トラベル・トラブル
人生を自分の意志で決めることができる、というのは幸せなことだ。
入江 凪は、そう思い、日本人として生まれたことに感謝していた。
去年、20歳の誕生日。
凪は、語学留学の資金を両親にねだった。
父が外資系の会社に勤めていることもあって、望みはあっさり叶い、
今、こうして機上の人となっている。
席は窓際のビジネスクラス。
これも、父のおかげだ。この航空会社と縁があり、便宜を図ってもらったらしい。
コネと言えば聞こえが悪いが、父の友人の厚意と思えば受け入れやすい。
一生に一度しかないであろう旅なのだから、ここは甘えておこうと割り切った。
飛行機を降りたら、もう日本語は使わないと決めているのだ。
それまで、静かな環境で伸び伸び過ごしても良いじゃないか。
凪は、グッと足を伸ばした。
出発に際して、母と三つの約束をさせられた。
その一、自分の身体に気を配って、健康に気を付けること。
その二、事前の情報収集を欠かさず、トラブルに遭わないよう行動すること。
その三、礼儀正しく、自分に恥じない行いをすること。
「まあ、これさえ気を付けていたら、どこででも生きていけるよ。」
良く言えば大らかな母は、そう言って、ゲートをくぐる凪の背中を叩いてくれた。
きっと、この飛行機が見えなくなるまで、見送ってくれることだろう。
三か月という期間は、長いような短いような。
期待半分、不安半分の気持ちでいる。
いや、白状すると、実際は不安の方が大きい。
国外に出ること自体が初めてで、飛行機に乗るのもこれが2回目なのである。
不安になるなと言う方が無理というものだろう。
留学先でうまくやっていけるだろうか、とか、
飛行機が事故ったりしないだろうか、とか。
トランクを買った日から、心配の種が纏わりついて離れない。
しかし、乗ってしまった船である。
これからの3か月は、とにかく頑張るしかない期間だ。
―――ピーンポーン
『本日は、ジャパン・スカイ・サービスをご利用いただき、誠にありがとうござい
ます。ご搭乗のお客様に、お願いを申し上げます―――』
(おっと)
機内アナウンスで我に返り、凪は椅子に深く座りなおした。
CAのお姉さんが、酸素マスクの使い方を説明している。
こういう知識は、何かあったときに大いに役立つものだ。
凪は真面目に聞いて、救命胴衣の収納場所などを確かめた。
(・・・こんなだから、バカ真面目って言われるのかな。)
ふいに、消防訓練で緊張していた凪を笑った、悪友の顔が浮かんで消えた。
目の前で点滅するベルトサイン。
離陸のアナウンスの通りにベルトを着けた。
(そうだ。旅立ちには、やっぱり前向きな気持ちがいい。)
ジェット音が大きくなり、機体が滑走路へ向かう。
座席がガタガタと揺れだした。
(必要のないモヤモヤは、地面に置いて行ってしまおう。)
加速が最高潮に達し、身体がグッと持ち上げられる。
流れ去る地面に心配の種を捨て、ターミナルにいるだろう母の姿を探し、
いってきます、と心の中で手を振って、凪は異国へ旅立った。
目的地に到着するまで半日程だと、機長がアナウンスしていた。
ビジネスクラスとはいえ、さすがに何時間も座っていると、座席が窮屈だ。
もっと広い席だったら手が伸ばせたのに、と思って、我ながら贅沢になったと反省した。よく考えてみれば、飛行機が一般化するまで、外国に行くには船しかなかったのだ。それに比べれば天国だろう。
さっきから近くの席でシャカシャカとヘッドホンから音漏れしている。
最近よく聞く洋楽のようだったが、静かな環境が好きな自分には、正直少し苦痛だ。
(耳栓でもしておこうかな・・・)
留学先には、飛行機の乗り継ぎを1回しなければならないらしい。
電車の乗り換えのようなものだと父が言っていたが、本当だろうか。
変わり者の父は、嘘か本当かわからないことをよく言うので、
母以外の家族は、父の言葉をあまり信用していない。ペットの犬でさえも。
凪は、飛行機に揺られながら、参考書を読み、うたた寝し、食事をして、また眠った。
周りの乗客も眠っている中、凪はふと目が覚めた。
あのシャカシャカも止んでいて、とても静かだ。
あくびをひとつして、時刻を確かめる。
時差の調節をするには、もう少し寝ておいた方が良さそうだ。
寝直す前に、一度トイレに行っておこうと思い、席を立つ。
頭がぼんやりしているせいか、飛行機に乗っているせいか、
浮遊感でフラフラとした足取りになっていた。
用を足して手を洗おうとしたとき、洗面台の鏡が目に入った。
留学直前に、普段より短めに切ってもらった髪は、やはり似合わなかった。
ちょっと苦笑して自分と目を合わせたとき、フッと意識が遠のいた。
思わず、鏡に縋る。
危ない危ない。
ズボンを汚してしまうところだった。
トイレで転倒なんて、家族に知られたら笑われてしまう。
どうせ、土産話に自分からしゃべってしまうのだろうけれど。
気を取り直して手を洗った直後、今度はガクンと機体が揺れた。
咄嗟に洗面台のふちをつかんで、身体を支える。
(風が強くなったのか?高度が落ちたのか?)
色々と理由を考えている間に、再び意識が落ちかける。
(寝てる場合じゃないって!・・・・・・なんで?
もしかして、気圧とか酸素濃度とかが落ちてるのか?)
頭が勝手に原因を作っている間に、意識がどんどん薄れていく。
ガクン、ガクン、と揺れる飛行機。
目線が定まらないのに、何故か、鏡を見詰めている自分に可笑しさを感じながら、
凪の意識は、どこかに吸い込まれていった。
(あぁ、CAのお姉さん、ごめんなさい。
せっかく教えてもらったのに、酸素マスク、使えそうにないです。)