ぬばたまヒストリア
りんりん学校に二度目の闇が降り立った。意地の悪い湿気が熱を抱擁しながら涼気を駆逐し、まるで少女たちの恨み言を待ち望んでいるかのような息苦しさだ。
もっとも、この時ばかりは焦げ付くような熱さは少女の内側にこそ存在していた。『ぬばたまの』という古語がふさわしい暗い森の中で、生徒会主導で催される肝試しが行なわれるからである。
背筋が凍るならともかく、なぜ心が燃え上がってしまうのか。その答えは、先輩から口伝された生徒なら誰でも知っていることである。
肝試しなんて、所詮は表向きのもの。可憐でおマセな乙女たちの間で密やかに語り継がれている、この催し物の異名は『悲鳴と嬌声の夜』。暗がりの中で、好きな女の子どうしと二人きりになれる、それの意味するところはあからさますぎるほどアキラカであり、生徒会の用意した到達地点より、そこらへんの茂みのほうが二人の目的地となりつつあっていた。野生動物のいない森の中で、野生でない狼が闇の中を跋扈するというわけである。
いちおう肝試しの名目ということで、生徒会役員もいろいろ用意しているのだが、ほとんど意味をなさない。もっとも、その子たちもカップルどうしでお化け用の白布の下にもぐり、不自然にモゾモゾしてたりと、個々でシアワセを噛みしめているようであるが。
清歌の胸を揉んで別れの形とした理純智良は、中等部のころからこの肝試しに参加していたが、その異名を知ったのは今から一年前のことであった。中等部の間はカップルを除いた服飾科クラス全員でクジを引き、適当に駄弁りながら決められた道を辿っただけなのだが、そんな智良も知識が増え、エヴァから猥雑な同人誌を見せつけられたこともあって、今ではこの森で本当は何がおこなわれているのか理解できていた。理解できたところで、そういうところまで食指が伸びない智良にとっては大して嬉しくはないものであった。
とうてい盛り上がれる気分でないので、今回は辞退することも考えたが、服飾科のクラスは正直ノリとテンションだけで構成されているようなもので、智良がその怒濤のうねりに逆らうことは不可能であった。こういうとき、ルームメイトの麻幌と組んで逃げられればよかったのだが、この時期の彼女は青森に帰省中とのこと。服飾科の生徒が集まり、智良も腹を決めて用意したクジを引こうとしたとき、
「おっ、智良ちゃん。お相手がいないんなら、うちと組まへん?」
智良は服飾科のクラスの中では割とムードメーカーのほうだが、このときばかりはその表情が醜悪な方面に崩れそうになった。事情を知るものからすれば至極まっとうな反応であるのだが、あいにく、それを知っているものは当事者どうししかいない。そのマノンは何事もなかったかのようなニタニタ笑いを浮かべており、智良としてもお昼の出来事を大っぴらに語ることには抵抗があったため、結局は元副会長の前でポーカーフェイスを決めるしかなかった。
マノンが後輩たちに尋ねる。
「智良ちゃんのこと、借りてもええか~?」
「智良を……ですか? まさか智良、先輩に何か粗相を……」
「してないっての!」
むしろされたほうなんだよ!
そう言い返すこともできず、そのまま喧々囂々の論議になりそうになったが、それをマノンが先輩の威厳をもって止める。そして、にこやかに言うのであった。
「ちゃうちゃう。うちはただ単に智良ちゃんとおデートがしたいだけやねん。だいじょーぶ、手荒に扱うような真似はせえへんから」
服飾科の少女たちから驚きの歓声が上がる。何人かは元副会長サマお得意のハグラカシかと思ったようであるが、元来ノリだけで構成されたクラスだ。先輩の恋路めいたものを邪魔するような野暮なものは一人もいなかった。
トントン拍子で商談、もとい対談がまとまってしまうと、マノンは智良の意向に構わず、さっさと生徒会にペアを申請してしまった。周りからの喝采を受けながら、智良は無言を貫いていた。先輩にどのツラさげてペアを組むとほざくのかと問いたい気持ちは当然あったが、今はそのときではないような気がした。
服飾科の集まりから離れた瞬間から、智良はずっとふてくされた表情をとっていたが、強引に連れ出すマノンに対して抵抗したりはしなかった。したところで無駄と判断したのもあれば、二人きりのときに思惑を探ったほうがいいと腹を決めたのもあったのだ。
「それでは、番号45から49までのペアは出発してください。よい一夏の思い出を!」
現生徒会長のアナウンスを受けて、ペア番号48である智良とマノンも動き出す。最初は他のペアと一緒に移動していたが、すぐさま分岐点が現れると、夜の森はラッキースケベの権威と関西弁フランス少女の二人だけとなる。智良としては隣にいる先輩とは同日の昼に喧嘩をしたばかりの相手で、会話などとても思い浮かびそうになかったが、マノンはもとがしゃべくりの少女だ。あたりが自然音のみになるという可能性は考えなかった。
そのマノンがいきなり溜息交じりに言う。
「姫ちゃんと清ちゃんのことも、せめてうちらぐらいに祝福してくれたらなあ……」
智良は心臓をつねられたような心地でマノンの表情をうかがった。最高学年とは思えないちんまい先輩は、昼間からまたしても装いを新たにしており、ふんわりとした灰色の長髪を結い上げ、淡い水色のタンクトップにデニムのミニスカートという格好である。智良との肌の露出部分の差異は脚だけであり、黒いニーソックス(昼間とは別物)を履いている智良に対して、マノンは素足にミュールというものである。
そのマノンが、幼く可愛らしい見た目にマッチしない思いつめた顔になっており、その深刻ぶりに智良は「『うちら』って、まさかあたしのことを言ってんじゃないよね?」と確かめるのを忘れてしまった。
うつむいていたマノンが、智良の視線に気づいて慌てて表情をとりつくろう。したたかで切れ者である彼女からすれば明らかな失態であるが、それだけ思いつめているというわけだ。
マノンは智良を見て、話題を変えてきた。
「そう言えば、智良ちゃんはどうしてそんなやらしい女の子になったん?」
なんだか、その後に「うちはあんたをそんな子に育てたおぼえはないんやけどなあ……」と続きそうな言い方である。「関西のオカンか」だの「アンタに育てられたオボエなんぞない」だのというフレーズが脳裏をかすめたが、智良としては昼間のやりとりとの落差にゲンナリする他なかった。
「……あんた、こんな話をするためだけにわざわざあたしと組んだのか?」
先輩相手についタメ口になってしまったが、当人はそれに対して気にしているようすはなさそうだ。さすがに周りに人がいれば多少の体裁は取り繕うつもりであったが、この状況で彼女に遠慮する気にはとうていなれない。
マノンはあっさりにっこりと智良の疑念をはぐらかした。
「モチロンやで~♪ 智良ちゃんと楽しくお話すること以外にわざわざ組もうなんて声かけたりせえへんやろ?」
「……まともに聞いたあたしが馬鹿だったよ」
「じゃあ、答えてくれるん?」
マノンにせっつかれて、智良の顔に素朴な気まずさが浮かんだ。わざとらしく視線を外す。
「別に言わなくてもいいじゃん。聞いたってしょーもない話だし」
「しょーもないからこそ聞いてみたいんや」
「なんだよそれ」
毒づいたが、マノンの青い瞳が明らかに「聞きたくて仕方ない!」と言わんばかりなので、観念して話すことにした。少なくとも、ゴール目指して歩きながら話せば、悲鳴やら嬌声やらの洗礼を浴びるよりはずっとマシと判断したのである。
「……きっかけは姉ちゃんだよ」
「智良ちゃんのお姉ちゃん? 星花の生徒さんなん?」
「今年卒業したばっか。今は星大の一年生」
「うちの一年先輩で苗字が理純って…………あっ!」
何か思い当たったように、マノンが両手を叩く。
「もしかして智良ちゃん、諸美先輩の妹さんなんか!?」
「理純って苗字、そうそうないと思うけど……まあ、そういうワケ」
「うーん。これはうちとしても迂闊やったわ~。ほんの数回顔を合わせただけやったし、それに、智良ちゃんとあんま似てへんしなあ。おむねあたりとか特に」
「おむねのことだけは先輩に言われたくないんだけど!?」
いちおう、この点に関してだけは優位に立てるので智良も強気である。もっとも、平均値から見れば智良の胸もかなり切ないレベルではあるのだが。
マノンは楽しげに笑いながら謝罪した。
「ゴメンごめん。でも智良ちゃんも十分かわいいから安心しいや。でも、諸美先輩が智良ちゃんのラッキースケベとどう関わっとるの?」
「……あたしと姉ちゃん、昔は仲が良かったんだよ」
「今は違うんか? 喧嘩でもしたん?」
「いや、星花時代に恋人できてからそっちにゾッコンになってから疎遠になって……ああ、でも喧嘩のせいでもあるかな」
理純諸美と智良は仲良し姉妹であった。少なくとも諸美が星花女子学園に入学するまでは。
諸美は小学校時代から他の女の子より発育が抜きん出ており、特に胸の成長は周囲を圧倒させるほどだった。ただ、彼女自身は扇情的な肉体を誇示することを嫌い、身体の線がはっきりしない服を好んで着ていた。
智良は幼少期のころから姉にべったりで、小学校にいたときも姉の姿を追い回していたほどだ。その姉が小学校を卒業し、二駅隣にある星花女子学園に通うと知ったときは号泣したもので、姉の入学初日に「一緒についていく!」と駄々をこねて背中にしがみつき、両親の二人がかりで手のかかる次女を引き剥がしたものだ。
星花女子学園に入学した諸美は桜花寮に所属し、家に帰ってくるのは月に一度あるかないかといったぐあい。非常に充実した学校生活を送っているようだが、それが幼き智良には面白くなかった。たまに家に帰ってきても全然構ってくれず、当時、小学六年生であった智良の苛立ちは頂点に達し……。
「……腹いせに姉ちゃんのでっかいおっぱいを後ろから揉んで『爆乳みさいる~』とか『母乳ぶらすた~』とかやったら、本気で泣かれて、しばらく口も利いてくれなくなっちゃって……」
「……そりゃまあ、そんなことされたらそうもなるわな」
マノンの笑みが珍しく引きつったものになる。
幼いながらも、あの行為が決してやってはいけないことだったとさとった智良は、相手の肉体(特におっぱい)を使ったラッキースケベは禁忌として心に留めておいたのである(そもそもラッキースケベかすらあやしいものだが)。その後、姉を追うように星花女子学園に入学した智良だが、あれほど激しくくすぶっていた『姉萌え』はしだいに薄らいでいき、服飾科の生徒との馬鹿騒ぎとラッキースケベの演出に明け暮れていたというわけだ。
「それで、結局智良ちゃんがラッキースケベこじらせた理由はなんやの?」
「ちっさい時、パンツ丸出してズッこけたときがあってね。そのときの姉ちゃんの反応が子供ながらにすごくそそられてさあ、あの快感をもっと味わいたいと思って寮部屋でも常に研究してたわけ」
「自然を装ってラッキースケベを起こせるように、ってわけやな。ルームメイトの子もオキノドク様やな」
もっとも、うらべぇこと占部麻幌は智良のラッキースケベに関しては強い感銘をおぼえることはなく、ただひたすらに自分の占いが頼られること、自分の占いがキチンと当たることを喜びとしているのであった。なんとも微妙な距離感であるが、なんやかんやでルームメイトの関係は今も続いている。
実は内心、智良はヒヤヒヤしたものであるが、わかっていて伏せていたのか、マノンの口から御津清歌の名前は一切出てこなかった。智良の一六年の人生において、最もラッキースケベに対して情熱を傾けていた相手。実のところ、智良が清歌に対してご執心ガールになったのは他ならぬ姉の影響であり、清歌の恥じらいがあの時の諸美の紅潮と重なったのが、智良の心を淡色ピンク色に華やがせたのであった。
清歌に関しては、今となっては何とも触れづらい話題になってしまったが、そんな智良の憂いが吹き飛ぶような事態が発生した。
マノンがいきなり足を止める。怪訝に思いながらも智良も先輩にならうと、研ぎ澄まされた聴覚に息を殺した少女の声と物音が聞こえてきた。