友情エゴイズム(後編)
お風呂から上がると、姫奏とマノンは備え付けの浴衣に着替えてから昼食を摂った。女将さんの用意してくれた海の幸山の幸をたっぷり堪能すると、サービスで提供されたトマトジュースを片手に和室の広縁で外の絶景を堪能する。
籐椅子の上でエレガントに脚を組みながら鮮やかな赤色に口を付け、姫奏は向かいに座っている親友に声をかけたのであった。
「美味しいでしょう。星花の食堂に使われてるトマトはこの近くの畑から採れたものなのよ」
頰をつるつるさせて言われても、いずれこの場所から立ち去ってしまうマノンとしてはしょっぱい顔をするしかないのであった。試しに一口飲んでみると、濃色の割に塩分は抑えられているようで、喉にすーっと入ってくる。四分の一ほど飲んでガラス天板のテーブルにグラスを置くと、姫奏が神妙な面持ちで切り出してきた。
「それで、あなたが旅立ってしまうのはいつ?」
マノンは胃の底に気まずさの塊を置いたような表情になり、五秒ほど沈黙してから極めて言いづらそうに口を開いた。
「……来月の半ば」
「ずいぶん急なのね。星花祭が終わってすぐじゃない」
黒い目を見開く姫奏に、マノンは静かに首を振るのだった。
「ちゃう。父ちゃんにお願いしてここまで延ばしてもらったんや」
マノンの父親は生粋のフランス人であり、マノンが高等部に上がった時期に関西から生まれ故郷に単身で移り込んでいたという。その父君が関西在住の母と空の宮在住の娘を呼び戻すわけである。
マノンが切なげに語ったやんごとなき事情を姫奏は静かに耳を傾けていた。だが、マノンが一息ついてトマトジュースを口に付けたとき、秀麗な元生徒会長様はなんとも納得のいかないという様子で首を傾げていた。
「尋ねたいことは山ほどあるけど……まず、あなたは帰らねばならないことをいつ聞いたの?」
「今年の四月や」
「新年度始まってからずっと隠し通してたというの? まったく気づかなかったわ」
「まあ、生徒会の仕事やファンクラブの運営で忙しかったからな。バレんでよかったわ」
「いいわけないでしょ。私たちには隠してても、少なくとも寮監や先生にはきちんと話したのでしょうね?」
(清歌関連を除いて)良識的な姫奏としては当然の問いであったが、その言及に対してマノンは今の気まずさを自乗したかのごとく目を泳がせていた。
「……言うてへん」
「言ってないってどういうこと? 手続きなしで退寮なんかできるわけがないでしょ。まさか家出少女よろしくこっそり夜逃げするつもりじゃあるまいし」
「…………」
てんで本気にしてなかった姫奏の口調であったが、関西少女の青い目がフルスイングで泳ぐさまを幻視すると、星花女子学園の栄華を飾った元生徒会長さまは呆気にとられ、続けて盛大に自分の額を押さえた。そんなことが許されるはずがないことはちょっと考えればわかるはずだが、姫奏は声を荒げたりはせず、溜息交じりにつぶやくだけにとどめた。
「やれやれ……あなたって初めて会ったときからそうだったわね。人を使うことは上手なのに、自分のことになるとてんでだめだめなんだから……」
「うう……かんにんや、姫ちゃん……」
大弱りするマノンに、姫奏は赤い液体の入ったグラスを手で回しながら静かに言った。
「……ねえマノン、私と清歌の出会いをおぼえてるわよね?」
「? そりゃまあ……」
高等部一年の御津清歌は、夏休み始めに他のクラス委員から嫌がらせのごとく仕事を押しつけられ、心身ともに耐えきれずに陰で泣いていたところを姫奏の手によって救われたのである。付き合い始めてからようやく一ヶ月になったとは思えないほどの熱愛っぷりであるが、その事実を知るのは今のところマノンを始めとする限られた人間のみである。
なんでいきなり彼女の話が出てくるんやという疑念を隠そうともせずにマノンが青い瞳を瞬かせると、彼女はしみじみとした口調で言うのであった。
「清歌を見たとき私が何を考えてたかわかる? あなたと初めて出会ったときのことよ。私たちが中等部の一年、あなたがまだ関西弁を使ってなかったころ、当時のクラス委員にこき使われてこっそり泣いていた……。あらあら、どこかで聞いた話じゃない」
「泣いてないかあらへんやろ。誰もいないところでそっと休んでただけや」
強がるも、意地悪く微笑まれて、マノンはバツの悪そうな顔になった。灰色髪の少女としては星花に入学してからの半年間はあまり積極的に思い出したくない記憶であるのだが、姫奏は最後の思い出話に花を咲かせたかったのか、あえて親友の心に刻みつけるように語り続ける。
「初めての星花祭。あなたは当日、無理がたたって菊花の自室のベッドで寝込んでいたわね。私が介抱してあげたからよーく知ってるわ」
「うちがへばったせいで、クラスの出し物がてんやわんやになったんやな。あん時はホンマ皆に悪いことしちゃったわな」
「悪意はすべてクラス委員の彼女に向けられたから問題ないわ。彼女、マノンのことをこき使えないとわかるとパニックになって、周囲に当たり散らしてたみたいだから」
当時クラス委員をつとめていた女子は理想を高くもちたがる人間であったが、それを具現化する能力は著しく欠けていた。むろん、中等部一年の時点から完璧な段取りを要求するのも酷な話だが、彼女の無茶な言い分に振り回されるマノンとしてはたまったものではなかった。
当時のマノンは際立った外貌のせいで過剰に人の目を気にしてしまう少女であり、姫奏と親しくなるまでは今からは想像もできないほど引っ込み思案な性格であったが、頭の冴えと要領の良さは健在であった。存在価値を認めてもらうためにクラス委員の無茶振りによく応えたものだが、それにも限界がある。
星花祭の準備においても、マノンの器量の良さは健在だったが、開催を目前にして自分の立ち位置に嫌気が差して、放課後になると空き教室の片隅でうずくまって泣きじゃくるようになっていた。そして、ひとしきり泣いた後は何事もなかったかのようにふるまう日々が続いていたが、とある日に、その泣き様を突然現れた人物に見られてしまったのである。
その現れた人というのが、当時隣の教室でクラス委員をつとめていた五行姫奏だったのだ。
姫奏は当初、おたくのクラスの無茶な裁定のせいでうちのクラスが迷惑を被っていると抗議するつもりであったが(クラス委員が当てにならず、実行者であるマノンに救済を求めたのである)、ただならぬマノンのようすを見て血相を変えたのである。
「……私がせっかく大丈夫? って声をかけてあげたのに、あなたは頑なに仕事のことしか話そうとしないもの。ま、問題は解決できたからよかったけど、私の気遣いを無視した報いはたちどころに訪れたわけだけど」
グラスを置き、豊かな胸の前で腕を組みながら姫奏は目を閉じる。マノンは言うべきことが出てくるまでグラスに口を付けたり、景色を見やったりして気を紛らわせていた。
報いかどうかは知らないが、無茶の代償は確実に存在し、星花祭当日、マノンは激しい頭痛をともなった高熱をわずらってしまった。それでも最初、マノンは無理してでも出ようとしたのだ。そうでなければ、クラスの出し物が回らないことを知っていたからだ。
だが、マノンの熱意を姫奏が止めたのだ。彼女の身体の状態をおもんばかれば止めるのは当然のことだったが、マノンも譲れなかった。そんな彼女に姫奏は言いさした。
「それならば、私があなたのクラスの出し物の運営を引き受けます」
青い目を剥いたマノンだった。二つ分の出し物の運営など口で言えるほど簡単なものではないのだ。だが、そんなマノンに姫奏は笑顔で続けるのだった。
「問題はないわ。私が不在でもうちのクラスはちゃんと回るようにしてあるから。とにかくあなたはきちんと休んで。自分ひとりで抱えて苦しんでしまうのも、クラス委員の彼女に追いつめられ続けるのも、ともにあってはならないことだわ」
痛いところを突いてくれると、このときのマノンは思った。不慮の事態を想定していなかったことをたしなめているようでもあったが、同時に理不尽な関係に巻き込まれている自分のことを気遣ってくれているのも理解できた。
だが、姫奏の厚意は実現されなかった。少なくとも彼女の言葉の前半においては。姫奏の差し伸べた手をマノンのところのクラス委員がムキになって払いのけたからであった。その結果どうなったか……巻き込まれたものは誰ひとり笑顔で振り返ろうとはしない。
マノンは星花祭が終わってからもしばらく休んでいた。タチの悪い風邪が治まりきっていないのは事実だが、それ以上にクラス委員の報復が怖かったのだ。姫奏は毎日マノンの元にお見舞いに訪れ、学校のことについて報告したり、クラス委員の彼女が殴りこみに来ないよう色々配慮したことも語ってくれた。
特にマノンがスゴいと感じたのは、彼女が隣のクラス委員を追放したことである。お隣の星花祭の惨状を知った姫奏はそこの生徒からクラス委員の横暴を聞き出し、担任の教師にも報告し、彼女を糾弾したのであった。
話し合いにはならなかった。せっかくその場を設けても、クラス委員の彼女は独りよがりの正当性を泣き喚きながら主張するばかりであり、消化不良のまま中断された翌日から登校拒否になり、翌週にはその彼女が転校すると報告が入ったのである。マノンを含め誰しもが驚きはしたが、引き止めるものは誰もいなかった。
彼女の転校にさすがに一生徒の姫奏が関わったとは思えないが、マノンを含めて周りからすれば『追放』としか思えないスピーディな出来事だった。この一件を期に眉目秀麗のクラス委員は『姫奏さま』と呼ばれるようになり、隣のクラス委員の席には、姫奏の拡散によって星花祭における実力が認められたマノンが就くことになったのだ。
「私はあなたがクラス委員にふさわしいと思える点をよく知っているし、それをクラスのみんなに話して、異論を挟む子は一人もいなかったわ。困ったときは私も手助けするし、何より、あなたの本来の手腕をそばで見てみたいものだわ」
美しき恩人にそう背中を押され、マノンは就任の挨拶の際に、
「私は……いや、うちは、皆のためにできる限りのことをしたいんや。うちのことを選んでくれたた皆のために……」
星花に入ってからの初めての関西弁で自分の思いの丈を語ったのである。
これが、星花女子学園の伝説となる秀才美少女コンビ誕生のきっかけだったわけだが、マノンは一度も姫奏のことを対等な存在と感じたことはない。器量は抜きん出ており、性格も非常に好ましく、ただ勤勉かつ品行方正なだけでなく、愛嬌に満ちあふれ、プライベートに関しては意外とマイペースな一面も見せたりする。完璧じゃないところが、かえって姫奏の存在を至高たらしめているようであった。
マノンはそんな姫奏が大好きだった。恋愛関係はないが、彼女の一番近くで実力を発揮できることを誇りに思っていた。
その彼女と離れることになって悲しいと思わないわけがない。
「…………っ」
目頭が熱くなる。顔がくしゃくしゃになるのをすんでのところでこらえた。黒髪の親友も静かな視線をたたえながら沈黙していたが、ややあって口を開いた。
「……まあ、一番いいのは、来月まで延長していた渡仏を卒業まで伸ばすようお願いすることよ。あなたの家の事情は理解したけど、常識的に考えて、何の前触れもなくいきなり行方不明なんて、あまりにも礼に欠けているわ。一歩間違えれば警察沙汰よ」
「う……」
まったくその通りなので、マノンは返す言葉もない。
うなだれてから上目遣いで姫奏の表情をあおぐ。
「姫ちゃんは……うちが帰っちまうことに反対はしないんやな」
「私個人としては縄をかけてでも止めたいと思ってるけど、マノンの気持ちを踏みにじるわけにはいかないもの。どうするべきかはあなたが決めたほうがいいわ」
「姫ちゃん……」
「でもこれっきりとは思わないことね。私は星花を卒業しても、きわめて優秀な親友がいたことを生涯忘れるつもりはないから。もしあなたが私たちのことを忘れるようなことがあったら、清歌と理純さんを連れてあなたのもとに押しかけてあげるからね」
「忘れられるわけあらへんやろ。姫ちゃんのことも、星花のことも……」
マノンは籐椅子から立ち上がった。ふらつくような足取りで親友の前までやってくると、まぶたを閉ざして顔を近づける。姫奏も逆らわなかった。同じく目をつむると、そっと身を乗り出して差し出された唇に自らのそれを重ねた。トマトジュースのほのかな酸味が、まるで名残惜しさを物語っているかのように離れてもなお唇に残り続けていた。
「……お互いにファーストキスにならなくて残念だったわね」
唇を離し、姫奏が美しい顔に笑みをほころばせたが、それに対してマノンはわずかに口をとがらせた。
「姫ちゃんは自分から清ちゃんにちゅーしたんやから別にええやんか。うちは智良ちゃんに無理矢理奪われたクチやで」
「その理純さんのことを散々いじめたのはどこの誰だったかしら? まあ、いなくなってしまう前に理純さんとは話をつけたほうがいいんじゃないかしら」
「うん、わかっとる……」
ラッキースケベおぱんつ少女にした所行のことを考えると、どうにも返答が渋りがちになってしまう。しでかしたことのレベルに関してはお互い様だけど。それでも何とか決意を改めると、灰色髪の仏蘭西少女は長い付き合いの友人にいきなり抱きついた。姫奏は驚くも、すぐさま表情と同じくらいの愛おしさで華奢な背中に腕を回した。
質量豊かな胸にうずもれながら眠たげな甘い声でマノンは言った。
「姫ちゃん」
「なあに?」
「……だいすき」
「……私もよ。マノン」
暦の上の夏は、もうじき終わりを迎えつつある。
次回から星花祭編です。