友情エゴイズム(前編)
五行邸に招かれたマノンは、ボリュームたっぷりの夕食と栄養たっぷりの朝食によって体力と活力を取り戻し、メイドさんにお召し替えまでされた状態で姫奏と共にプチ旅行に出かけたのであった。
空の宮中央駅からローカル電鉄に乗り込み、空の宮の北部を見送り、夕月市の連なる家々にも別れを告げた。二人が降りた駅は夕月市の北端、なんとか町と呼ばれる地域とほとんど境目に位置するところにあったのだ。
マノンが思わず「うおぁ……」と声が出てしまうほどの田舎町であり、悠々とした山の裾野が川を挟んですぐそばまで広がっている。風光明媚には違いないが、まず先にインフラの拡充はどうなのかと気にかけてしまう空間である。りんりん学校の雰囲気にも似ているが、森に一歩踏み込めば鹿やら熊やらと出くわしても不思議ではない。
ここまで自然が濃いと、おめかしした二人の姿ははなはだ浮いてしまう。不釣り合いというわけではない。姫奏がこぼした「私たち、なんだか都会から実家に帰省しにきたイイトコのお嬢さんみたいね」という表現がぴったりだ。
姫奏は前ボタン式の袖無しロングワンピを着ていた。ベルトを締めてウエストを強調し、ツーサイドアップの黒髪は今は下ろしてリボン付きのカンカン帽を乗せている。マノンと共通しているのは手に持ったトランクぐらいのものである。
そのマノンのしている(より正確に言えば、姫奏の命によりメイドに着せられた)格好は、可憐な印象のミニサマーワンピに白のミュール。ゆるふわな灰色の髪はメイドによってまとめられて、鍔広の麦藁帽子にすっぽりと納められている。
マノンは最初、姫奏の選んだ服装に抵抗を示した。自業自得とはいえ凄惨な食生活による肉体を外に晒したくなかったからである。
だがマノンの懸念を、姫奏は一言のもとに切り捨てた。
「私の調理係の腕は確かよ。栄養面から言ってもね。だいたい二人きりでお出かけだというのにお相手がお洒落をしてないなんていただけないわ」
即座に仏蘭西少女は観念した。納得したというよりは、ここまできておいて友人とつまらない言い争いをしたくなかったからである。それに、どう考えても自分のしたことのほうに道理がないのだ。
トランクを両手で運びながら、マノンはぼやきがちに言った。
「なあ姫ちゃん、うち、いったいどこまで連れてかれるんや。そろそろ腕が限界なんやけど」
マノンは姫奏から行き先を一切知らされていない。言われるがままに用意されたトランクを手に持ち、誘われるがままに共に電車に乗り込んだのだ。今さら親友のことを疑うつもりはないが、ここまで引っ張られると興味も苛立ちまじりの疑惑に変わってしまう。加えて今日は朝から絶好調に暑く、滲み出た汗も形の良い顎にしたたり落ちるというものだ。
不満げなマノンの問いに元会長さまは茶目っ気たっぷりに応じた。
「そうねえ。二人っきりでホテルとかどうかしら」
「……冗談やろ?」
「もちろんよ。それはいつか清歌のためにとっておくとして、とりあえず二人で落ち着いて話せる場所なのは確かだから。……ほら、あそこ」
姫奏の指差した先にあるのは、いかにも潰れそうな感を漂わせている旅館であった。ホテルに和のイメージがついただけやんというボケすらも湧いてこず、呆れるよりも親友のあまりの目利きの狂いようにマノンは心配になった。またしても「……冗談やろ?」と、割と本気で姫奏の表情をうかがったが、彼女に気の触れたようすはない。
姫奏は実に慣れたようすでボロっちい旅館に近づき、マノンもおっかなびっくりのようすでついていく。外観はなんとも不穏をあおられるが、扉は不釣り合いなほど綺麗に手入れされており、姫奏のしなやかな手でするりと開かれた。
扉同様、内装も非常に洗練されたものだった。外側もこれくらい整えたらええのに……とマノンが心の中でぼやくと、隣の姫奏がそのつぶやきを聞いたかのような反応で得意げにウインクした。
「ここはお得意様しか入れないの。一般の方は丁重に追い返して、さらに間違って入って来られないよう、こうしてうらぶれたさまを演出してるわけ。父がよく連れてってくれていたし、噂によれば天寿の伊ヶ崎社長も休暇がてらよく訪れるそうよ」
説明をしているうちに女将さんが現れた。いかにもベテランの風格をただよわせている年配の女性であり、三分の一ほどの年齢でしかない姫奏とマノンに対して丁重に頭を下げた。
「これはまあ、五行さんのとこの子が自ら足を運んでいただけるとは喜ばしい限りです」
「いつも父がお世話になっておりますわ。こちらは同じく星花女子学園の河瀬マノンさん、私の一番の親友です」
「まあ、姫奏さんのご友人! なにぶんこぢんまりとしたところですが、どうか心ゆくまでおくつろぎくださいませ」
厚意に満ちた笑顔をちんまい仏蘭西少女にも捧げ、女将さんはふたりを部屋へと案内した。二階の最奥の和室で、落ち着いた調度品の置かれた広縁から圧倒的な自然をうかがうことができる。
荷物を置いたときはすでにお昼時に差しかかっていたが、姫奏は昼食よりも先に温泉に向かった。マノンも断らなかった。現在の痩身を姫奏にどう思われるかを考えると胸が苦しいが、とにかく汗まみれの身体を何とかしたかったのだ。
脱衣所で身につけているものをすべて取り払い、マノンは細い肢体にタオルを巻き付け、姫奏は堂々と一点の非の打ち所がない裸体を見せつけながらタイルの上を歩いている。
お湯で身体を洗い清めると二人はすぐに湯船に浸かった。本日の予約客は他にいないようで実質貸し切りの状態である。そのため姫奏も普段通りの声で単刀直入に切り出すことができたのだ。
「マノン。私はまだるっこしいことが嫌いだから単刀直入に言わせてもらうわね」
「……………………」
「あなたが仏蘭西に帰ってしまっても、私は絶対にあなたのことを忘れるつもりはないから」
初手からして致命的であった。このときマノンは姫奏の隣にいたのだが、上縁に腕を乗せ、彼女から視線を逸らしがちであった。そのマノンが水音も激しく振り返ったのだから、そうとうな爆弾だったというわけだ。
「なんで……それを……」
マノンの声はすでに泣き出す寸前になっている。
それに対して姫奏の反応は実にすましたものだった。
「あなたがそこまでふさぎ込まなければならない理由を考えれば他に有り得ないでしょ? そして、その動機があれば理純さんに対してさんざん嫌がらせした理由にも説明がつく」
マノンの塞ぎっぷりに疑惑を抱いた姫奏は、智恵と莉那に頼んでマノンに絡まれていたツインテールの後輩を連れてこさせ、菊花寮の談話室で彼女との出会いからりんりん学校で何をされたのかを事細かに吐かせた。ラッキースケベのことは智良は内緒にしていたが、りんりん学校の古ぼけたシャワールームで悪態をつかれ鎖骨にキスをされたこと、四阿で清歌のことを諦めさせられたこと、『悲鳴と嬌声の夜』にて散々からかわれた腹いせにキスしてしまったことなどは包み隠さず話したのである(ラッキースケベよりキスをしたほうが正直に話せるとは、やはりとんでもない娘である)。
「まあ……本当は理純さんの話を聞くまでもなかったのだけどね。りんりん学校の隠れ見晴台でのやり取りを見せられた時点で、嫌な予感はあったから」
「…………」
「意地でも話す気はないという態度ね……。それなら私の推理を聞いてちょうだい」
まずは……そうね、りんりん学校におけるあなたの行動について振り返ってみましょう。肝試しの件を除くと、あなたの行動にはある共通点が存在するの。理純さんから聞いた話題のすべてに清歌が関わってきているのよ。最初は、清歌に嫌がらせをした理純さんのことを私の代わりに成敗するつもりなのかと思ったのだけど、あなたは怒らなくても相手をなだめる方法を心得ているでしょう? 私、なんとなく理純さんを叱りつけるというより彼女と清歌を別れさせようとしてるんじゃないかと考えたの。
動機も考えたわ。正直これは先ほど以上にこじつけている感があるから的外れでも呆れないでね? 清歌が私のことを好きなのは疑いの余地はない。でも、二人の世界を完全なものにするためには清歌にご執心である理純さんの存在が邪魔になる。だから強行的に理純さんを排除する必要があったのよ。そして、私と清歌の世界を作ろうとしたのは私たちに向けた祝福ではない。もちろんそれもあるのでしょうけど、本来の目的は別にあったんじゃないかしら。
そうね、たとえば……あなたが忽然と姿を消しても私のもとに他に愛する清歌がいれば、私は寂しい思いをしなくて済む……。あなたならそれくらいのことは考えてくれてそうだから。
証拠もあるわ。少なくとも、あなたが私と清歌の愛を究極まで深めさせようと画策した証拠はね。あなた、あろうことか清歌に私を落とすための言葉やテクニックをあれこれ吹き込んでたんですって? あの子、ご丁寧にあなたに言われたことをちゃんとメモしてあったのよ。まあ、せっかくあなたが出してくれたアイデアだもの。それを拒むのも可哀想と思ったから、あえて乗らせてもらったけどね。決して清歌の言わされた感満載のたどたどしい殺し文句に身も心もほだされたわけじゃないのよ?
「……まあ、何にせよ、あなたの知略には前提からして無理があるのよ。私が清歌に没頭すれば、あなたとの思い出は完全に吹き飛んでしまう? 馬鹿言わないでちょうだい。清歌には悪いけど、あの子に対する愛情以上に私はマノンとの友情を疑ったことはないわ。ここまで軽く見られていたってことは、なに? あなたとの関係は私の一人相撲にすぎなかったってこと?」
悠然な姫奏らしくもない、おそろしく必死な声である。
マノンはちんまい謀略家の一面もあるが元より邪心とは無縁の少女である。親友の切なげな訴えなど無視できるはずもない。細々とした口調で言った。
「……何とも思わへんかったなら、姫ちゃんのためにこんなことなんかせえへんよ」
「あなたの気持ちがわかって安心したわ。で、あなたが肝試しで理純さんと組んだのは何のため? 『悲鳴と嬌声の夜』と言われてるのをあなたが知らないわけがないでしょ」
「……………………」
「これも私に言わせる気? しょうがない子ねえ。……私が思うに、マノンが理純さんと組んだのは、彼女の心をケアするためだったんじゃないかしらね。清歌のことを諦めてくれさえすれば、あなたが理純さんを憎む理由はどこにもない。むしろ彼女はわけもわからずマノンになじられた被害者なわけで、それに対して償いができないほど、あなたは薄情じゃないでしょ」
「……ばってんや、姫ちゃん」
わざとらしく姫奏は目を見開いた。
「あら。図星を突かれたのが悔しくて適当な弁明でごまかすつもりじゃないでしょうね?」
「大ばってんや。智良ちゃんにくっ付こう思ったのは嫌がらせのためや。曲がりなりにもあの子と関わりを持っちまった以上、うちに対してミョーな感情を持たれたら、いざいなくなった時に目覚めが悪くなっちまうやんか。だからちんまいおっぱいさすったりして何やコイツと思わせとけば、突然消えてもいなくなってせいせいしたわってなるやろ」
「あなた自身はどう? 理純さんに対して何の未練はないわけ? いきなりキスされちゃったっていう話だけれど」
「それは……。……」
「もう十分わかったわ。でも、あなたはそれでいいの?」
「うちがどう思ってようが関係あらへんやろ。どうせいなくなるんやから……」
「ずいぶんと頑固ねえ。ちょっとついてきなさい」
やんわりと言うと、姫奏は浴槽から上がり、風呂椅子にシャワーのお湯をかけた。洗ってあげると言うことらしい。
あらがったところで脳天から蒸し上げられるのがオチだ。マノンもすぐに湯船から上がり、親友がしつらえてくれたあったかな風呂椅子に小尻をおさめた。
ふわりと下ろした灰色の髪に指を絡めながら、姫奏は静かにささやいた。
「マノン。あなたは自分を過小評価しすぎている。あなたのやり方ですべてが丸くおさまると本気で思っているわけ? それをしたところで満足するのはあなた一人だけ……いえ、そこにあるのはかりそめの満足感だけで、あなたのためにもなりやしない」
「…………」
「あなた自身と違って、私は初めて会ったときのあなたのことも嫌いではないのだけどね。がむしゃらに策を張りめぐらせている今のあなたはまるで過去に戻っているかのようだわ」
「…………っ」
「時間はまだあるわ。ほんのわすかでしょうけどね。そのときが来るまで、私はあなたとの時間を無駄にしたくないの」
深くうなだれたマノンの表情を姫奏は見ることができないし、その必要も感じなかった。
お湯で親友の灰色の髪をすすぎ、シャンプーを当てながらつぶやく。
「目に入っちゃったらごめんなさいね」
「ええよ、べつに」
水音に消え入りそうな声とともに、少女は静かに目を閉じた。