激情ボルテックス
「遅かったわね、マノン。あなたの獲物がここまできたわよ」
親友にうながされた河瀬マノンは、セーラーカラーのシャツとデニムのサロペットという格好であった。質量とうねりに富んだ灰色の髪は今は下ろしているが、相変わらず、中高生の最上位の生徒には見えない。
そのマノンは汗で張りついた前髪を払いながら、慌てて走ってきたのだろう、息も荒く、姫奏に謝罪した。
「すまんかったわ姫ちゃん。後輩たちの相談事が長引いちゃって、すっかりこのザマや」
「慕われてるのね。ともかく、彼女は私と清歌の関係を知ってしまったわ。……あなたに任せていいかしら?」
「モチロンや。任せとき」
悪代官のような笑みを浮かべて応じると、マノンは立ち尽くす智良の肩をポンと叩いた。
「智良ちゃん、もうあきらめーや。あんたがイキったところで事態がよくなるなんてことは有り得へんから。ここで見たこと聞いたことはキレーさっぱり忘れ、大人しく他の女の子に対してスカートの中、押っ広げるのが身のためやで」
マノンのからかいに、智良は応えない。マノンのほうをあえて見ず、全身を震えさせながら熱風を予期させる静かな声を放った。
「……これが、あんたたち生徒会のやり方なのかよ」
「生徒会のやり方ちゃう。うちのやり方や。そないこと言うたら、智恵ちゃんが山吹色のお菓子をため込んでほくそ笑む悪い子になってまうやろ」
「そんなことは別にどうでもいいけど、無理矢理黙らせるのが先輩のやり方なら、あたしもあたしのしたいようにやらせてもらう。止める権利はないはずだろ」
「ふーん、なんや? 清ちゃんと姫ちゃんの関係をバラすんかあ?」
「それが何が悪いのさ! 周りをだまくらかしてるほうが明らかに悪いだろ! 元生徒会の二トップとやらがどれだけスゴいかは知らないけど、あんたたちのしようとしてることは、自分たちの都合のために周りの都合をねじ伏せようとしてるだけじゃんか!」
殺気立った智良の罵倒に、外見だけは幼いフランス人少女は怯むようすを見せず、華奢な肩をすくめてみせた。
「別にうちらとて好きでそんなことしたいわけちゃうで。今ここで、二人の関係を公表したら、姫ちゃんを慕ってた子たちの嫉妬と怨嗟が一斉に清ちゃんに向けられることになるんや。智良ちゃんだって、それくらいのことはわかるやろ?」
「あたしだけが悪いっていうのッ!?」
「そんなことは言うてへんやろ。そもそも姫ちゃんがウルトラスーパーアルティメットゴッデスの超絶有能美少女生徒会長さんでなきゃあ、二人のことをちゃんと大っぴらに祝福しとったで」
「私は、自分のやりたいようにやるまでよ。これからもね」
姫奏が会話に割り込む。マノンのおちゃらけた評価にかまけている気分ではなさそうだが、態度にはまだ余裕や生彩に満ちていた。
だが、そのふてぶてしいとも言える泰然さは、智良をさらに怒らせた。
「だったら、せめて清歌を巻き込むなよ! あんたが余計なことをしなきゃ清歌が周りから妬まれる可能性はなかったはずだろ! 自分がどう思われてるかも考えずにそのへんの女の子に手を出して、炎上しそうになったら無理矢理火消しってわけ!? あんたなんか、カリスマ生徒会長どころか、ただの横暴女じゃんかッ!」
パシン。
澄み切った平手の音とともに智良の身体はわずかによろめいた。舌鋒は中断され、一帯に静謐だけが広がりつつある。
その静謐を破ったのは、智良の頬を物理的に赤くさせた張本人であった。
「……その生意気な口をさっさと閉じィや」
マノンの声は今までの軽い調子とはまったくの別人である。ヤクザが童女に転生してドスをきかせれば、こんな声になるのかもしれなかった。
底冷えする声に智良は気圧されたが、恐怖に臆するのはまだ早かった。
「姫ちゃんを侮辱するような真似は絶対に許さんでッ!!」
反応は智良よりも、庇われているはずの清歌のほうが顕著だった。ただならぬマノンの激昂に青ざめ、瞳を潤ませる。姫奏はそんな彼女の震える手をしっかりと握りしめながら、険しい顔で、ことの成り行きを見届けようとしている。
そして、引っぱたかれた智良は一見、無反応のように見えた。だが、うつむいた状態で、目をカッと見開き、歯を強く食いしばっている。腫れた頬の痛みと同時に、怒りと戦慄で全身を小刻みに震わせていた。
そんな後輩に青い刃を押し当てるかのような視線を向けて、マノンはさらに容赦なく言い放つ。
「余計なことをしようとしてんのは智良ちゃんのほうやろ。姫ちゃんに対してだけやない、清ちゃんに対してもや。なあ、清ちゃんは智良ちゃんにとって一体なんなん? 清ちゃんを自己満のためのオモチャにするのも大概にせえや!!」
「河瀬先輩……っ!」
膝の上の人の存在を忘れて清歌が腰を浮かせかけたとき、智良はすでに踵を返して走り出していた。逃げ足の速さに定評のある智良であったが、突然、激しく揺れていたツインテールが全身ごと地面に失墜した。清歌には何が何やらさっぱりの状態であったが、最上級生の二人は、智良の足首が一瞬、奇妙な方向にねじ曲がったのに気づいた。
智良はうずくまっていたが、足首を思い切り捻挫してもなお立ち上がり、痛みも忘れたようすで再び走り出そうとした。怒りに任せた行動力は並々ならぬものがあったが、その熱意は不幸な結果をもたらした。ひねった足首を支点にし、智良は今度こそ身体を傾がせて、前身ごと砂利まみれの地面に接吻した。
「智良ちゃん!」
マノン先輩が駆けつける。智良の足の速さはマノンの全力の倍以上に匹敵するとされていたが、それも負傷していなければの話だ。ぺたぺたとした足どりで突っ伏した智良に追いつくと、マノンは智良の顔を地面から引っぺがすように上半身を起こした。智良は四つん這いの姿勢のまま、地面を見つめたまま動かない。
「うっ、ううっ……」
智良の顔はひしゃげていた。土埃で汚れ、涙と鼻水で汚れ、精神は決壊する寸前であった。
吹き荒れる激情の嵐を抑え込むには智良は小さすぎた。マノンが先ほどとは打って変わった優しい手つきで背中をさすり、それだけで智良の押し込めていた感情は暴発してしまう。
「う、うああぁぁああぁぁああ……ッ!!」
マノンは気が済むまで智良を泣かせてやった。姫奏と清歌が立ち上がり駆け寄ろうとしたが、マノンは自分の口元に人差し指を当ててそれを制した。再び智良を見るマノンの表情は、心が締めつけられるようすを表面化したようであった。