門出
アリシアさんは俺が従士副長になる事に反対した。
「身の丈に合わない事をやろうとしても、結局上手くはゆきません。酷い挫折を味わうだけに終わります。落ち込むだけで済めば良いですが、それが原因で気が狂ってしまう事だってあるのです。心が壊れれば、身体も壊れます。自ら死を望むほどの苦痛を味わうことに、なりますよ」
気が狂う、ねぇ。
俺は別に構わないと思った。
心を狂う程に燃やせたのなら、きっとそいつの人生は彩られている。苦痛か絶望かは知らねーけど、それだけでもない筈だ。少なくとも、顔も無く、声も無く、無味乾燥な色だけはありえない。
「ケルヴィンさん、どうか、大志は抱かないで。夢は、見ないで。穏やかな幸せを掴みたいなら」
アリシアさんは俺へと懇願するように言った。
俺に、夢を見るなと正面から言った大人は、他にいただろうか? 記憶が無い。
アリシアさんは、これまで幸せだったのだろうか?
それとも、彼女も昔は、何かを追いかけていたのだろうか? その残骸の果てに、今があるのだろうか。
もしかしたら村の中ですれ違っていた時もあったのかもしれないが、アリシアさんがアリシアさんとして俺の前に姿を現した時、彼女は最初から既にリーゼの母で、身体が弱かった。
沢山のことを知っていた。
本を沢山持っていて、幼かった俺を膝の上にのせて色々読んでくれた。
アリシアさんは既にとても大人だけれど、何かを夢見ていた少女だった時も、あったのだろうか。
俺は生家を後にした。
残せる言葉は、何もなかった。
「にーちゃん」
夏の陽が差す道の上、リーゼが俺を待っていた。
絹のように滑らかな白金色の髪と、輝く海の色の蒼い瞳。アリシアさんを幼くしたような顔立ち。よく似ている。大きく違いがあるなら、リーゼの瞳は輝いている。
「おう」
妹が手を伸ばしてきたので、俺はその手を掴んだ。
農作業のせいで、柔らかくはないが、暖かい。
この手から豆を消してやろうと願うのは、傲慢だろうか。リーゼは働くのが結構、好きそうだからな。いらぬ世話というヤツなのかもしれない。アリシアさんが俺に対してしたように。
騎士アゼルヴァリスの館へと向かう道を、その手を引きながら、俺は妹と二人で歩いた。
「ケルヴィン君、リーゼちゃん」
道の真ん中に、グレゴリオが仁王立ちで立っていた。
「アリシアさんをお願いします」
俺は男に向かって深く頭を下げた。
虫の鳴き声が、微かに、遠く、聞こえてくる。
「顔をあげてくれ」
男の声は掠れていた。
壮年の男の顔を見ると、目元の皺が目立った。肌は日に焼け、くすんでいる。灰色の瞳には悲しみの光が封じられていた。
彼は俺の双眸をしばし見つめた後、強い声音で言った。
「確かに、任された」
「有難うございます」
「だが、あの家は、君達の家だ」
俺とリーゼは歩き出した。
壮年の男の脇を通り過ぎる。大きな声が背後から追って来た。
「帰りたくなったら、いつでも帰って来ると良い」
二度とは帰らない、自分達の家を建てて、錦を飾るまでは、俺は誓った。
逃げるように帰るのだけは、まっぴら御免だ。




