幻影③
翌日からは剣の稽古が足され、幻影には覚えることが多い日々となった。だが、メアリと一歩ずつ紅国に向かって進む道のりが楽しかったのもまた事実だ。獣と遭遇することもあったが、メアリは驚くほど強く、次第に獣に対する恐怖が薄れていった。
メアリは最初、死んだ獣に剣を突き刺すことを幻影に求めた。
「いくら獣だから敵だからと言っても、生き物を殺すというのは勇気がいることだわ。まず、肉を刺す、裂くという感覚をせめて覚えるのよ」
刺すことは案外簡単だった。分厚いゴムのようなものを突く感覚、刺した途端に吹き出た血にこそ吐き気を覚えたが、それにも次第に慣れた。温水だと思えばいい。幸いなことに、獣の血は赤ではなく緑で、血ではないと脳を騙すことができた。臭いは口で息をすれば誤魔化せる。
問題は「裂く」ことだった。刺す時とは違い、剣に肉がくっついてくる感覚がある。ぐにゅぐにゅと、気持ちの悪い音がする。力も要る。これに慣らさせるために、メアリは獣を始末する度に肉を捌かせた。
最初は食べられなかった。自分が捌いた肉が目の前で焼けているのを見ると、どうにも胸が気持ち悪くなる。
メアリは、自分で捌いた肉を焼いて幻影に食べさせた。現金なことに、他人が捌いた肉は驚く程美味く、久しぶりに食べた肉に活力が漲った。そうして肉の味を教えると、今度は幻影に捌かせて調理をさせる。食べられないと、またメアリが捌いて差し出してくれる。
これを根気よく繰り返し、幻影はとうとう自分で捌いた肉が食べられるようになった。
次はいよいよ生きている獣に刃を向ける練習に入る。毎日岩を削って刃物を作り、メアリが見つけてきた弱い獣から狩る練習を始める。最初に幻影が仕留めたのは、幻影よりも小さな、大型の犬ほどのサイズの獣だった。
もちろん、一人で仕留めたわけではない。メアリが矢面で立ち回りながら指示を出し、幻影はただ、仕留める。生きている獣を始末する。
これに慣れるにもかなり時間がかかった。剣先が鈍って急所を外すと、この世のものとは思えないほど悲痛な咆哮を上げて血を撒き散らした。
「躊躇っては駄目よ。一撃で殺してあげるのがせめてもの情けよ。幻影が躊躇えば躊躇うほど、獣は苦しんで死んでいく」
最初の失敗は尾を引き、幻影は獣に刃を向けることが出来なくなってしまった。あの悲痛な叫び、死を恐れる助けを乞う悲鳴が耳から離れない。
一度目の失敗で怯み、鳴き叫ぶ獣に必死で次の一撃を与えて、また外す。その度に断末魔の咆哮を上げる獣にまた一撃、何度も狂ったように刺して、ようやく絶命させた時の手の震えと恐怖が忘れられない。
メアリは死んだ獣で何度も急所を教え、根気よく根気よく幻影に接した。あんな細身の女性が一太刀で獣を倒すというのに、情けない。獣を一撃で「殺してあげる」ことがこれほどに難しいとは、思ってもみなかった。
「正道というのがあるの。狩猟区内で唯一、確実に獣を回避できる旅行者のために国庫を支出して作られた道よ。紅国と水国、水国と雷国を繋ぐルートがあって、前者は二本、後者は一本の計三本がある。獣を避けるため、正道の周りには浮浪者が多いわ」
メアリと紅国を目指して歩き出してから、二ヶ月が経とうかという頃、メアリは唐突にそう言った。
「ここから今のペースで一ヶ月ほど歩けば、正道が見えてくる。どうしても勝てないような敵に出くわしたら、正道に逃げるのが最善よ。国が整備した道で、武官のいる屯所も要所要所にあり、正道付近で獣が現れたら助けにきてくれるの。傷を負った時とかにも、正道の付近で休むといいわ。そんな人達が多いから、話を聞いたりして情報を集めるのもいい」
「じゃあ、その正道を辿って行けば、紅国に着く?」
その通りよ、通常ならね。とメアリは苦く笑う。
「正道は国と国を繋ぐ道。身分の確かな者が安全を保証されて交易を行うための道よ。残念なことに、私やあなたのように身分証を持たない者や、罪を犯して国から逃げているような人間は要所にある屯所で身分証を示せなければ捕まってしまうの。だから、少し正道を外れた辺りを正道に沿って歩き、命に替えられなくなった場合にのみ正道に逃げ込むの。だから、正道ではなく正道の回りを徘徊しているような連中は、私達を含めろくな人間がいないわ。だから獣じゃなくても注意をする必要があるのだけれど、獣を前にすれば皆命第一、協力して戦ったり、情報を交換したりできるわ。金目の物を奪われないように注意は必要だけれど、私達は特になにも持っていないから、堂々としていればいい」
一応、注意は必要よ、とメアリは繰り返した。
それでは、もう少し行けばメアリ以外の人間に会えるのだ。あれほど人を探していたのが嘘のように、何故か心が沈む。まだ、メアリと二人で旅をしていたかった。
「でも、それなら俺は、紅国に辿り着いても、国には入れないんじゃないのか?」
「身分証は、生まれた時にのみ発行される。ただし、もう一つ仮の身分証を発行する方法があって、それが傭兵なの。幻影は自ら剣を学びたいと申し出てくれたけれど、実は、どっちにしても学んでもらうつもりだったの。傭兵の資格を与えられてきちんと任務をこなせば、仮の身分証が発行される。でもこの身分証は一般に生まれたら皆が与えられるものとは違い、常に監視を受ける身分証なの。なぜなら、傭兵の身分証を得ようとする者は大概にして、生まれた時にもらった身分証や名前、過去に至るまでを抹消したがっている罪人がなる場合が多いから」
「そうと分かっていても、許されるんだ」
「だから、それでも必要とされるだけの技量が求められるわけなんだけれど」
メアリは困ったように笑う。つまり、今の獣一匹殺せない幻影では無理だということだ。
「・・・メアリは、どうやって獣を倒したんだ?初めて倒した時。大丈夫だった?」
「大丈夫といえば大丈夫だったかしら。無我夢中で、気づいたら殺していた。大切な人が、私を庇って襲われていたから」
そうね、とメアリは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「次は、私が獣の真ん前に立って一切抵抗しないでおきましょうか。なりふり構わなければ、無意識に大切な命を前にして、罪を選ぶもの」
「大切な命」
「あら、値しない?」
メアリは困ったように言う。十分に値する、と幻影は言わずに目線を退けた。
実際にその方法で幻影が獣を狩ることに成功したのは、三日後のことだった。本当に全くメアリは動かず、いざとなれば逃げるだろうと例にもよって及び腰になっていた自分だったが、獣がメアリの片腕を攫っていった時にはもう頭は真っ白になっていた。
左腕から血をだらだらと流しながら、それでもメアリは微動だにせず、じっと立っていた。用心深くメアリを観察していた獣は、彼女が反撃しないことを悟ってか、今度は一直線に頭を目掛けて飛びかかった。気づいた時には、後ろから刺し殺していた。
「ほら、できたでしょう」
メアリは腕に包帯を巻きながら、あっけらかんとそう言った。幻影は震える手でメアリを赤ん坊のように抱きしめた。
「・・・死んでしまうかと、思った」
メアリは幻影の腰をぽんぽんと優しく叩く。
「その恐怖を覚えておいて。そうしたら、あなたはいつでも獣を狩れる」
幻影はひとしきりメアリの命を確認した後、情けなくもそのまま気を失ってしまった。メアリの膝枕で目を覚ました時の恥ずかしさは、未だに忘れられない。
ともかく、幻影はまた一つ、メアリから学んだ。
それからまた何日か経って、幻影は初めて死体を見た。獣ではない、人の死体だ。
「獣に襲われたのね。だいぶ日が経っているから、もうこのヒトを襲った獣は近くにはいないでしょう」
メアリは死体を観察しながらそんな事を言う。獣とはやはり違った衝撃があったが、血の臭いに慣れてきたせいか、遺体の状態がそこまで損なわれていなかったせいか、吐き気をもよおすようなことはなかった。
横腹を食いちぎられているが、他は綺麗なものだ、などと思ってしまう自分に些か呆れる。慣れというのはなんと恐ろしいことか。
「丁度いい機会だわ、棺を作りましょう」
「出会った時にメアリが作っていた、あれ?」
大切な誰かを思い出してしまうだろうか、と逡巡しながらも幻影は問う。幻影の気遣いに気づいてか、メアリは一際明るく言った。
「そうよ。狩猟区で身元が分かりそうな遺体を見つけた場合、棺に入れてあげるのが礼儀よ。あの棺に入れておくと、遺体が腐るのを遅らせられる上に、腐臭が棺から漏れないから他の獣に漁られにくいの。そうね、一年近く遺体はそのままの姿で有り続けることができるのよ」
「そんなに!」
「そう。だから、この人を見捨てて逃げてしまった人が万一戻ってきた時、棺に入れておいてあげたらこの人は、死んだことを一緒にいた誰かに知らせることも、連れて帰ってもらうこともできるのよ」
一緒にいた、逃げた誰か。言われて見ると、獣が手をつけなかったであろう鞄らしきものの中に、小さな靴を見つけた。家族を、連れていたのだろうか。
「幻影はまだ棺を作ったことがないから丁度いいわ。この人の供養をしてあげましょう」
棺を作るための木は、狩猟区で最もよく見る木だった。まるでどこででも棺が作れるようにと言われているようで不気味だったが、探し出すに苦労はない。
木を削り、遺体の身長大の板を六枚用意する。この作業が一番大変だった。まっすぐに削ることも、大きさや厚さを揃えることも、幻影には作業の一つ一つがとても難しかった。結局、メアリが五枚を準備する間に作った幻影の歪な形をした一枚は、見えない底に充てがわれることになった。
「いいのよ、気持ちなんだから歪でも。腐臭さえ漏れない程度に隙間がなければ」
それが難しい、と幻影は呟く。削る練習も日課に加えなければならないだろう。
釘を作るのは、岩を削って剣を日々作っている幻影には簡単なものだった。岩自体が柔らかく加工が簡単な上に、熱を与えるとあっという間に鋭く硬い剣になる。大変なのは岩を探す作業だけだ。武器はいつでも早く作れなければならないと、メアリと出会ってからこの作業を欠かしたことはない。
釘を作る要領で金鎚を作ると、メアリが不思議そうに覗き込んできた。
「それはなぁに?」
「釘と金鎚。こっちにはない?」
「見たことがないわ。どうやって使うの?」
幻影が実際に板を釘で留めて見せると、メアリは拍手をしながら目を輝かせた。
「すごいわ、幻影。それは頑丈ね」
「開けることがあるなら、一番上だけこう・・・」
幻影は蓋の片側だけを留めて、開閉式にする。これもメアリが蓋を開けたり閉めたりして感激してくれたので、 幻影は初めて役に立ったような気がして頬が緩んだ。
「頭がいいのね、幻影は」
「そんなことない。あちらの世界で誰かが開発して、ごく当たり前に身近にあっただけ」
「あら、ヒトが考えたものでもいいじゃない。使う人間がいて初めてその真価が問われるのよ。ごく当たり前にあるものを、再現できるというのはあなたが思っているよりも凄いことだと、私は思うわ」
そう手放しに褒められると恥ずかしい。俯いて顔を隠したが、幻影の頬は緩んでいた。
「それじゃあ、清めをしましょう」
「清め」
「そうよ、遺体を棺に入れる前に、清めをするの」
メアリは水場を探すように指示をする。そうは言っても、水場はそう簡単には見つからない。水たまり程度の大きさなら比較的見つけやすいが、体を洗えるほど 大きな水場を探そうとすると中々に骨が折れる。
旅をしてきた中でも、三日に一度体を洗えたら良い方だった。
「私達のように旅をしているのではなく、狩猟区に住んでいる人達は水回りを中心に生活の拠点を作るわ。だから、こんな正道付近でない半端な位置に遺体がある場合、水場が近くにあることも多いのよ。確率は五分五分ね」
水場を探して三十分程で、それを見つけたのは幻影だった。どす黒く変色した土の上に、食い荒らされた遺体が一つ。先ほどの遺体とは別の意味で、幻影はまたしても冷静にその場でメアリを呼ぶことができた。
右手と右足しかなかった。喰われてしまった部分で言えばこちらの方が断然に多いのだが、それはマネキンのように転がっており、幻影に吐き気を与えるには現実味に欠けた。日が経っているのだろう、臭いもほとんどない。
「さっきの遺体の奥さんと子供かしらね」
ぽつりと呟くメアリの言葉に、現場をよく見てみると、血だまりの端の方に、小さな靴が一足、転がっていた。メアリは付近の葉を掻き分けながら、無感情に言う。
「子供は骨も残らなかったみたいね・・・。違うかもしれないけれど、さっきの遺体と一緒に埋葬してあげましょう」
メアリは淡々と冷静に告げる。遺体を見てしまった恐怖はもはやない。こんな状態に至る彼らの恐怖を想像した途端、まだついているはずの手足が途端に自分のものではないような感覚に陥った。
「ここはこういう所なの。せめて、五体満足で家族を迎えたいわね」
メアリは悲しげに、切実にそう漏らした。