智良、OG(オフビート&グラマー)と出会う(後編)
架葉あたるが理純諸美の『体質』に最初に鉢合わせたのは、付き合い始めてからおよそ半月後のことであった。
もともと諸美の圧倒的片思いから始まった恋であるが、あたるとしても悪い気はせず、周囲に恋愛熱風を撒き散らしていたとのことである。あたるの奇矯で自意識過剰な性格はこの頃から健在であったが(周囲からは『友達としてはいいが恋人には向かない』ともっぱらの評判であった)諸美はあまり気にならなかったもよう。あばたもえくぼも極めつきというやつである。
諸美はオシャレが大好きで、かわいい自分の姿を見せつけるため、あたるの家に遊びに来たものだが、彼女の家に着くまでに諸美の笑顔が保つことは滅多になかった。
「……初めて家にやって来たとき、直前でものすごいにわか雨が降っていたのだ。そしてブラウスを透かした諸美クンが私の前に現れた」
せっかくセットした髪はぐしゃぐしゃ、そして透けたブラウスからは窮屈げにしまわれたお胸と、それを包み込むピンクのブラジャーが見えたのだから、さあ大変。諸美のオシャレは見えないところにまで気を配ったものであり、ブラジャーも縁にレースをあしらった実に可愛らしいものではあったが、さすがにそれを見せるのはさぞ不本意なことであったに違いない。
もっとも、このときは架葉家の厚意もあって、浴室で恋人のシャンプーとボディーソープを使うことができ、恋人の私服も着られたというラッキーもあったが、諸美が雨に濡らされたのはこのときだけではなかった。デートや友達と外へ出かける際もまるで仕込まれたかの如くにわか雨に当たり、当人のみならず周囲もろとも巻き添えを食らわしてしまったのだ。諸美の『雨女』っぷりにお腹いっぱいになった友人は彼女をじゃっかん敬遠するようになり、それがあたるへの依存をますます強めてしまったとか。
顎に指を当て、あたるは考え込む仕草をとった。
「ざっと説明はしたが、今のはほんの一例だ。諸美クンは重度の雨女だけに留まらない。表現が許されるのであれば、風女、犬女、雪女、猫女……」
「なんか妖怪のたぐいが混じってるんですけど……」
「雨女と同じ理屈で言えるなら、このような表現も致し方あるまい。彼女が着飾って外に出かければ、突然の雨でブラジャーが丸見えになるか、強風が吹いてマリリン・モンローのごとくスカートがひるがえってしまうか、凍った地面に足を取られてあられもなくすっころぶか、犬にスカートの裾をくわえられるかの何かしらが起こる。……そういえば、木の枝に引っかけてスカートを破いたこともあったな」
智良はあぜんとした。しばらく会わないうちに姉はすっかり天然ものの歩くラッキースケベ女と化していたらしい。もっとも、彼女からすればアンラッキーの堆積物のような青春に違いないが。
「あれ? そう言えば、先輩の言った姉ちゃんの話で『猫女』のこと話しましたっけ?」
「むろん、智良クンの記憶力を試したいがゆえに、あえて黙っていたのだ」
嘘つけ。
「あれは星大最初のゴールデンウィークのときだった。友達が出かけるというので部屋で飼い猫を預かることになったのだ。まだ幼い子猫だったが、そいつはなかなかませていてな。諸美クンが昼寝をしているとき、その猫氏は彼女のニットワンピの裾から入り込んで一緒に寝てしまうんだ。そして諸美クンが目覚めたとき、猫氏は驚いて彼女のニットワンピの中で暴れ出す始末だった。といっても、あらかじめ爪は切られていたから彼女に外傷はなかったが、とにかく、くすぐったくてくすぐったくてしょうがなかったと。特に諸美クンはくすぐられても笑わず、なんとか声を押し殺そうとするのだが、それがまた実に厄介なもので……」
「……先輩、大丈夫なんです?」
智良が呆れて心配してしまうほど、目の前の中性的美女は恋人の所業に苦悶している。このままでは鼻血まで出て、イカした顔があられもないことになるのではと思ったが、あたるはどこまでも話したくて仕方がないようすだった。
「その猫氏は諸美クンのニットワンピが大のお気に入りでな。よくかじりついたものだよ。そして調子に乗って彼女のニットワンピをほどき始めてしまった。猫というのは本当に毛糸に心を奪われてしまう生き物なのだな。友人が猫を引き取りに来たとき、諸美クンのお気に入りのニットワンピは裾のボロボロなセーターと化してしまった」
「はあ」
もはやツッコむ気力も失せてしまった智良である。それでもまだ気になることがあったので、いちおうあたるに聞いてみた。
「それで? 姉ちゃんがおかしな服を着てたのは……」
「私の服をおかしなと言うな。あれは実験の一環だ」
諸美と行動をともにするうちに、あたるはあることを思いついた。いっそラッキースケベの起こる要素の服を着たらどうなるのか。というのも、諸美は普段からワンピースやスカートを好んで身につけ、その都度ラッキースケベな不幸に見舞われていたからだ。
あたるの提案に、諸美は最初難色を示した。着る前から似合うはずがないとさとっていたようであるが、気になる実験であることもまた確かなので、結局、男物と大して変わらない服に袖を通すことになった。
結果は明らかだった。まるで似合わない格好をした諸美は行きから帰りまで、久しぶりにトラブルに見舞われることがなかったのだ。それから何回も繰り返したが結果は同じ。あたるからすれば喝采ものであるが、被験者の諸美はこの結果に憤慨した。
「わたしに好きな服を着て出かける権利はないっていうの!?」
怒られたあたるこそ災難というものだ。そもそも、にわか雨を降らせているのは少なくとも諸美の恋人であるはずがないのだが、天に何かを訴えても仕方がないというところか。
あたるは長い脚を大げさに組み替えた。
「今日は少し手を加えて、ジャケットの下に白いブラウスを着てもらった。一部分だけ濡れ透けの要素のある白を混ぜ込むことで、ラッキースケベの神はどのような裁定を下すのか。……どうやら雨が降り出すか否かの際どい勝負であったが、最終的には諸美クンが打ち勝ったようだ」
「打ち勝った、って……」
その表現は正しいのかえとラッキースケベの少女が激しく疑問に思ったそのとき。
「たいへん! 夕食のしたくしないと!」
打ち勝ったご本人のご登場である。諸美はおピンクの下着姿のままではなかったが、増えたものと言えば、純白でフリルなエプロンを上につけただけである。正面か見れば裸にエプロンをつけたのと大して変わらない。
ラッキースケベの智良でさえ唖然とした姉の格好だが、その姉はきっと妹のことを睨みつけて厳しく言い放った。
「いつまでここにいるの。てか、そもそも何でここに来たというのよ?」
ここで智良は思い出した。この姉は匿名のUSBについてあたるに問いただしていたことを知らないのである。もっとも、文芸部でもない彼女がそのことに何か言えるとも思えないが、せっかくだから聞いてみることにした。
「ちょっと文芸部の子に頼まれてさ。OGの先輩に去年の騒動について聞いてたんだよ」
「ああ、あれ? あたるさんがわたしの作品と勘違いして載せちゃったヤツでしょ」
「それを言うなあぁぁああぁぁッ!」
天才作家氏が頭を抱えて悶絶した。いきなりのことに智良は驚いたが、尾を引いたのはむしろ彼女の挙動よりも姉の言葉のほうだった。きわめて何気なさそうに放たれたが、智良としては聞き流せないものがある。
「姉ちゃん、作品書いてたのかよ」
「あたるさんに触発されて、ちょっとだけね。でも星花祭の寄稿には間に合わなかった……」
裸エプロンもどきの美女が言うことではこうだ。学生生活最後の星花祭に向けて、当時文芸部部長であったあたるは恋人の諸美に文芸誌の寄稿を依頼した。諸美は自分で言ったとおり、あたるに影響されて作品を書いていたのだが、それは周囲には秘密にしていた。例外はあたる一人だけだ。
愛しいひとの手がける部誌に載せてもらえると聞いて、諸美は気負いすぎて、かえって筆が止まってしまった。せっかく引き受けたというのに、これでは恋人に申し訳ない……。締め切りが迫るにつれて焦りが募り、そしてついに、締め切りが過ぎた後も構想した作品が仕上がることはなかったのである。
星花祭が始まるまで、諸美は文芸部に足を踏み入れる気にもなれず、あたるに対して寄稿のことを話題にすら出さなかった。もっとも、だんまりを決めたところで聞きたがりの知りたがりである恋人に対しては無意味な抵抗のように思われたが、どういうわけか、あたるもなぜかそのことを尋ねてこなかったのである。
彼女がようやくそのことについて触れてきたのは、後夜祭が始まったばかりのことだ。
諸美は寄稿未提出の現実から目を逸らすように、料理部部長として星花祭の出し物に全力を注いだ。結果、大成功をおさめ、部員から大いにねぎらいの言葉を受けたのである。
その部員たちが揃って後夜祭に参加しようとグラウンドに向かい、諸美だけは夕暮れに染まる家庭科室にひとりたたずんでいた。特異体質の自分が外に出たらせっかくの夕焼けも台無しになるだろうし、自分が率いてきた部活に思いを馳せたいというのも事実であった。
そこに架葉あたるが現れたのである。
罪の意識に動悸が乱れた諸美であったが、あたるのほうもどこか悄然としたようすだった。滅多にないことだ。
「諸美クンすまない。今年の文芸部誌が差し止めになってしまった。審美眼のない愚かな連中が騒ぎ立てて、キミの作品を有害と決めつけやがったのだ」
唖然とした。そのような事実が絶対有り得ないはずであった。何せ、作品が未完成であるうえにその作品の内容さえ一切話していないのだから、部誌に掲載されるわけもないのだ。
だが、文芸部部長は本気で苦悩に喘いでいるようであった。
「……あの生徒会長、私がいくらこの作品の芸術性を説明したところで耳を貸そうとしないのだ。聖女のような笑みを浮かべつつも『この冊子の配布を認めません』の一点張りだ。あろうことが部員の後輩たちもその通りだとばかりに頷き、特に美海クンは憤怒の表情で『私たちは最初からこの作品の掲載に反対したんです!』と訴えかけてきた。……美海クンは非常に才能あふれた後輩なのだが、ちと視野と了見が狭いのが玉にきずだな。本当の意味で創作者を志すのであれば、諸美クンの作品の官能性ではなく芸術性を指摘するべきだった」
「ちょ、ちょっと待って、あたるさん」
諸美には何の話かさっぱりであった。星花祭が始まる前から終わった現在までずっと文芸部誌に関する情報は耳を塞いでいたのだ。あたるも今までこの話題について言及してこなかったから、諸美は彼女が内心、恋人の寄稿を部誌に掲載するのを諦めたものとばかり思っていたふしさえあったのだ。
諸美は呼吸をあらため、言わねばならなかったことをようやく口にした。
「あたるさん、わたしは文芸部に寄稿なんかしてないんだけど」
「……は?」
今度はあたるがきょとんとする番だった。狼狽から覚めると「何をバカな」と言わんばかりの視線で恋人を見た。
「匿名でUSBを送ってきたのはキミだろう?」
「違うわ。だいたいわたしがあたるさんに名前を隠す理由がないじゃない」
「その作品に名前を載せるのが恥ずかしいと思ったからではないか? 事実、その作品を読んだ私も思わず赤面したものだぞ」
「だから、その作品を書いたのはわたしじゃないったら」
苛立った口調ではない。とがめ立てする資格など諸美にあるはずがなかった。申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんなさい。わたし結局、星花祭までに作品を書き上げられなかったの。あたるさんがあれだけわたしに期待してくれたのに、それを裏切ってしまった。本当にごめんなさい……」
あたるがその言葉を呑み込むに少し時間がかかった。そして現実を知ったとき、文芸部の最高責任者はそのえげつなさに全身を激しくバイブレーションさせた。
「まさか……あのUSBの中に入ってたのはキミの作品ではないのか?」
「少なくともわたしじゃないわ。あたるさんに絶賛されるような作品を書ける自信ないし」
「バカな……。じゃあ、あの『麻理恵のへその下にあるほくろに熱い吐息を押し当て』とか『亜美と太ももをすり合わせながら、短いスカートにそっと指をしのばせて』といった描写が諸美クンのものではなかっただと……?」
「そ、そんな恥ずかしいこと、わたしが書くわけないでしょ!」
その情景をまざまざと想像してしまい、諸美は顔を真っ赤にして否定した。
その反応にあたるは今度こそ打ちのめされた。ぷっつり糸の切れた木偶人形のような崩れ方をして、口の端に何やら危ない笑みをたたえている。
「は、はは、ははは。つまり私はどこの誰ともわからぬ作品をキミのものと思い込んで載せてしまったというわけだ。諸美クンの作品なら、誰が反対しようと何としても掲載させるつもりであったのだが、ははは、私は何て愚かなことをしたものだ。生徒会からペナルティーを食らい、部員からも失望されて……。ああ滑稽だ。実に、非常に滑稽だ……」
諸美は困惑してしまった。ここまで自虐的なあたるの姿を見たのは初めてだからだ。しかも、夕日を受けて目元にキラリと光るものがあり、唯我独尊を地で行く部長でも心を痛めることがあると諸美は思い知らされたのであった。
諸美はへたりこむ恋人の頭を優しく撫でた。どんなことをやらかそうとも恋人として彼女を慰めるのは当然だが、そうしながら諸美は少し腑に落ちない点を口にした。
「……現実から目を背けてたわたしが言うのもあれだけど、あたるさんはどうしてわたしの作品について何も聞いてくれなかったの。匿名のUSBがわたしのものじゃないとわかれば、あたるさんもその作品を載せることはなかったでしょう?」
「おそらくな。あのUSBを見て『ふふ……こんな扇情的な作品じゃあ寄稿者の名前を晒したくないのも無理はない。諸美クンたらアジな真似をしてくれる……』と思わなかったら、迷わず落とし物コーナーに回していただろう」
「そうかもね。で、どうして話してくれなかったの?」
優しく聞くと、あたるは顔を上げて簡潔に応えた。
「……なにしろあんな作品だからな。私が無邪気に暴き立てていいのか迷ったのだ。私は思いついたままをそのまま口にするタチらしいが、それで諸美クンが傷つくのはいやだった……。だから、諸美クンが打ち明けるのを待っていた」
彼女にしては珍しく悲痛そうな表情を浮かべていたのは、おそらく自分の弁明が言い訳がましいと自覚していたからだろう。
だが、あたるの恋人はとがめなかった。それどころか、おかしそうに吹き出していた。
「……笑うことはないだろう。いや、あるのか」
傷ついた顔から、真面目に首を傾げ始めている。
諸美は今度ははっきりと笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね。今のあたるさん、とても可愛かったから」
「む……かわいいとな。初めて言われたな」
実際、可愛いのだから仕方がない。
天才変人と名高い架葉あたるであるが、今は諸美の気分を害さないようにと、ご主人さまの表情をうかがう犬のような表情をとっている。自分自身に正直すぎるあたるが不器用にも気を遣ってくれることが諸美にはたまらなく嬉しく、同時にさらに愛おしく思えてきたのだ。
そんなあたるの顔を眺めながら、諸美は眼鏡の奥の瞳を細めながら言った。
「うふふ、あたるさん。これからもよろしく」
「う、うむ……むろん、心得ている」
許された、と思い、天才作家さまも徐々に気分をよくしたようであった……。
「……ふーむ、懐かしいな」
思い出話を聞きながら諸美はソファの上でしみじみと頷いたものである。
智良としては、姉と彼女の壮大なノロケ話を聞かされただけの心地であるが、結局、あのUSBの持ち主はわかっていないらしい。というか、ふたりともそのようなことは、もはやどうでもよいことらしい。
あたるは大げさに両手を広げてみせた。
「つまりはな。私は諸美クンに対する愛情をUSBの持ち主にもてあそばれて、盛大なすれ違いによって涙した哀れな被害者だったわけだ」
同じ台詞、美海の前でも言ってみろよ。
思わず物騒なことが頭によぎったが、実際に口に出す前に智良の手のひらに何かが放り込まれた。どうやら、くだんのUSBということらしい。あたるがいつの間にか手に持って智良に投げて寄越したというわけだ。
智良はまっすぐ先輩を見つめ、その先輩は悠然と言い放った。
「持ってきたまえ。私たちにはもう必要ないものだ。犯人クンを見つけたらヨロシク言っといてくれ」
「はあ……」
「ねえ、もういいでしょ。いいかげん早く帰ってよ。わたしたちも暇じゃないんだから」
裸エプロンもどきの姉にせかされて、智良は半ばほうほうの体でふたりの部屋を後にした。
扉を開けた瞬間、智良は思わず全身で拒絶反応を示した。ラッキースケベの神様は姉がアパートに引き上げたのを見てやる気を失せたのか、すでに空の支配権をどこぞのカップルばりに調子づいた夏日に譲り渡したようであった。