氷点下ブレイズ
同じ海でも、昼と夜ではまったく違う姿を見せる。潮騒の音は心に冷たく響き、砂上で伸び縮みする海岸線は、闇から這い出た無数の手のように思われた。
もっとも現在の夜の砂浜は、そのような恐怖感とは無縁であった。組んだ木々の中で巨大な炎が燃え上がっている。薪が割れ、火の粉が飛び、煙は天を衝く勢い。その周りで少女たちがきゃっきゃっと歓声を上げている。
闇を打ち払うかの如くの明るさを誇るキャンプファイアーを、理純智良はまともに見ていなかった。視線の先にあるのは、火の明かりが届かない黒々とした原生林。その闇を切り抜くかのように浮かび上がる二人の影。距離はあったが、影の正体を見誤るはずがない。御津清歌と五行姫奏だ。
智良の姿と視線に気づいた友人らが、からかい声を上げながら寄り集まってくる。
「あら、智良の愛しのみっちゃん姫がいるじゃない。早く着物をはだけて挨拶しなさいよ」
智良は施設に備え付けられた寝間着用の浴衣を着ていた。その格好で小さな岩場の上で屈み込んでいて、膝の上で腕を組み、さらにその中に顔の下半分をうずめている。
反応に乏しい智良の頭上に、少女の興奮した笑い声が降りかかった。
「だめよ! その程度のラッキースケベじゃ、もはやみっちゃん姫の心は動かせないわ! 彼女に飽きられないためには、いっそ全裸で迫るしかないのよ!」
「それもそうね! 河瀬先輩に対してやったのと同じようにッ!」
智良はがっくりとうなだれ、膝の中に完全に顔をうずめた。長く深い溜息を吐いて、浴衣の生地に滑らせる。顔を隠したのは、キャンプファイアーの明かりで浮かび上がる顔色を隠す意味合いもあった。太刀花凜花に続けて、さらなるラッキースケベをはかったことは周りにも広まっていたが、聞いていたのはそれだけのことのようであった。
無邪気に声をはずませる少女たちは知らない。ラッキースケベのとき、智良とマノンが何を話していたのかも、今、腕の中で智良が歯を食いしばり、両目を潤ませていたことも……。
◇ ◆ ◇
昼の海で太刀花凜花に心頭滅却をうながした智良は、監視員役をつとめた教員につかまってさっさと着替えるようお小言を受けた。いちおう智良は神妙に頷いてみせたものの、模範的な態度とは決して言えなかった。五行先輩率いる生徒会は恐れても、教職員に対しては態度が軽いというのもヘンな話ではあるが。
智良はあらかじめ置いてあった着替え袋を取って、シャワールームに向かった。海の家を模したかのようなシャワールームは個室であり、脱衣所とシャワーブースはカーテン一枚のみで隔てられていた。個室は内側からカンヌキ型の鍵がかけられ、鍵がかかっているかは外部からわかっているようになっている。
常識的に(たとえ女子校でも)シャワーを浴びるときは鍵をかけるものであるが、智良はあえてカンヌキをかけなかった。濡れたワンピースと下着を脱ぎ、水気で垂れたツインテールをほどく。カーテンを閉めず、何も知らずに開けてくるであろう少女を待ち構える。
シャワーを出すと、水音で存在が外部からバレてしまう。暑さで参ったときは少しだけ水を出して身体を冷やしたが、それ以外はシャワーのバルブを閉め、全裸姿でぽつねんと立っている。ある意味では何とも間抜けなシチュエーションである。
何度目かの瞬間的行水の後、外から足音が聞こえてきた。智良は息を殺して待ち構える。
……扉が開いた!
「へえ、智良ちゃんって意外といいおしりしとるんやなあ」
「うひゃわあ!」
智良は文字通り飛び上がり、肩越しでシャワールームの入り口を見た。声の主を瞬時で察し、正面を向いてはいけないと判断したのであった。ピンクの水着と灰色のお団子頭のロリ少女を視界にとらえ、智良は声をうわずらせる。
「ま、マノン先輩! ど、どうしてここに……」
「ビーチバレーがもうやってられなくってな。そそくさと抜け出してきたんや」
智良は夏の日差しと華やかな水着にあふれた光景を思い返した。確かに一人だけトロトロと動くことしかできないとなれば、さぞつまらないことであったろう。
智良は「へえ~」と同調してみせたが、身体がこわばるのは避けられなかった。後輩のその態度が、少女体型の先輩の不興を買った。
「なんや、ずいぶんなお出迎えやなあ。智良ちゃんは、誰かを引っかけるためにわざと鍵を外してたんやろ? それとも何や、うちじゃなくて姫ちゃんやエヴァちゃんのほうがよかったん?」
いいわけがない。もし現れたのが姫奏なら『ごきげんよう』と『ごめんあそばせ』のフルコースであることは想像に難くないし、この状態でエヴァンジェリンとの邂逅は……間違ってもあってもらいたくない。そんな事態に陥れば『りんりん学校』が『ゆりんりん学校』と化すだけでは済まされない。
だが、それがマノンに変わったところで心から安心できるかと言えば疑問なところだ。加えて、智良はこのとき嫌な事実を思い出してしまった。過去にエヴァが漫研の合同誌を持ってきたとき、仏国ロリ少女は表情を一切変えなかったのだ。
智良が弾力に富んだ尻を向けて硬直している間、マノンは遠慮を知らぬようすでシャワールームに乗り込んだ。入り口のカンヌキがかかる。その乾いた音がとりわけ大きく響いたのは、智良の感受性によるものだろう。
さらなるマノンの行動が、ラッキースケベの申し子を慌てふためかせた。小柄なフランス人の少女は着替え袋を脱衣カゴに放り投げると、灰色のお団子髪をはらりと流して、ワンピースの水着を脱ぎだしたのだ。肩紐を外し、ピンクの素材を双璧の胸部から腹部、さらに鼠径部、脚部へと下ろし、最後に片足ずつ上げて水着を取り払う。
智良と同じく一糸纏わぬ姿となったマノンは、重度のロリコニズムをわずらった名画家の油絵から抜け出たような美しさを誇っていた。汗か海水かは知らないが、波打った灰色の髪が肌に張りつくのも、なんとも扇情的な雰囲気を醸し出している。
智良は自分の心がヤバい方向に変革されつつあることに気づき、それにとらわれる前にマノンに背を向けて叫んだ。
「ちょ、ちょちょちょ先輩、何を考えてるんですか!?」
「何言うとるん? シャワールームはシャワーを浴びるための場所やろ」
「だったら、お隣の部屋でお願いしますって!」
「いいやん別に。もう入っちゃったわけやし。さっさと浴びて早よ出よ」
ラッキースケベをしかけられたほうが平然としている。いや、この場合、ラッキースケベは智良とマノン、どちらがしかけたものだろう。
灰色髪の全裸の先輩は堂々とシャワーブースには入り込み、カーテンを閉めた。遮光性のカーテンが、マノンの裸体に影のヴェールをかぶせる。その艶やかな姿をチラリと見てしまった智良は息を囚われ、少しでも距離をおこうと足を動かす。
だが、即座に見破られる。
「どうしたん、智良ちゃん? 離れてたら一緒にシャワー浴びられへんやろ」
設置されたシャワーは建物の外観同様、相当に年季の入ったものらしい。水の勢いは、マノンの回したバルブと正比例しなかった。二人が等しくシャワーを浴びるためには、二人のお肌とお肌を接吻させるほど近寄る必要があったのだ。
マノンにうながされて、智良は観念したように離れた距離を縮めた。おしりのほっぺた同士が触れ合い、智良の全身に静電気が走る。いっそ、この二人きりの密封空間から逃げ出したいと考えたが、着替える間に全裸の先輩に取り押さえらる未来しか見えないし、全裸でシャワールームを抜け出すのもさすがに遠慮したい。となれば、この時間が平穏無事に終わるのを待つしかないのであった。
二人で一つのシャワーを共有するのはやはり非効率だったようだ。二人同時で浴びると半身しか濡らすことができなかったため、智良が「交代で浴びましょう」と提唱したことによって、シャワーに対する所有権のキャッチボールがおこなわれた。
先輩にシャワーを譲り、次に智良がシャワーを浴びる。だが、シャワーを浴び終えてもマノンはカーテンの向こうへ消えようとしなかった。
「は、早く出てって下さいよ!」
「いやや。智良ちゃんに聞かなあかんことがあるし」
「な、なんですかっ?」
ここで話す必要はあるのかと思いながらも、うわずった声で智良は問いかける。
だが、マノンの口調は婀娜っぽい雰囲気に似合わぬ真剣さがあった。
「今朝、バスの中で智良ちゃんのことを姫ちゃんに話したで」
唐突に切り出された話題に智良はぽかんとなったが、それも一瞬、やがて言葉の内容に青ざめた。自分の破廉恥な振る舞いを星花のカリスマの権化の耳に届いてしまった。後日、召喚され『ごきげんよう』されてしまうのは必定である。
マノンはさらに詰め寄るようにして言った。
「今まで清ちゃんにラッキースケベをしかけて、今朝、清ちゃんをブチ切れさせたことも、キッチリちゃんと言っといたで。まあ、あんな出会い方をしたら姫ちゃんが聞き出さないわけにはいかんもんな。それで、その件について智良ちゃんに聞きたいことがあるんやけど……」
マノンの声が、すうっと低くなった。
「……今朝の件、もしかしてクラス委員の子とグルやったん?」
「…………は?」
キョトンとなったのも一瞬で、すぐに智良の心臓に霜が降り立った。
マノンの表情は、普段皆が見る彼女のそれとまったく別人だった。ニヤニヤ笑いを引っ込め、とてつもなく怖い表情を浮かべている。可憐ながら、その威圧感は親友の五行姫奏にも劣らない。
「そうでなきゃ、こうも都合よくラッキースケベなんか起こせへんやろ? わざと寮で待ち構えて、スカートをバッグに食いこませたのも、清ちゃんが来ることをあらかじめ知ってたからとちゃうん? クラス委員の連中と前もって打ち合わせて、清ちゃんを自分のもとへ来さすようはかったんやろ?」
「ち、違いますよ!」
決めつけられて、智良は慌てて弁明した。
「確かに、清歌を狙って寮に出るのを遅らせたのはホントですけど、誰かと打ち合わせなんかしてませんよ。ただ、あたしと清歌の関係を知ってるやつが、清歌のことをけしかけるだろうって予想はあったから……」
「脳内打ち合わせを敢行した、っちゅうわけか」
奇矯な言葉を吐き捨てるように言い、マノンはさらにキツいことを後輩に告げた。
「厳しいことをあえて言わせてもらうけどな。智良ちゃんが清ちゃんにしてることは、クラス委員の子のいびりと何ら変わらへんで。相手の気持ちを考えずに、自分たちだけの都合でからかいまくる。立派なイジメやで」
「い、イジメだって――――!」
激昂し、反論しようとした瞬間、智良の身体にマノンが飛びかかった。両肩を掴み、首の付け根に顔をうずめ、濡れた肌に唇を押し当てる。
「ひぅ……っ……!」
「くちゅんッ。じゅぷ、ずず……っ!」
鎖骨あたりにキスをされた智良は小さな喘ぎとともに身をよじらせた。マノンの奇行はエヴァの門下生を気取ってもいいほどで、その彼女の同人誌のワンシーンを想像して、未知なる感触が何倍も身体を悦ばせた。むろん、智良の精神がそれを受け入れられるものではないが。
引き剥がさなきゃ! と考えたときには、マノンはすでにキスを終え、智良のもとから離れていた。その表情はキスの余韻に浸っているものでは間違ってもなかった。
「せ、先輩、い、いきなり、なにを……ッ」
うろたえる智良に対して、マノンは怒りの口調で宣告した。
「その不快感が清ちゃんの智良ちゃんに対するイメージや」
「……………………」
「これ以上嫌な目に遭いたくないんなら、早々に清ちゃんから手ェ引けや。もし、また清ちゃんを困らせるんなら、姫ちゃんに引き渡すまでもない。うちの手でケリをつけたるわ」
容赦なく言い放つと、先輩はカーテンの向こうへと姿を消してしまった。衣擦れの音を聞きながら、智良は立ち尽くていた。身動き一つとることができず、ただひたすらに身体の中の火照りと先輩に対する氷点下の恐怖心に打ちひしがれていた。