入江
暖炉の前に陣取った凪は、草の束を作った。
鍋用、身体用、予備である。
使い古した藁束は、部屋の隅で乾燥中だ。
燃料にしても良いし、他に使い道もあるかもしれない。
ひとつ伸びをして、テーブルに並べて干している服を見る。
物干しロープの存在も忘れていた。
蔦や蔓を、もっと見付けなければならない。
(“知識”の中にも、ロープのことは無いし、
此処に住んでた人は、どんな生活をしてたんだ?
・・・車で行き来?・・・そっかー。だよねー。)
考えてみれば、この家を使っていた人は、毎日往復していた可能性もあるのだ。
洗濯物は持ち帰って洗うとか、飲食物は持ち込みとか、
ここで生活する必要が無かったので、色々足りない物があるのだろう。
ここで、凪の脳裏に、桶が流れてきた時のことが浮かんだ。
(そうだ。桶だ。あれって、上流で誰かが使ってたんだよな。
ってことは、川を辿って行けば、人のいる場所に出られるかもしれない。)
すっかり下火になっていた人恋しさが、溢れた。
「そうじゃん。」
口から言葉が零れる。
最近、やけに独り言が多くなった気がする。
人に会える喜びは、しかし理性に邪魔された。
問題は、距離である。
(桶がどれだけ流されて来たのかが、わからない。
色々、傷とかあるけど、使い古されたからなのか、川を下っている内にできたのか、
俺には判断がつかない。
もしかしたら、何日も流されていたのかもしれない。)
つまり、その距離を歩かなければならず、水と食料がそれだけ必要になる、
ということだ。
それに、夜は暖炉が恋しい程、寒くなる。
そんな森の中で野宿するのは、無謀に思われた。
(冬眠前の熊が歩き回っているかもしれない。
ここにはいないみたいだけど、狼の縄張りに入ってしまうかもしれない。)
空腹時に機嫌が悪くなる人がいるが、飢えれば獣も狂暴になりそうだ。
凪は、結論を出した。
今は無理だと。
(脱出は春だ。冬になって雪が降ったら、目も当てられない。
冬を越えて、春の山菜が採れるようになったら、
森の中でも、何とか食い繋げるかもしれない。
それに、冬の間、此処にいても見付けてもらえる可能性はある。
暖炉をガンガンに焚くから、煙が衛星の画像に映ったり、
それを見た人が来てくれたり、するかもしれない。)
脱出に失敗して、戻らざるを得なくなるかもしれない。
出るにせよ残るにせよ、食料の問題は常にあるのだ。
凪は、保存食作りを早く確立させなければならないと、強く思った。
服が粗方、乾いたので、決意を実行すべく、凪は出かける準備をした。
行き先は、海である。
家にあった魚の干物に、凪は疑問を持っていた。
凪の釣りの腕前が三流以下としても、大きさだ。
ビギナーズラックで釣り上げたあの大物も、干物と比べると小さい。
干してある分、元の大きさより縮んでいるはずなのに、
その切り身の方が川魚より大きい気がしたのだ。
どこで調達したのか“知識”に確認して、驚いた。
川とは逆、家から出て右の方向に歩いて1時間の距離に、浜辺があるらしい。
早く教えて欲しかった、と思いつつ、
いや今までの生活で手一杯だったじゃん、思い付かなくても仕方ないよ。
と、自分を慰めた。
釣り道具を作っている時間が勿体なくて、
凪は、バケツとナイフ、ハンモック・バッグだけ持って、家を飛び出した。
川に向かう道とは逆の方向に、確かに跡が残っていた。
初めに見た川への道よりも薄いような気がする。
初めての道を、“知識”に先導されながら注意深く歩く。
低木の間を、枝に傷付けられながら抜けたとき、
凪は、覚えのある香りに、ハッと顔を上げた。
そして、微かな波音。
サァ、サァ、と、繰り返し届くそれに惹かれて、凪は足を速めた。
中天から降り注ぐ陽光が、白い砂浜に足を踏み入れた凪を照らした。
「海、だ!・・・ハハッ!」
満面の笑みに、しばらく使っていなかった表情筋が、ぎこちなく動いた。
大好きな砂浜に、先程までの気鬱は飛んで消えた。
鼻から大きく、潮風を吸い込む。
家で “知識”に尋ねたのは、魚が釣れる場所だった。
そして、浮かんだ光景は岩場だった。
今もう一度、“知識”に確認すると、左右の端に位置する岩場を示している。
魚が採れたらいいと思ってはいたが、まさか、こんなに嬉しい出会いがあるとは。
(嬉しさで、爆発しそう!)
夏になっては、海水浴を強請った子供は、今もしっかり生きていた。
気候的には秋で、しかも雲が多いのだが、凪の目にはキラキラと輝いて見える。
(晴れたら、もっと綺麗だろうな・・・
でも、嵐のときは、こっちには近付かない方が良さそうだ。)
凪は、平静を取り戻すために、自分の記憶を掘り起こす。
この浜の形は、典型的な入江だ。
実は、子供のころに計画した、大人になったらしたいことランキングに、
「無人島もしくは海岸の一部を所有すること」というものがあった。
夏休みの自由研究で作ったノートは、「秘密基地の作り方~海編~」である。
書いた内容は、今でも覚えているが、確かその中に、
入江は嵐で津波が起こることがある、と図鑑から書き写したものがあったはずだ。
飛行機に乗ったあの日も、台風シーズンで、飛行機が飛ぶかを心配していた。
(思えば、ここに来てから一度も嵐は来てないな。)
少し雨には降られたが、強い風はなかった。
ラッキーだった、と凪は思った。
嵐で川が氾濫した際、入江があることを知らずに、こちらに逃げていたら、
流されていたかもしれないのだ。
まだ家の裏の方角には足を伸ばしていないが、
何があるのか、“知識”と共に確認しておかなければならないようだ。
感動から冷静になって、我に返った凪は、本来の目的である浜歩きを始めた。
食料になる貝や、使える物がないかを探すのだ。
2、3歩進めば、靴越しに、砂の滑らかさが伝わって来る。
夏の暑い時期に、泳ぎに来れたら最高だ。
あの、晴れた空の鮮烈な青と、
トルコ石を溶かしたような漣の青に、会いたい。
ふと、その頃には、自分はここにいないのかもしれない、という言葉が飛来する。
何だかとても寂しくなった。
「いや、また、ここに来ればいいじゃん。」
サバイバルを終えて、帰ることが出来たなら、
ここを買い取れるか調べることも出来る。
もうすでに、勝手知ったるこの近所である。
自分を奮い立たせるコツが、何となく分かってきたような気がする、凪だった。
海の生き物に気を付けて、凪はゆっくりと波打ち際を進んだ。
気候的に、ここは南国という訳ではないと思うが、
暖かい海でなくても毒を持った海洋生物はいる。
イソギンチャクに貝、打ち上げられたクラゲでさえも、刺すものが有るのだ。
森から膝丈くらいの長さの棒を持って来て、気になる部分を突いて歩く。
何だ何だ、と出てきたカニには、申し訳ないことをした。
千切れて波に運ばれた海藻は、森の入り口に積み上げる。
後で食べられる物があるか確認して、
食べられない物は乾かして燃料にするつもりだ。
波の中で、時折キラリと光るものが有った。
恐らく、魚が泳いでいるのだ。
ここで仕掛けたら釣れそうだ、と凪は、期待に胸を膨らませた。
小さな岬を越えると、ゴツゴツとした岩場に辿り着いた。
森を出て、砂浜を左手側に進んだ方向にある場所だが、
岬が立ち塞がっていたため、そのまま先へ進むことは出来なかった。
砂浜を進んでいるときに、森との境目が徐々に崖になっていると気付いたので、
“知識”を確認し、一度、森に入ってから、
砂浜を見下ろすように歩いてきたのである。
右手側の岩場も見たいが、帰る頃には日が暮れていそうなので、
そちらは後日のお楽しみだ。
さて、こちらの岩場は、大きな潮溜まりがいくつかあるようだ。
滑らないように気を付けて降りる。
シャコガイのような大型の貝にも注意だ。
足を挟まれたら、潮が満ちたときに脱出できなくなってしまう。
凪は、潮溜まりの中を見て、網が欲しいと思ってしまった。
ウニやカニや、小魚が、いるわいるわ。
(あーっ、ウニ食べたい!ウニ!食べたい!)
言語中枢が壊れてしまいそうだ。
こんなに食欲のそそられる冒険は、初めてだった。
次々と潮溜まりを覘き、食料にできそうな生き物を物色する。
凪は、生物には詳しくないが、食べたことが有るか無いかくらいは判別できた。
あの青いウミウシは、明らかに、食べた経験はない。
(釣り糸の前に網だな。網があったら、此処だけで何日か生きていける。)
気分は既に、磯ハンターだ。
そして、格好良いハンターは、油断などしない。
凪は、一通り観察すると、通った道を注意深く進んで、岬の上まで戻って来た。
ふと、岬から海を眺めようと思い立ち、歩いて行けるギリギリまで進む。
もしかしたら、陸か島が見えるかもしれない、
船を見付けられるかもしれない、と考えたのだ。
そして、そこで、凪は、
果てのない紺青と、向かい合った。




