英雄のディストレス
りんりん学校一日目の出し物がすべて終わり、あとは寝静まるだけという時刻。御津清歌に謝罪せんとする(その実は憧れの五行姫奏に失望されないため)十数人の少女たちが、けたたましい足音を立てながら、施設内を駆け回っている。
「ああっ、ひ、姫奏さまっ!?」
少女たちが揃って素っ頓狂な声を上げた。清歌に会うという目的は達成されたが、同時に、憧れの姫奏さまとも鉢合わせてしまったのだ。普段は神格化してやまない元生徒会長さまであるのだが、やましいところがある少女たちにとっては今や断罪と懲罰の女神さまにしか見えなかったのである。
もっとも、それ以前の理由で姫奏は一同に対して眉をひそめたのであった。
「あなたたち、こんなところで何してるの。消灯時間も過ぎた時刻に、大きな音を立てて」
姫奏さまは大浴場から上がったばかりの様相をしていた。備え付けの浴衣を身につけ、豊かな胸を勢いよく押し出している。紫がかった黒い長髪を流し、生乾きの光沢から湯気とかぐわしいシャンプーの匂いを漂わせていた。湯上がりタマゴ肌というべき質感の胸元に水滴が張りつき、彼女を敬愛してやまない同性たちを生唾ゴックンさせた。
五行姫奏は髪からしたたり落ちる水滴をぬぐう余裕はなかった。両手はふさがれており、その手は一人の少女をお姫さまだっこで抱えている。少女は格好も湯上がりたての状態も姫奏とほとんど同じで、ただひとつ、顔色を除いては。茹で蛸どピンク色に染め、姫奏と少女たちとのやりとりが聞こえないレベルでぐったりしている。ご自慢の黒髪サイドテールをほどいて流していた御津清歌であった。
消灯時間を過ぎた後の元会長さまの入浴を、少女たちは咎めるつもりはなかった。そもそも、大浴場が貸し切り状態なのは、彼女を敬愛するものたちの努力があってこそのものであった。六年間頑張った姫奏さまをいたわろう! という名目で、教員や施設の管理者に押しかけ、許可を得た、というより強権的にもぎ取ったのである。
「私が露天風呂に訪れたときにはすでに隅でぐったりしていたわ。貸し切りを知らずに入ったのか、皆入っている時刻にすでにダウンし、そのまま置き去りにされたか……」
ごめんなさい清歌。心の中で姫奏は謝罪した。言ったことのデタラメさは、発言者本人が一番よく知っていた。清歌を風呂に連れて行ったのは他ならぬ姫奏自身で、自身の愛情を示すために彼女をお湯以外の方法でのぼせさせたのであった。浴衣の下の肌には麗しい姫奏さまの見えざる痕跡が余すところなく残されていて、甘い甘い嬌声を湯気とともに夜空へ捧げたのである。
もっとも、姫奏はそのようなようすをおくびにも出さず、静かな視線で一同を見据えた。
「あなたたちがどうして寄ってたかってやってきたのかは知らないけど、せっかく、これだけの人が集まってるのだから、ひとつだけ言わせてもらいたいことがあるの」
なんだろう。少女たちは身構えたが、自らの後ろ暗さを承知して内心震えが止まらずにいた。姫奏さまは直接口にはしなかったものの、清歌からの告げ口は受けていたはずである。すでにマノンから話をうかがった少女たちは、清歌に謝罪し、彼女に押しつけた業務をまっとうしていたのだが、ここにいる少女たちは情報を聞くのが遅れたものであり、自身の置かれた状況に戦々恐々としている。
だが、憧れのお姉さまがもたらした表情と言葉は一同の予想だにし得ないものであった。
「……ありがとう」
「へ?」
「あなたたちのおかげで私は思い切り羽を伸ばすことができたわ」
突然褒められて少女たちはポカンとなったが、失態を見せるわけにはいかないと、慌てて表情をとりつくろう。
「いえ、その、もったいないおとこばで……」
「わざわざ部屋や大浴場を貸し切りにしてくれるなんて……私なんかのために、ここまでしてくれるなんて正直思わなかった。口にするのはちょっと恥ずかしいけど、とっても嬉しいわ」
遅れて来たものは正直、清歌に謝らねばと焦り、気を揉んでいたが、姫奏の言葉を受けて 不快に乾ききった心に慈雨がもたらされた。『残り物には福がある』という意味を実感し(用法として正しいかは置いといて)、この時点ですでに涙ぐむ少女もいたほどだ。
姫奏はさらに告げた。
「……マノンから星花の中で嫌がらせが起きていると聞いたけど、ここまで尽くしてくれるあなたたちがそのようなことをするなんて信じないわ。『呼び出してお説教するんかぁ?』とニタニタ顔で言われても、確証がないし、それにせっかく滅多にない時間を説教に使って台無しにするのもしのびないわ。でも……もし万が一、御津さんに引き続きそのような目に遭わせようとする子がいるなら、あなたたちの手で優しくさとしてあげて」
彼女と正面からまみえたことのない理純智良にとっては、五行姫奏は規律と厳格の象徴でしかなかったが、実際のところ、彼女が逆上して叱りつけることは滅多にない。そのようなことをするのはよほど大きな問題を起こした生徒にかぎり、それも年に一度あるかないかの話である。
美人だが、悪い言い方をすればきつめの顔である事実を姫奏本人も自覚しており、その顔と態度で校訓の後半にある『大胆な行動』を無法のものにいたらせないようにしていた。厳冬の女王だの、神罰の代行者だのという噂が一人歩きしていたが、姫奏はその噂を訂正しようとはせず、素行の悪い少女を震え上がらせ、それ以外の少女をときめかせた。前者を相手にする際も、噂とはかけ離れた春の暖気を思わせる物言いで心を解きほぐし、ファンが絶えない一因となっている。
その洗礼を受けた少女たちが、聞き分けのいい園児のように頷いた。姫奏も応じるように表情を和らげる。その心の中で「いつからうちの清歌がこんな目に遭わされたの……」と暗色の雲を抱きながら。
「それから、羽を伸ばすついでに、ひとつ羽目を外すようなおねだりをしてもいいかしら」
快諾の意味する表情が少女たちの顔に次々と咲いた。彼女たちにとって、憧れの姫奏さまを喜ばせられることはこの上ない名誉であったからだ。
だが、その内容は必ずしも少女たちを喜ばせるものではなかった。
「この少女……御津清歌さんをしばらく私の手元に置かせてもらえないかしら」
「えっ……」
喜色に咲いたかんばせが不穏と当惑の風で揺れた。周囲をから敬慕を一心に受けた彼女が一人の少女を独占するという事実を、許容することは強い抵抗をもたらした。
姫奏は抱え込んでいた少女の顔に視線を送った。
「マノンと彼女を交えて生け花の話をしたら、思った以上に盛り上がってね。お花のことでこんなに熱くなったのは本当に久しぶりだった。聞けば、御津さんは仕事に追われ、星花祭向けの作品のコンセプトすらできていないという有様だったから、当日まで間に合わせるように私も力を貸したいと思っているの……」
優しく語りかけても、少女たちの心をほぐすにはいたらなかった。姫奏さまが個人に肩入れすることなど例がなく、手元に置く理由が『お花のため』だけなのかと、多感の乙女が心を騒がせるのも無理はなかった。
だが、それしきのざわめきで論調を崩す姫奏ではなかった。
「ふふふ、あなたたちの言いたいことはわかるわ。皆にとっての御津さんを私なんかが独り占めするなんて! ……と、そんなお説ゴモットモなことを口にしたいのでしょう?」
いえ、逆です。姫奏さま。
天然なのか、とぼけているのか、聞き出せる剛の者は少女たちの中にいなかった。だが、淡い虹色のオーラさえ感じられる姫奏さまに対して、別の質問を投げかけた勇敢な少女はいた。恐ろしく直情的で、切羽詰まった声で。
「あの、姫奏さまっ! 恐れ多いことをうかがいますがっ、本当に御津清歌さんとお花の話をするだけなんですよね!? やましいことなんかしませんよね!?」
悲鳴のような問いかけに、周りの少女が非難めいた視線を向けた。『姫奏さまに何て物言いを!』と言いたげであったが、実のところ、発言者の質問は一同の総意でもあった。それに対して、姫奏は表情と声音に黒雲の予兆をちらつかせた。
「心外ね。御津さんが私にやましい思いを抱いたまま迫るのを、私が黙って見過ごすと本気で思っていたわけ?」
「そ、そんなことはありませんが……」
一同は大いに焦った。せっかく上機嫌だったのに、それを損ねられてはたまらないと判断したのだろう。姫奏さまは少女たちの感情を逆手にとり、再び慈愛の笑みを向けた。
「あなたたちの想像するようなことは起こらないから安心なさいな。さ、もう行きなさい。これ以上夜更かししては、明日の起床時間はお寝坊さんよ。年に一度のイベントなんだから、ちゃんと羽を伸ばさないとダメよ」
にこやかだが、有無を言わさない姫奏の態度に、少女たちは退散していく。
足音が完全に消え去ると、元生徒会のおねえさまは、深々と溜息を吐いた。ふてくされた表情は艶麗な彼女に似合わず、意外と子供じみていた。
抱きかかえていた清歌の姿勢を変えてから、視線を変えずに静かに言った。
「……もう悪趣味を続ける理由はないはずでしょう。さっさと出てきなさい」
その声は、視線に映し出された無人に向けたものではなかった。呼びかけを受け、姫奏の背後にある廊下の柱から河瀬マノンが爆笑を必死にこらえながら現れたのである。
「ぷくっ、くくっ……姫ちゃん、あんた、お笑いの才能あるで……」
「マノンに評価されるなんて光栄ね」
にこりともせず姫奏は言った。
フランス人少女はなおも腹を抱えて笑っている。
「『私が黙って見過ごすと思ったわけ?』だの『あなたたちの想像するようなことは起こらない』だの、って……。ぷくくっ、確かに、姫ちゃんの言うとおりやな……」
マノンは柱の陰から、姫奏とファンのやりとりを一部始終見ていたのであった。少女たちの顔ぶれを一瞥したところ、少なくとも変態淑女エヴァンジェリンに匹敵する精神構造の持ち主はいなかった。
かつての生徒会長と副会長は並んで歩き出す。姫奏があまりにも仏頂面を決めていたものだから、マノンは面白がって親友に言った。
「姫ちゃん、そんな顔をファンに見せたら、みんながビビっちまうで」
「構わないわ。私はもう生徒会長じゃない、ただの受験生に過ぎないのだから。後輩からどう見られようと知ったことじゃないわ」
「そりゃあ姫ちゃんに手を出す勇者はおらんと思うけど、その分のフラストレーションを清ちゃんにぶつけるというのはじゅうぶん有り得る話やろ?」
姫奏はぐっと歯を食いしばった。見下ろした清歌は揺れが心地よいのか、のぼせ状態からおねむの状態に変わっている。あどけない寝顔を浮かべる清歌に姫奏は優しい視線を注いだが、顔を上げるとすぐさま厳しい表情に戻る。愚痴めいた声がこぼれた。
「六年間、星花のために尽くしたものに対して、ずいぶんと扱いが酷いと思うのだけど」
姫奏の言葉が決して誇張表現じゃないことを、そばにいたマノンは知っていた。姫奏は自身のやりがいを遺憾なく発揮し、生徒の称賛と教員の評価を一身に集めた。別にそれ目当てで仕事に精を出したわけではなかったが、姫奏としても悪い気はしなかった。
生徒会を引退するまでは、姫奏は人間よりも仕事に恋するようなおねえさまであったが、形無き恋人を智恵に明け渡してからは、受験勉強に追われながらも、どことなく空虚な日々を過ごしてきた。
そんな折、御津清歌に出会ったのだ。彼女のくすぐられるような態度に、姫奏は心の空白を支配されてしまった。もっとも浮き足立ちながらも、姫奏は冷静さを失っておらず、自分が清歌とくっつくことを、仕事ほど周囲が歓迎してくれないことは理解していた。周囲というのは、特に、おねえさまのことを好いてやまない後輩たちのことである。
マノンなどは「姫ちゃんはずっと星花のために頑張ってきたさかい、終えた後くらい彼女つくって浮かれまくってもええと思うけどなー」と言うが、そこまでアッサリと引き下がれる少女は圧倒的に少ないのであった。
いまだに圧倒的なカリスマを持つ親友の心中を察し、マノンは同情するように言った。
「もし姫ちゃんが生徒会長でなくても、現状は大して変わらへんと思うで。姫ちゃんの見た目や心で地味を通すんは、かなり無理があるからなあ」
「マノンだってじゅうぶん目立ってるじゃない……」
「うちはまあ、友だち付き合いのノウハウは心得ておるし。姫ちゃんも、うちや智良ちゃんを見習って愛嬌を身につけておくべきやったなぁ」
「あなたはともかく、智良って子の所業は愛嬌で済まされるのかしら」
理純智良の存在を、姫奏は今朝、バスの中でマノンから聞かされたばかりだ。ラッキースケベを演じることに執念を燃やしているという特殊な性癖を持つ少女。どうして今まで知らなかったのか不思議なくらいであるが、とにかくおぱんつを見せびらかすことで悦びを得ようとするのは愛嬌よりも奇矯に近いのではないかと姫奏は思ったのである。もっとも、清歌がラッキースケベをしてくれるなら、別のサインとして認識していただろうが。
「ま、うちとしても、清ちゃんが泣きを見るのは許しまへんッ! やから、八つ当たりされるんようできるかぎり力を貸すで。普通の子たちなら、うちらの話術でなんとかなりそうやけど、問題は……智良ちゃんやな。あの子は、姫ちゃんに心酔してはいないからな」
「まあ、非行にはしる少女なら、私に好意を持たないのは当然のことだわ」
そこでマノンはニヤリと笑いながら親友に頼み込んだ。
「なぁなぁ、姫ちゃん。智良ちゃんのことはうちに任せてくれへん? 必ず姫ちゃんと清ちゃんに累が及ばんようにしたるから」
「まあ、あなたは彼女のことを知っているみたいだし。もはや私は生徒会長じゃないけど、親友としてあなたにお願いするわ」
「ありがとうな。姫ちゃん」
二人は姫奏さま専用の大部屋の前に辿り着いた。マノンは、清歌を担いでいた姫奏とここで別れたが、最後の最後に声をかけた。
「姫ちゃん。最後に一つだけええかあ?」
「手短にね。私も、いい加減限界なんだから」
長時間、少女をひとりお姫さまだっこをしていれば無理もない。姫奏もまるっきり力が無いわけではないが、清歌もいちおう健康的な少女の体重をしているのだ。
その姫奏に、マノンは最大限にふざけた笑顔を浮かべて囁いた。
「シーツを血で汚すんは……ナシやで?」
「なッ……!? そ、そんなことしませんッ」
まるで図星をつかれたように顔を赤くする姫奏をよそに、仏国人のロリ少女は高らかに笑い、夜の廊下を駆け出していた。
これでりんりん学校一日目は終了です(遅くね?)