愛と怨念
朝に沸かした湯を沸かしなおして茶を淹れた。
二つの杯のうち一方を琥珀色の卓子の上に置く。
「ありがとう」
席についている金糸のような髪の女性は俺へと微笑した。
白石造りの建物の部屋の窓には、薄い水晶板が嵌め込まれていて、晴れが続いていた数日前までだったら、朝の陽が美しく差し込むのが常だったけれども、今の空模様は生憎のどんよりとした曇天だった。
アリシアさんが杯に口をつけ、俺も卓子を挟んで向かいの席に腰を下ろして、杯に口をつけた。
「良い部屋ですね」
「借家ですけどね」
「暮らし向きはどうですか」
「とても順調です」
嘘ではない。
致命的な問題は起こっていないなら、順調といえる筈だ。
「……それは良かった」
アリシアさんは蒼瞳を閉じた。
茶が苦い。
葉を多く入れ過ぎたのかもしれない。
「そちらの調子はどうですか」
「問題ないですよ」
「グレゴリオさんは、畑や家畜達を管理できていますか」
「ええ、慣れないところもあるから、ケルヴィンさんにいて欲しかったってぼやきますけれど、大きな問題は起こさないでやってくれています」
破滅してりゃあ良かったのに。
「アリシアさん、最近、ほとんど毎日、ここに来てましたよね」
「……気づいていたんですか?」
「ええ」
茶を啜る。
「正確には――俺は、アリシアさんだとは気づいていなかったんですが、誰かに見られているなとは。てっきり不審者かと思いましたよ」
「それは……御免なさい。気を煩わせてしまったようですね」
「いえ」
茶を啜る。
「…………何故?」
アリシアさんの側も暮らし向きに問題がないというのに、嘘はなさそうだった。で、あるなら、今更飛び出した子供二人に頼りに来たという訳でもあるまい。
ならば、何故、彼女はここにいる?
「……何故?」
学識豊かでとても頭が良い筈の女性は、俺の言葉の意味がわからなかったのか、不思議そうに、童女のように小首を傾げた。
「なんでアンタ、そんな事してんです」
「私も、人の親です。良い親とは、言えないのでしょうけど、でも親です」
「だから?」
俺の口から反射的に洩れた声は少しささくれ立っていた。
アリシアさんの青い双眸が真っ直ぐに俺を見た。
「親が我が子の様子が気になってはいけませんか。きちんと暮らせているのかと、心配してはいけませんか」
「あんたは親だ。そうだな、俺とリーゼの親だ。俺の親父と再婚したからな。だから、俺にとっても親となる」
「そうです、貴方とリーゼは私の子供です。貴方が私の子供です」
俺は、今日は目を逸らさなかった。
目の前にいる、俺の親を名乗る女を睨みつける。
「アリシア、俺はあんたの子供じゃない」
彼女は青い瞳を大きく見開いた。
しばし、時が止まったかのように硬直していたが、やがて、微かに表情を綻ばせた。
「……ケルヴィンさん、貴方は、私にとって、とても良い子で、悪い子でした。悪い子ほど可愛いものですけれど、貴方、親不孝者ですよね」
彼女は現在を透かして過去でも想い出しているのか、痛みと安らぎの混じった瞳で俺を見ていた。
「けれど……私も、良い母親ではなかったのでしょうね。私は、貴方を幸せにしたくて、大切にしてきたつもりでした。実際、私としては大切にしていたんです」
そうかい。
「でもきっと、それは、貴方にとって大切にされていなかったのでしょうね。私は、貴方を守るつもりで、守ろうとして、けれど、守れなかった。苦しめてしまった。だから貴方は私を憎んで、私の前からいなくなった」
彼女の俺を見る表情には痛みがあった。
――俺は。
アリシアさんは、頭が良いけれど、何故かとても馬鹿だ。
「あんた馬鹿だ」
俺に対してだけは、何故か、彼女は利口になってくれない。
賢い筈なのに、とても馬鹿になる。
まるで俺の事を理解しちゃくれない。
「けれど、言っておきたいのです、貴方は私の事を憎んでいるかもしれないけど、私は貴方を愛していますと、こうなってしまった今でも、愛しています」
俺は、アリシアさんに認められたかった。
彼女から庇護を受ける子供ではなく、隣りに立って彼女を守れる、彼女から頼られる存在として認められたかった。
俺がアリシアさんを憎んでいる?
憎んでいる相手に、そんな事を思うものか!
ああ、でも、憎んでいるのかもしれない。
この人は、まるで俺を理解してくれないから。
「アリシアさん、俺はあんたを愛しているよ」
ほら、不思議そうな顔をする。
「アリシアさん、あんた、グレゴリオのこと、愛してるのか?」
「私は、レグのこと、好きですよ」
ひでぇ女だ。
俺は、アリシアさんの事を愛しているけれど、そういうところがすげぇ嫌いだ。
表情に出ていたのだろうか。
「レグが私の事を愛していて、それでも良いと彼が私に言ったのです。だから。それに。ケルヴィンさん、貴方はそんな簡単に、誰かを愛せるのですか?」
さぁな。
「あんたとリーゼのことは愛してるよ。家族だからな」
「……そうですか」
「もう来るな。邪魔だ」
「これを」
金色の髪の女は、手提げ籠の中から、黒色の塊を取り出して、卓子の上においた。
手袋だった。
革製だ。
質感から牛皮だと解る。
「……なんですか?」
「あなた、もうじき、誕生日でしょう?」
そういえば、そうだった。
「返せるものは、何もないぜ。俺は借り物じゃない自分の家を建てるまで帰らないって決めたから。あんたの祝いの日でも帰れない」
「気が変わるのを祈っています」
「勝手だ」
「お互い様でしょう」
言って、彼女は席を立った。
「それじゃ、身体に気をつけてください。くれぐれも無理はしないでくださいね。あなた、頑固なんだから。それと――あなたが一緒に暮らしているあの子、気をつけて」
……気をつけて?
一緒に暮らしているあの子?
「……リーゼとは、まだ喧嘩しているんですか?」
「リーゼとじゃない」
母親の声は、氷のように冷めていた。
表情が、消えている。
まるで人形のような無表情。よく似ている。
「あの子は変質してしまった。あの子は、もう、リーゼじゃない。知っているのでしょう? 身体は、私の血を引いた娘のものかもしれないけれど、あの子は、既にリーゼの姿をした、別のなにかです。別の何者かにとり憑かれている、悪霊か、もっと忌まわしきものに」
「リーゼはリーゼです。あの子はリーゼだ。あんたの娘だ」
「あれは私のリーゼじゃない」
「リーゼは貴方のリーゼだ」
「私が愛したリーゼじゃない。私はあの子に、私の娘を返せと言った」
そうか。
彼女の青瞳には光が宿っていた。
憎悪の光だ。
「私はあれを怨んでいる」
血を吐くような声。
「私の娘だけでなく、貴方まで私のもとから連れ去ってしまった」
アリシアさんは、俺とリーゼを、愛していたのか。
雨が降り始めていた。
アリシアさんが帰った後、俺は普請現場へと向かって、今日の作業の中止を皆に告げた。
雨だと、仕事にならないからな。
「リーゼ」
俺は童女の背に声を投げた。
振り向いた彼女の顔には、拗ねたような不満の色と、寂寥の色が浮かんでいた。
俺は嵌めていた黒革の手袋を外して、妹の手を掴んだ。
「帰ろう」
「……うん」
リーゼは頷いた。
握った手は、暖かかった。
俺は雨が降りしきる暗い空の下、リーゼと二人、道を歩いて、俺達の家へと帰っていった。




