さめざめブロークンハート
友人ふたりに目配せを交わし、関西弁の西洋少女は智良の肩を担ぎながら、秘密の場所を後にした。人の気配が無いのを入念に確認してから、ハイキングコースに帰還する。
智良は泣き止んだが、顔は相変わらず降り出す寸前の黒雲を孕んでいた。ありさまも酷いもので、せっかくの可愛い格好も土埃で汚れ、ニーハイソックスの膝の部分がわずかに裂けて、血が滲んでしまっている。
移動中、マノンは打ちひしがれた後輩をなだめるのに必死だった。
「ごめんって。うちがぜーんぶ悪かった。あんなにキツく言うつもりはなかったんや。智良ちゃんスキやで、スキスキ、ちょー愛しとる」
「うるさい、もうさわってくるなあ……!」
マノンの慰めは普段のおちゃらけたノリでおこなわれたので、智良の傷心を癒やすにはいたらなかった。それどころか、散々罵倒してきたくせに今さら何を抜かすのかと必死に振りほどこうとしたものだが、片足を負傷した状態ではロクに力も入らず、みっともなく小さな先輩に押さえ込まれてしまうという始末。
二人が訪れたのは水音に富んだ四阿であった。どこからか湧き水が流れているらしい。満杯に水を入れたペットボトルをひっくり返したような水音が永続的に響いている。『風流だ』と誰かが言えば、とりあえず一同が頷くであろう空間ではある。
智良はうなり続けながらも抵抗を断念し、マノンとともに水音の近くに建てられた四阿に入り込んだ。丸太で建てられて、外壁だけなら小さなロッジを気取れるかもしれない。その中に休憩中の少女が何人かいたが、マノンは申し訳なさそうに人払いを命じ、ついでに保健委員から救急キットを借りてくるよう頼んだ。高名な元生徒副会長と負傷した智良の姿を見て、少女たちは素直に頷き、慌ただしく駆け出していった。
二人きりになると、智良は四阿の中にしつらえられていたベンチに腰を下ろす。マノンは立ったままで、汚れたいでたちの後輩を見つめた。青い瞳はよそよそしく、智良に許しを乞おうとするかようにも見えた。
「怪我を治すブツが届くまでもうチョイ待っといてな。心もそうだけど、身体と服をこんなにボロボロにしちまってホンマに悪かったわ」
「謝るくらいなら、最初からしなきゃいいじゃん……」
「ゴメン、そいつはムリ。うちは姫ちゃんと清ちゃんのことを心から祝福したくて、そのためには智良ちゃんに清ちゃんのことを諦めさす必要があった。智良ちゃんが傷つくのはわかってた。でも、うちとしても引き下がるわけにはいかなかったからな。思いっきりキツく言わせてもらったわ。智良ちゃんには清ちゃんに迷惑をかけたっちゅう名分もあったさかい、攻めるべき要素はタップリあったからな」
「あたしが……清歌をあきらめる……?」
思ってもなかったと言わんばりの口調だ。それとも受け入れられないと言葉以外のもので語っているかのようでもある。
「智良ちゃんには辛い話かもしれんなあ。ちゃんと確認はしなかったけど、智良ちゃんは清ちゃんのことが好きやったんやろ?」
「……………………」
実のところ、智良は清歌に対してどのような思いを抱いていたかわからなかった。正確に言えば、それについて考えるのが何やら照れくさく感じて、今まで無意識のるつぼに置き去りにしていたのである。むろん、大人しい子は清歌の他にもいるはずで、そのような子が相手ならば、ここまで集中的にラッキースケベを企てただろうか……。
自問の中、マノンが改めて智良の全身を眺めやる。
「さっき、砂利の上で派手にすっころんでたけど、外傷以外の怪我は足首の捻挫だけってことでおっけーなん?」
「んー、たぶん……」
「腫れた部分を見たいんや。ちょっとニーソを脱がせてもええか?」
答える前にマノンが跪いたので、智良はビックリしてその脚を浮かせてしまった。
「ひゃあっ!? いい、いったい何をするのさッ!」
「うちのせいで怪我したんや。せめて償いとしてうちの手で手当てさしてや」
「いらないってば! 償うっていうなら、せめて一人にさせてよ!」
「イヤ。私は智良の償いをしたいのよ」
ビクッとした。
不意に首筋をさすられたときのような痙攣のあと、智良はそれきり全身と舌を凍結させてしまった。大きな目だけがさらに大きく見開かれ、おそるおそるというふうに声の主の姿を見下ろした。
水音が近くに響く四阿の中、そこにいるのは智良の他には一人しかいない。灰色の髪の小柄な少女は青い瞳に感情の読めない光をたたえて、まっすぐに智良の顔を見上げていたのだ。色濃い日陰の中、それだけが異様に強い輝きを放っているようであった。
そのマノンは、持ち前の軽いノリと関西弁を完全に放棄し、怒ったときとはまた別の、まったく聞いたことのない声で智良を戸惑わせる。
声の透明さは彼女の親友の五行姫奏、神秘性は智良のルームメイトである占部麻幌を連想させた。だが、マノンの声はそのいずれにも属していないように思われた。魅惑的な声はどことなく小悪魔めいた響きを帯びており、クリスタルピンクの甘い甘い液体が、耳を通して智良の神経に注がれ、満たしつつあるようであった。
その声に智良は金縛りを受けたように動けず、マノンが自分のもとに上半身を乗り出すのを黙認してしまった。大腿部に張りついたニーソックスの口に指が触れ、そのくすぐったい感触に思わず目を閉じてしまう。
「……………………」
智良の目には何も映らず、耳は自分の息遣いと、遠くからの水音に支配されている。まぶたを閉じたことで、マノンの指の感触が際立ったように感じたが、光景を見るのが怖いやら恥ずかしいやらで目を開ける勇気もわかなかった。
「いい子ね。そう、そのままじっとしていればいいの……」
甘美な声の虜となり、智良は先輩のされるがままにされていた。身体は動かせないが、心臓は死に物狂いという勢いで躍動し、全身に必要以上の血流が駆けめぐっている。ニーソックスに包まれていた太ももが夏の外気に触れ、ずり落ちる動きに合わせてなぞられる指の感触にわずかに身を震わせる。
ニーソックスが膝まで脱げると、傷口が空気にしみ始めた。智良の痛覚が声なき悲鳴をあげるうちに、ふくらはぎまで空気にさらされ、ついに靴ごとニーソックスを脱がされてしまう。繊維が破れた範囲はわずかであったが、膝小僧の擦り傷はそれより広い円を描いており、陰の中でも鮮やかな赤黒さに、マノンは青い瞳に切ない光を浮かべた。
そして、剥き出しになった後輩のおみ足を見て、けったいな声を上げたのだった。
「うわわっ、智良ちゃんの足首、すっごい腫れとる。ちゃんと冷やさなアカンわな」
もうすっかり、いつものマノンの口調に戻っている。
智良の中で止まった時が動き出す。全身に張りつめた緊張が解け、大きく息を吐いた。もっとも、今、それ以外に動作を取り戻せたのは目だけであり、大きな瞳はさらに大きく見開かれ、関西弁のはずだった仏蘭西少女の顔を見下ろしていた。
その視線を受けたマノンは、したり顔で応じた。
「星花の子たちと五年以上も揉まれりゃ、普通の言葉づかいも身につくのはとーぜんやろ? もっとも、さっきの話し方は姫ちゃんリスペクトなんやけどな」
智良としては「はあ……」と生返事するしかない。あの魅惑的な響きの残滓がいまも心に張りついているかのようであった。
その間に、マノンは巧みに首と頭と目を動かして、高尚からほど遠い笑みを浮かべた。
「ふむふむ、アイボリー地に黒のフリルかあ。ホンマ、いいセンスやな。今度、智良ちゃんオススメの下着ショップ紹介してほしいわ」
「ふにゃあッ! み、みるなあッ!」
「えー、今まで散々見せとったくせに。なんで今はダメなん?」
「見せてもいい時とそうでない時とがあるの!」
いくつかのやり取りを経て、智良はマノンに引っ張られる形で四阿を出た。水が湧き出る箇所までおもむき、素足となった片足を差し出す。近づいただけですでに清涼感を受けていたが、実際、肌に水を絡みつかせると、天然の冷たさに思わず身震いしたものだ。
足首の腫れと、膝と肘の擦り傷にじゅうぶんな水を当てると、マノンが近づいてきた。智良が怪我をした箇所を清めていた間、サロペットの少女はずっと側にひかえていたのだ。無言で、まるでそうするのが当然と言わんばかりのたたずまいで。智良も、彼女が余計な手出しをするまでは、遠ざけようという野暮ったいことは考えなかった。
マノンはシリアスな笑顔というていで口を開いた。
「なあ、智良ちゃん」
「ん……なに?」
「恨むなら、うちだけにしてくれな」
「……………」
「姫ちゃんと清ちゃんが結ばれたのは自然現象やけど、智良ちゃんと清ちゃんを引き離す計画は、うちが勝手に考えたことや。それが気に食わんなら、満足するまでぶん殴るなりすりゃあええ。でも、その代わり、清ちゃんと姫ちゃんの関係に水を差さんといてほしいんや。……頼むわ、智良ちゃん」
智良は思わず、マノンの必死なようすに押されてしまった。二人のためなら、暴力を振るわれるのもいとわない。その言葉がとても冗談のように聞こえなかったのだ。
親友に対するあまりにも強い想いに、智良はまばたきして尋ねてしまった。
「マノン先輩は……五行先輩の親友なんでしょ?」
「せや。少なくともうちと姫ちゃんはそう思っとる」
「その親友が他の誰かにとられても平気だっていうの?」
マノンは可愛らしい顔をせいぜい小難しいものにしてみせた。
「うーん、知らない子ならともかく清ちゃんやしなあ。むしろ、お似合いのカップルとして心から祝福してたと思うで。てか実際、そうしたし」
「なんで、そう手放しで喜べるのさ……」
ふてくされたように出た智良の問いかけは、マノンに含み笑いを浮かべさせるものだった。
「なんでって、その答えは智良ちゃんが自分で出しとるやん」
「……へ?」
「うちは姫ちゃんの親友や。恋人じゃない」
「…………」
「親友ならば、相手の恋路は積極的に応援してやるのがスジってもんやろ? うちは少なくともそう思ってたけど、智良ちゃんは違うん?」
「知らないよ。そもそも清歌とは親友じゃないし」
「強がらんといてーな。清ちゃんからはともかく、少なくとも智良ちゃんは清ちゃんのことを好き好きと思ってたんやろ?」
「過去形で言うなよおっ!」
智良の憤激は足の痛みを一時的に忘れさせた。激情まかせに、マノンの両肩を掴みにかかる。
マノンは肩の痛みに顔をしかめるも、驚いたようすはなかった。智良の反応を予測して、あえて怒らせるようなことを言ったのは相違なかった。
マノンは肩を鷲掴みされながらも、やれやれと苦笑してみせた。
「ごめんごめん、悪かったわ。気に障ったのなら殴ってもええで」
「……そんなこと、できるわけないじゃん」
「ふーん、なして?」
「先輩をぶん殴って事態がよくなるわけないし、それどころか先輩を傷つけたと知られたら、清歌は今度こそ、あたしのことを失望するに決まってる」
言い終えたとき、青い視線がこちらに向けられていることに智良は気づいた。その視線を見返すと、小さな先輩が泣き笑いの表情を浮かべていたので、ついまばたきを繰り返してしまった。
「智良ちゃんは、ホンマにええ子やな」
「ウソだっ。清歌が嫌がってるのもわからないでラッキースケベを繰り返して、挙げ句の果てにぶち切れられたあたしのどこがいい子っていうんだよ」
「だって、うち、智良ちゃんが清ちゃんに振られた腹いせに、二人の関係をバラして、周りの子と一緒に攻めるんじゃないかと思ったもん。清ちゃんをこれ以上傷つけまいと考えてるなら、智良ちゃんは立派なええ子やで」
清歌を追いつめる意思が毛頭なかった智良は、マノンの発言に誇りを傷つけられた気分であったが、後半にべた惚れされてしまった以上、素直に憤慨するのもはばかられた。せいぜい強がりの反応をとるしかなかった。
「バカにするなよ。いくら清歌にキレられたからって、これ以上追いつめようなんて思うもんか。たとえ……」
続きを言うまでに、智良はわずかに目を伏せた。
「たとえ、清歌が二度とあたしのことを見てくれないとしても……っ」
強がった智良の心に融解が訪れた。どうしてこんなことを言ってしまったのか、智良自身もわからなかったが、その言葉は迫り来るであろう現実を想起させる力があった。清歌が手の届かないところにいってしまうような気がして、許容範囲以上の切なさに精神が打ちひしがれていく。
小さな先輩の肩を掴んだままツインテールの少女はうなだれた。マノンの視界に映らないところで、新たな水源が生まれた。山の湧き水と違い、ひたすら熱く、音もなく流れゆき、頬をつたって雫をつくっている。
同情の意味を込めて、マノンは不憫な後輩を優しく抱きとめた。智良は優しく後頭部を叩かれ、マノンの肩に顔をうずめたまま、救援が来るまでいつまでもすすり泣いていた。