠りを邪魔するかを知ったのだ。
昨夜は家の扉を閉めて、つっかえ棒をさしていたのだが、
熊やら狼やらが小屋に入ってきたら、
夜の間に家の人が戻ってきたら、と想像が膨らみ、
警戒心から、うつらうつらとしか眠れなかったのだ。
そして、何度目かの覚醒の後、ドアの取っ手穴から入る光で、朝を知った。
食べ物以外に、安心と安全もないと、
人間は人間らしく生きることが出来ないのだと、凪は学んだ。
鍋に残しておいた白湯は、すっかり冷たくなり、すぐに飲める状態になっていた。
痛いほどお腹が空いていたが、朝食なんてない。
お椀の水をあおって、腹の虫を誤魔化した。
そして、食料調達に使えそうな道具はないか、と家の中を見渡して、
(…?)
気付く。
家の入口から見て正面の壁、その中央からやや左より。
本だの布だのが入っていた、その箱の下。
そこに『床下収納庫を隠して設置している』と、思い出したのだ。
(……?!)
だがしかし。
そんなもの、昨夜は見ていない。
全くもって気付かなかったし、まして、その中に入っている物なんて知らない。
それなのに、わかる。
一袋の芋と、塩漬けの肉と魚が、そこにあるということも。
凪は混乱した。
が、確かめなければならない。
この記憶が正しいかどうかを。
もし、正しいものだとしたら、数日は食べていけるからだ。
恐る恐る箱に近付く。
箱に触れようとする手が、少し震えている。
(え~い、根性出せ!
俺の勇気!いることはわかってるんだ、出てこい!)
凪は、箱のふちに指をひっかけて、ちょっとだけ引いた。
ビビり具合がよく分かる引き方だった。
箱は思ったより軽く、ズッと音を立てて動いた。
かなり力んでいたようだ。
そして、箱が乗っていた場所には、確かに蓋のようなものがあった。
それを確かめた凪は、思い切って、さっきよりも大きく箱を引いた。
そこにあったのは、四角形の切り込み。
まさに、祖母の家で見たような、床下収納庫の蓋だった。
この家の扉と同じように、長方形の穴が開いている。
(・・・これは流石に、引き戸じゃないはず。)
しかし、得体の知れない穴に指を突っ込む気にはなれない。
凪は、薪用の木の枝を差し込み、テコの原理で開けることにした。
大学生は賢いのである。
縦70cm、横50cm、深さ30cmといったところか。
半分にジャガイモのような芋が入った袋、
もう半分に、大きめの石と木蓋の乗った陶器が入っていた。
(おお、大地の恵みよ!)
凪の脳裏に、ホクホクのジャガイモが浮かぶ。
昨夜、食事をすっ飛ばした身にとっては、芋が宝石のように見えた。
盗んだ芋をその家で食べるふてぶてしい泥棒、という後ろ暗い言葉がよぎったが、
「命こそ宝」である。
空腹には抗えない。
見付かったら、謝り倒して許してもらおうと開き直り、
凪は、芋を焼いて食うことにした。
鍋の水を捨てるのが勿体なかった、というのが焼く理由だ。
炎との闘い、再びである。
しかし、凪はここでも違和感に襲われた。
昨日より、かなりスムーズに着火できたのである。
成長の証と喜ぶところなのだろうが、首をひねるくらい簡単に熾せてしまった。
更に、芋を切ろうと思い立ったとき、塩を付けようと思ったとき、
ナイフや塩の入った器の在処が、瞬時に頭に浮かぶという現象にも見舞われた。
凪は、自分の身に何が起こっているのか不気味に思ったが、
反面、もう少し生き延びることが出来そうだという安心感も得ていた。
(腹が減っては、戦は出来ぬ。
食べてから考えよう、そうしよう。)
古来より伝わる言葉だし、大事なことなんだろう、きっと。
凪は思考を投げ捨てて、芋を焼く作業に集中することにした。
久しぶりに口に入れたものは、命の味がした。
いま食べているものが、自分をこれから生かしていくのだ、という実感が、
凪を感動させていた。
(ああ、食べるってこういうことだったのか。
そして俺は、哲学者の素養もあるかもしれない。)
ちょっぴりズレたジョークで自分を楽しませながらも、内心、凪はビクついていた。
なんせ、芋泥棒の最中である。
早く食べきってしまわねば、住人が戻ってきたときに、
その場で犯罪者だと確定されてしまう。
警察に引き渡されれば、命の保証はされるだろうが、今後の人生にどう響くか。
ああ、恐ろしい。
(しかも、日本警察じゃなかったら?
海外の警察は乱暴だって話を聞くし、問答無用で私刑って目に遭うかも・・・)
凪は、生まれて初めて身震いなるものを経験した。
(早く食べきって、痕跡を消して、この家から出よう。
食べ物は・・・非常事態だし、焼いた芋だけもらっていこう。
肉と魚には手を出してないから、
帰ってきた人が飢えるってことはないだろうけど。
大丈夫!いつか戻ってきて、この恩は、というか芋は返しますから!)
心の中で住人に謝り倒し、凪は、最後の一口を飲み込んだ。
芋を失敬した後の凪の行動は早かった。
(まあ、まとめる荷物もないからね。)
火打石も、残った薪も、鍋やナイフ、芋の残りが入った袋も、
最後に、色々入った箱も、すべて元の位置に戻して使った痕跡を消した。
部屋を一通り見まわし、完璧だと、凪は一つ頷く。
(親から読書禁止にされてた本を隠れ読み、こっそり本棚に戻していたあの日々。
そのときに磨き上げた手腕が、役に立つ日が来ようとは。)
何だかよく分からない感謝を、
何だかよく分からないものに捧げ、
凪は持ち帰っていた手斧を手に取った。
最後に一つ、部屋の中にお辞儀をして、安心を与えてくれた家を出た。
斧を手に、凪は初めに立っていた、あの空き地に戻っていた。
食料を手に入れて冷静になったのだろう。
昨日とは違った見方でこの空き地を見ることができた。
まだ割っていなかったのだろう、太い丸太が山と積まれている。
おそらく薪用なのだろう。
腰掛けるためではないと思う。
凪は、あの家には、暖炉以外で物を煮炊きできる場所がないと知っている。
つまり、あの家で生活しようとすると、薪が必要不可欠なのだ。
凪の頭が何かを、ピッと閃いた。
(ここに来たとき、俺は薪を割っていた。
あの家に提供する薪だったというのが、いま持っている情報の中では、
一番、的を得ている仮説だ。
じゃあ、何のために薪を提供していたのか。
・・・薪と引き換えに、あの家の住人と取引していた?のか?
じゃあ、薪を持っていけば、平和的に生活の支援がしてもらえるんじゃないか?)
芋泥棒と言う後ろめたさが、解消されていくのを凪は感じた。
窓のない家の中にいたため、時間感覚がおかしくなっていたが、
木々の隙間から太陽が差し込み、まだ日が昇っているところだとわかった。
時間があるのは、幸いである。
芋の分と、これからの分。
こんな森の中で、生きていくためには、今後もあの家のお世話になるかもしれない。
そのために、薪か、もしくは薪作りという労働力を、
取引材料として持っておく必要がある。
いま出てきたばかりの家だが、凪は、あの安心感にすがりたいと、強く思った。
(・・・格好悪い。本当に、かっこ悪い。
でも、背に腹は代えられぬって、言葉もあるし。
尊厳と命なら、俺は命の方が惜しいし。)
凪は手の斧を見て。
昨日、割りかけたままだったのだろう、少し大きめの木片を見て。
ちょっとだけ、と木片を切り株に置いた。
コンコンと斧の先に木片を食い込ませ、打ちつけるようにヒビを広げていく。
何度か、典型的な薪割りイメージを試した末に、たどり着いた割り方だ。
薪割り初心者の凪では、振り上げた斧を薪に当てることが出来なかったのである。
(クッ、俺を嗤えよ。)
情けない気持ちを、中二病のセリフで誤魔化す。
汗をぬぐって足元を確認すると、昨日、凪が使った分くらいはあるように感じた。
見上げると、日はちょうど木の上に出てきたところで、昼前のように感じられた。
凪は、思わず夢中になってしまった、と苦笑する。
単純作業って無心になれるよね、と言っていた母を思い出した。
(そういえば、向こうに着いたら、俺から連絡するって話だったな。
・・・携帯が戻ってきても、着信履歴を見るには勇気がいるな。)
一面[母]の文字で埋め尽くされている画面を想像し、ないか、と思い直す。
まだ遭難一日目だし、良くも悪くも大らかなのだ、我が母親は。
斧を置いて、凪はグンと背伸びをした。
普段使っていない筋肉が、凪とともに深呼吸をする。
すると、それまで黙っていた胃が、凪に声をかけた。
・・・要するに、お腹が空いたらしい。
貰ってきた芋を食べよう、と包んできた服に手を伸ばす。
が、喉が乾いていることに気付いた。
汗もたくさんかいたし、水分摂取は必要だ。
その上、これから食べるのは、口の中の水分を持っていく系の食べ物である。
凪は、服の横に立てておいた袋を手に取った。
チャプンと、中の水が立てる音を聞く。
切り株の上に腰を下ろし、しげしげと手の中のそれを眺めた。
凪が家を出るとき、苦労したのは水筒探しである。
せっかく沸かした水を持って行きたかったのだが、
器になるものが見付けられずにいた。
鍋ごと持って出るわけにはいかなかったので、
どうしようかとオロオロしていたとき、凪の頭に、あの感覚が再び訪れ、
『矢筒の横に水を入れられる袋が下げてある』ことがわかったのである。
(何だろう、これ。なんか、困ったときにだけ出てくるみたいだけど。
いや、ありがたいよ?でも、何かペナルティーとかあったら・・・笑えない。)
罰ゲームのある遊びには参加したくないタイプの凪にとって、
ブラックボックスに手を突っ込むような、この感覚は、ただただ不気味だった。
モソモソと、芋を頬張りながら考える。
(うん。なるべく困らないように、行動するしかないな。)
結局、自分のために薪割りを続けること、空いた時間で森を探索すること、
という行動指針しか出せなかったが、
ひとまずはこれでいいだろう、と凪は自分を納得させた。
再び作業に戻った凪は、斧が木を割る音で、誰か来てくれるのでは、
という考えに至っていた。
そのため、先ほどより派手に身体を動かしている。
そのおかげか、割るスピードも速くなったようで、
凪は、自分の行動が一石二鳥だったと、自分の考えを褒め称えていた。
更に薪を量産すべく、失敗続きだった典型的薪割り法に、
凪は、もう一度、挑戦してみようと思った。
(だって、その方が早くできると思うんだ!)
薪割りハイで、アドレナリンが止まらない。
テンションの上がった若者は、自分では自分を止められないものなのである。
切り株の上に丸太をセットし、斧でつついて位置を確認。
今回の木は堅そうである。
ここ数時間の経験は、思い切りが必要だと言っている。
凪はゴクリと唾をのみ、斧を振りかぶった。
頭の上に持っていくと結構な重量だったが、その重みを利用して振り下ろす。
当たると嬉しいのは、人類共通の気持ちなのだろう。
弓や銃で的に当てるのも、斧を木に当てるのも、一緒なのだ。
もしかしたら、馬券や宝くじも同じ感覚なのかもしれない。
見事に割れて薪となった物が、そこにあった。
その後、しばらくそこには、楽しそうに笑いながら薪を量産する凪の姿があったとか。
肩で息をしながら、凪は今日の成果を眺めていた。
振り返ると恥ずかしいことも、してしまっていたかもしれない。
自分を省みたくなくて、凪はひとまず薪を束ねることにした。
日は木の陰に入り始めている。
(薪割りで終わっちゃったよ・・・
やっぱり、あの家にお世話になろうかな。
これだけあれば、無下にはされないだろう。)
昨日使った分の、ざっと5倍はあるだろう薪の束に、凪は満足した。
芋は返せないが、薪は返せる。
そう思うと、昨夜から続く罪悪感が、随分と落ち着いた気がした。