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純情チラリズム(後編)

 その気になれば智良はいつでも鍵を外してこの場から逃げることができた。実のところ、妙に芳しすぎる空気にさっきから頭の中では非常ベルがやかましく鳴り響いていたが、一呼吸おくと、智良は強制的にその音を遮断した。覚悟を決めたというわけである。


 裸ブラウス同然の格好をしているマノンは便蓋を開けて腰かけると、麗しいおみあしを組みながら智良に問うのだった。


「それで……智良ちゃんは姫ちゃんからどこまで聞いたん?」

「どこまで、って……」

「智良ちゃんのことだから、うちが渡仏することは知っとるんやろ」


 智良は「まあ……」と応じてから、マノンの父親が事故で両足をやられ、精神の拠り所を求めて妻と娘を日本から呼び戻そうとした旨を聞かされたことを打ち明けると、当の灰色髪の娘はもっともらしく頷きながら、何とも言えぬ微笑を放ったものだ。


「おおむね、智良ちゃんの言うとおりや。ただ、智良ちゃんの知らない事実もある」

「何だよそれ」

「まずうちは本来今年の四月でいなくなる予定やったんや。でも、星花に思い入れがあるしもうちょっとだけいさせてと母ちゃんと父ちゃんに無理言ってたんや。生徒会のお仕事やりんりん学校、そして星花祭……。でもな、もうこれ以上はもちそうにないんや。だからうちは、今月半ばにフランスに帰る」

「半ば!? もう来週じゃないか!」


 智良は驚愕した。姫奏からその情報は一切聞かされていなかったのである。あの元会長、なんでそんな重要なことを言わなかったんだと智良の中で焦りと怒気が募ったが、智良の反応に、マノンのほうも面食らったようである。


「知らんかったん? ものすっごく焦ってたから、うちが黙って出て行くのを止めるのかと思ってたわ」

「ちょっと待てって! 黙って出て行くって……」

「あー……もしかして、うち完全に墓穴ほったっぽい?」


 マノンは苦笑したが、言うほど困ってはいないようだった。智良がその事実を言いふらさないと過信しているのか、それとも彼女の口を封じる別の作戦を用意してあるのか。


「姫ちゃんはうちができるわけないと踏んで言わなかったんやろな。でもな、うちは本気で帰るつもりなんや。みんなにも先生にも黙ってな。警察沙汰になったら困るから置き手紙ぐらいは残しとくけど、頼むからうちが出て行くのを邪魔せんといてーな」

「なんで……。別にわざわざリそんなスク冒して出てく必要ないだろ。親に頼んで止めることはできないのかよ?」

「父ちゃんも母ちゃんも優しいからな。うちが一生懸命説得すれば空の宮に残れるかもしれへんけど、うちがこれ以上ここにいるのが嫌なんや」

「なんでっ!?」


 ほとんど悲鳴だった。彼女の業績を知っている智良としては、マノンが星花女子学園での思い出を否定するような真似がとうてい信じられなかったのである。


「親が了解出すかもしれないっていうなら別に星花に残ってりゃいいじゃんかよ! 何だよ嫌って! 星花での時間がそんなに苦痛だったっていうのかよ!?」

「そんなわけあらへんやろ!!」


 倍の勢いでマノンが言い返す。


「心がぼろぼろになってたところを姫ちゃんに救われて、クラス委員や生徒会副会長として思う存分手腕を振るうことができて、そのうえで生まれた思い出は他の何よりも尊くかけがえのないものや。いったい誰が星花にケチつけることができるというんや! でも、でもな。星花と同じくらいうちは家族も大事にしたいんや。智良ちゃんにとってはぽっと出の存在でしかないやろうけど、関西の実家に帰ったときにはいつもべたべた甘えさせてもらっとるし、しょーもないことも笑い飛ばし合って楽しいものにしてきた。この先も何も変わらんと信じ切っていたのに、あの事故のせいですべてパアや! 父ちゃんは身も心もがったがたにすり切れとる状況やけど、それでもうちは、あの時の楽しい日々を取り戻したくてしょうがないんや。父ちゃんのことを救いたいんや! 昔、姫ちゃんがうちにしたときのように……」


 マノンはよろよろと便座から立ち上がる。真正面にいた智良にぶつかるようにしながら倒れ込み、かすかに汗ばんだポロシャツにしがみつく。


「星花も姫ちゃんも清ちゃんも大好きやし、母ちゃんや父ちゃんも言うまでもなく大事や。でも、そのふたつのどちらかを選べなんてできるわけあらへん……。なあ、智良ちゃん、うちはいったいどうすればええ? どっちを取ってどっちを捨てれば、うちは……」


 マノンは己の運命にがんじがらめのようだった。がっくりとうなだれ、ゆるふわ灰色の髪に表情を隠していたが、声音からでも絶望のきわにいることが容易に想像できる。だが、顔を上げると瞳の青を揺らしながら、かすれた声で自己完結をするのだった。


「ううん……うちは姫ちゃんや星花のみんなを裏切ってまで逃げ出そうとした。うちの心はほんとはもうとっくに決まっていたはずなんや。星花の思い出が足枷になってさえいなければ、うちは迷わずに済んでたはずなのに」


 智良は驚いて、泣き出す寸前になっているマノンの顔を見下ろした。


「ほんきで……言ってんのかよ?」

「星花のことよりも親のほうに無意識に重きを置いとったのはうちの行動で証明されとる。とすれば、皆のことを綺麗さっぱり忘れとかないと、もう心がもちそうにないんや。まぶしくて、あたたかくて、いとおしくて、そして重すぎて、うちの心をこの先ずっと引きずっていくもの……。姫ちゃんやみんなのおかげでうちは素晴らしい夢を見させてもらったけどな、こんなの本来のうちじゃない。振り返ってもしょうがない思い出にしがみつくほど虚しいものはないからな」


 淡々とした口調が、むしろ智良の心を強くえぐった。感覚と感情が一瞬で凝結し、時間の経過とともに突き刺さるような熱が噴出する。


「なんで……」


 激情が頭を煮えたぎらせ、その余熱が実体のない針となって目の奥底を灼きつける。


「なんで、そんなことを言うんだよぉ……っ」


 耐えられなかった。熱を含んだ涙が両目から自然に溢れ出てきて、頰を濡らしながら垂れ落ちる。十五年ほどの人生において智良はさまざまな意味で涙を流したものだが、これほど悲しく、絶望的な泣き方は初めての体験だった。


 大声で激しく罵られたほうがまだましだった。この少女の中から星花の六年間が消えてしまう。星花女子学園のために尽くし、学園を何より愛していた少女なのに。彼女は自分に必要なことと諦めて、その思い出をなかったことにするというのだ。


 つらかった。胸が締めつけられた。交流期間の短い相手だが、その分誰よりも濃い付き合いだった。そんな相手が自分から心を殺してしまうのは見るに堪えなかった。それに、こちらの彼女に対する思いがすべて拒絶されると思うと、やるせなさで涙がおさまる気がしない。


「思い出作りが重荷と感じるなら、何で今まで星花に残ってたんだよ! なんであたしを星花祭に誘った!? 確かに最初は面倒くさいと思ったけどさ、いちおうあたしだってあんたと一緒のときのことを真剣に考えてたんだよ! その思いを、一方的に踏みにじりやがって……!!」


 マノンはくしゃくしゃになった智良の顔を見つめ、もらい泣きするどころか、かえってすべてを受け入れたかのような笑みをたたえた。


「せや……これが本来のうちなんや。今までのうちは姫ちゃんの七光りを受けて生まれたまぼろしのようなもんで、その光が消えた今ではもう、うちは都合の悪いことから逃げ出すただの卑怯者でしかないんや」

「うるさい! そんな言葉が聞きたいんじゃないっ!」


 哀しみを通り越して苛立ちをおぼえた智良である。自分のことを卑下し続けることも、それによって自分の行為を正当化しようとすることも気に食わなかった。だが、その言葉の主人は智良の気持ちを察しながら、あえて無視するように続ける。


「智良ちゃんの言うとおり、素直にフランスに帰ることができていたらなあ。思い出を作るのがこんなに辛いものとわかってたならこうしてたのに。でも、うちは馬鹿だからそんなことも理解できないでいて、父ちゃんのことを引きずったまま周りとの馬鹿騒ぎに酔いしれて……」


 うつろに回転し続けるマノンの舌が、不意に止まる。背中に腕を回されたと思う間もなく、身体を引き寄せられて暖かい熱に胸を押し付けられる。妙に生々しい感触に、思わずマノンの鼓動が跳ね上がった。


「智良ちゃん……?」

「……もういい。あんたの出まかせにはうんざりだ」


 静かな怒りを孕んだ声とは裏腹に、智良の抱擁はどんどんと窮屈さを増し、マノンの肢体を愛欲的に締めつけようとしている。言動のちぐはぐさにマノンは戸惑いの色を浮かべ、とりあえず次の智良の反応を待った。その智良は唸るように言った。


「……許さない。フランスに帰るなんて絶対に許さないからな。マノンがここからいなくなるなんて、あたしは絶対に絶対に認めないからなっ!!」


 後輩のただならぬ気迫にマノンは面食らった。続けて本気で当惑した。というのも、引き止められるようなことをしたおぼえがまるでなかったからだ。身体を震わせる智良に対して、率直な疑問を吐露した。


「どうして? なんで智良ちゃんがうちのことなんかを? うち、智良ちゃんにひどいことしかしなかったのに……」

「ううっ……いやだっ……いなくなったりしたら、いやだあっ……!」


 今度こそ大泣きになった。もはやただの駄々っ子と化して、ただひたすらいやだいやだを繰り返すばかり。マノンは途方に暮れたが、理屈も根拠もない少女の叫びは、確かに灰色髪の逃亡未遂者の心に強い揺さぶりをかけたのだった。


「ちら、ちゃん……うちは……っ」


 この無垢な訴えをはねのけることができるだろうか。もし、はねのけてしまったら、彼女はこの先何を思い続けるのだろう。すべてを投げ打ってまで逃げるつもりだったのに、その計画は少女の涙によってあっけなく崩れ去ってしまった。情けないと思いつつも、心のどこかでそうなることを望んでいたような気がする。父はもちろん大事な存在だし、娘である自分に救いを求め、頼ってくれているのも理解できているのだが。


(父ちゃん、うちは……うちは……!)


 心の中で何かがはじけ、あたたかいものが煙のように溢れ出るのを感じた。痺れるようなかすかな痛みが涙を誘い、震えた唇からしゃくり声が繰り返される。


 確証はなかった。だが、その産声はもう少しで形になろうとしていた。無意識に奥底に隠してしまっていた純情という名の産声が。どうしてここまで渡仏に固執していたのだろう。父が大事だから? 星花の思い出から逃れたいから? ようやくマノン自身も自分の本心に向き合えたような気がしてきた。


「……こわかったんや」

「え……?」

「うち……きっと、こわかったんやと思う。思い出を作れるだけ作って、最後にみんなからばいばいされるのが……すごく嫌やった。お別れを告げられたりしたら、ほんとに星花での生活がおしまいってなっちゃうやん。うちは……優しさと暖かさにずっと浸っていたいと思えるくらい星花が大好きやったからッ!!」


 マノンは叫んだ。魂の叫びだった。


「もし、星花の思い出を引きずったまま旅立ったりなんかしたら、うちは絶対、星花と現実とのギャップに立ち直れなくなってまう。姫ちゃんなら大学でも社会進出でもトントン拍子で活躍できそうやけど、うちは周りがうらやむほどできる女ちゃうよ? 過去に執着するだけならまだしも、前を向いて歩こうとする他の子たちにべたべた甘えて足を引っ張ったりなんかしたらどうしようかと思うし、そういうのが頭の中でずっとくるくると回っとるもんだから、もう気が気でなくて。できるもんなら、うちはずっと星花にいたかったわ。でも、父ちゃんの件がなくとも、それにはいずれ終わりが来てしまう。それを受け入れるのが怖かったから、自分ひとりが取り残されそうで怖かったから、うちは血迷って星花から逃げ出そうとしたんやと思う。こんなキタナイ去り方をすれば、もう誰も追いかけて来いひんし、うちも星花と決別できると思って……」


 洪水のように溢れ出たマノンの思いは、智良の心にもゆるやかに浸透していった。つまりこの先輩は宙ぶらりんの不快感に耐え続けるくらいなら、自分でロープを切って地面に叩きつけられたほうがましと考えていたわけである。救いの手がいつ来るやもわからないというのに、そのときがくるまで辛抱できなかったのだろう。マノンは副会長として能動的に仕事を取りつけて、成功してきた。だが、その一方で、どうすることもできない絶望が立ちふさがったときに機を待つという能力に欠けていたのかもしれない。


 智良は自分の思ったことのすべてを言語化できたわけではない。ほとんどの思考の断片が雲霞うんかのようにわだかまっているだけだ。


 思いのたけをぶつけてマノンが沈黙すると、智良は少女のふるえる背中にそっと手をよせた。揺れ動きがちな彼女を安堵させるように愛おしげにぽんぽんと叩く。


「みんな、いるから。誰も、あたしも、マノンのことをひとりにしないから」


 本来泣く子をあやすための行為なのだが、マノンのための言葉の前では本来の意味など無力であった。すでにがたがたであったマノンの涙腺はついに決壊した。ぶわっと涙が噴き出て、一気に五歳ほど幼くなったような泣き顔をつくった。とっさに顔をうずめ、智良のポロシャツを濡らしていく。


「うっ、ぐすっ……ごめん、ごめんな、ちらちゃん。ほんとに、ごめんなさい……!!」


 智良もようやく先輩の心に手が届いたような気がした。ごまかしとはぐらかしでできた無数の層からチラリと覗かせた純情。星花の生活とみんなを何よりも愛していた、いつくしみ深く尊いこころ。少しでもそれに触れることができた智良は、あらためて離してはならぬとマノンを抱きしめる腕に力をこめた。



 ……きゃああぁぁああっ――……!



 外からひときわ大きい歓声が、残響として二人の耳に入った。後夜祭も一番の盛り上がりどころといったところだろう。智良はマノンに尋ねた。


「……行かなくていいのか?」


 マノンからすれば、これが星花祭に参加できる本当に本当の最後の機会のはずなのだが、彼女は目を閉じてゆっくりと首を振った。


「ええんや。もうちょっと、智良ちゃんとこうしてたい……」


 甘く眠たげな声を上げながら、彼女もまた智良の身体に手を回し、安堵したように前身に寄りかかった。体重をこめすぎたせいか、お互いを抱えあったまま床にぺたんと座り込んでしまう。だが、どちらも何とも離れがたい気持ちで、脚の位置をずらすだけでしばらくは立ち上がろうとはしなかった。


 ……少女たちが『乙女』の箍を外す前、ほどよい暗がりの中で愛おしくお互いを撫で合うようなささやきがかわされていた。


「なあ、智良ちゃん……」

「うん」

「お願い。ずっとうちのそばにいて……」

「うん」

「うちのこと、絶対に離さんといて……」

「うん」

次回からエピローグになります。

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