幻影②
気を失ってしまえば、どうということなどなかった。
襲われる恐怖も、喰われる痛みも、なにもない。
最初から自分で頭でも打ち付けて気を失っておけば良かったのだ。そうすれば、あんな恐ろしいものを見ずに済んだ。
壱は、古い友人だ。
この世界にも、おそらく一緒に来た。彼もどこかで目覚め、ここはどこだと思案しながらきっと生きている。
死ぬ間際に思い出した顔があれか、と思ったが、彼以外に助けを求められる人間などいないのだから、それも仕方がないことのように思えた。
「あ、気がついた?」
幻影は空を見ていた。青い空がこちらを見返し、幻影の目は空というものを認識している。
「・・・生きてる」
「生きてるわよ。私が助けたんだから」
助けられた。では、喰われずに済んだのだ。
起き上がろうとして、肩に激痛が走る。
「頭は大した傷じゃないわ。でも肩は駄目、安静にしてなきゃ」
「ああ、そういえば頭も痛・・・」
言いかけて、幻影の脳がようやく覚醒する。自分は今、誰と話をしている。
再び飛び起きようとして、肩の痛みに思わず蹲る。
常に刺されているかのような痛みがあり、焼けるように熱い。
「人の話聞いていた?」
人が駆け寄ってくる。
人、人だ。間違いない。二本足でこちらに向かってくる。
幻影が顔だけで相手を見上げると、そこには一人の女が立っていた。幻影の世界と同じ、頭に髪が生え、二つの目、小さな口、二本の手足、体格も幻影がよく知る「人」だ。
幻影の目にみるみる涙が浮かんでくる。言葉が、分かる。
「助かったのになぜ泣くの?子供を虐めているみたいで胸が痛いわ」
女性は苦く笑いながら、幻影の前で歩を止める。そして視線を合わせるようにしゃがみ込み、優しく微笑んだ。ああ、女神だと、本気で思った。
「あなたと出会い、あなたを助けるのが私の最後の定め。どうかその名を聞かせてちょうだい。ほら、泣かないで」
お世辞にも綺麗とは言えない汚れた服の袖で、女性は幻影の涙を優しく拭う。
「・・・幻影」
女性は愛くるしい瞳を丸くして、その顔に微笑みを称えたまま言う。
「ゲンエイ、ね。私のことは・・・・そうね」
女性は考える仕草を見せる。名を名乗るのに何故迷うのか。
「うん。メアリ。メアリと、そう呼んで頂戴」
晴れ晴れと笑いながら女性、メアリは幻影の肩を見遣る。
「あなた、二日も眠っていたのよ 。肩の包帯を替えましょう。じっとしていて」
年は二十歳を少し過ぎた頃だろうか、メアリは肩下まで揺れるウェーブがかった緑の髪に、エメラルドグリーンの美しい目をしていた。いや、髪はところどころ優しい栗色が混じっているところを見ると、栗色がもしかしたら自毛の色かもしれない。
全体的に薄汚れた姿をしていて、すらりと白い手足には無数の癒えた傷が痕になって残っていた。服装は、幻影の感覚でさほど変わっているというほどのものでもない。皮製の生地で肘までの長さのシャツは、柄も装飾もない至って地味なものだ。腰下までの長さがあり、ベルトをしているせいか細い腰のシルエットが強調されている。
下半身は短い丈のパンツ姿だが、膝の辺りまで包帯で覆われているために肌は見えない。足元は皮のブーツか、ヒールはなく平たい靴底で、ところどころ裂けていた。首から腰の辺りまでの背中を隠すマントと、頭に巻いた包帯が動く度に靡く。包帯も薄汚れて裂けており、人の包帯の心配をしている場合かと突っ込みたくなる。
「あなた、こことは違う世界から来たのでしょう?」
幻影は目を見開く。メアリは幻影の背後に回り、肩に巻かれていた包帯を外した。
「なんだか、気が抜けてしまったわ。あなたを見た時に思ったの。ああ、私はあなたを待っていたのだと」
「・・・はあ」
ふふ、とメアリは笑う。
「あなたは変に思うのでしょうけれど、私は本当に長い間、あなたを待っていたのよ。本当に、ずっと・・・」
メアリはふとそこで言葉を 切ると、マントを引き裂いて幻影の肩の包帯の替えにした。地面に落ちた包帯は真っ赤に染まっていたが、思ったほど血が出ている様子はなかった。二日眠っていたというのだから、出血は当然止まっている筈である。でなければ死んでいる。
「ゲンエイは、この先行くあてがあるのかしら」
「いや、ないんだ・・・です」
「いいのよ、言葉遣いなんて気にしないで。ゲンエイはいくつ?」
「十六。メアリさんは、えっと・・・」
この世界でも、女性に年齢を聞くのは失礼だろうか。
「メアリでいいの。実年齢は、・・・三十になるのかしら」
「えっ」
幻影は咽る。お世辞ではなく、二十台前半にしか見えない。
「実年齢よ。ああ、そうね、一つ一つ教えてあげないといけないわね」
メアリは慣れているのか、 器用に包帯ならぬマントの切れ端を幻影の肩に結び、ふわりと自分のマントをかけてくれた。寒いわけではなかったが、メアリの体温が残ったマントは、それは暖かかった。
「この世界にはね、千を超える種族が暮らしていると言われているの。だから、全部が全部、常識として当てはめてしまうことは出来ないのだけれど、二足歩行で言葉を話す種族を全て“ヒト”と呼称する。ヒトの年齢は通常、実年齢と見た目年齢に分けられる。つまりは、姿形はある一定のところで成長が止まるの。それはヒトそれぞれ様々で、私の場合は二十一の時に肉体的成長が止まったため、実年齢つまり実際に生きた年は三十、見た目年齢は二十二なの」
「成長が、止まる。それは若くして止まるものなんですか?」
「いいえ、そうとは限らないの。これも種族によって様々だけれど、ヒトの平均しての老衰による寿命は百五十から二百だと言われているけれど、」
「百五十から二百!」
幻影は驚きのあまり、メアリの言葉を遮って叫んだ。
「あなたの世界では違うのね」
「百生きれば拍手ものだよ」
まぁ、とメアリは小さく驚く。
「短命なのね。それでは王は何の改革もできないのではなくて?」
「王政じゃないから・・・」
メアリはまた驚いたような顔を見せる。
「王政以外の国の統治法があるの?・・・いえ、先にあなたに伝えることを伝えてしまわないとね。人は百くらいまでの間のどこかで肉体的成長を止める。それが見た目年齢よ。当然、若くして止まれば幸運、老いて止まれば不運ということになるわ。肉体の衰えは確実にあるのだから。そうして成長の止まった体で長い年月を過ごし、寿命が尽きる間際になって急激に老いて死ぬ。だから、ヒトは止まった肉体が成長し始めた時、自分の死期を悟って死を迎える準備をするのよ」
「体の成長が始まったら、どのくらいで死ぬの?」
「三年もてば良いほうね。ゲンエイは、実年齢共に十六なのね?」
「俺たちは肉体成長が止まることはないから。ずっと成長し続けて、百を迎える前に大概が死ぬ」
「分かりやすくていいわね。ここでは、子供だからと見た目で判断しては駄目よ。十六の見た目の老獪な人物だっているの」
メアリは幻影の手当をし終えると、元いた場所に戻っていく。つられて幻影も目を向けると、そこには大きな箱が組み立てられていた。真新しい木製の箱、それは棺に見える。
「 私の大切な人が死んだの」
メアリは箱の前に立ち、そっと手をそれに添えた。表情は見えない。
「この人がいないともう生きていけないと思った。ううん、今でもそう思っているの。でも、ゲンエイの声が聞こえた。助けて、って」
「・・・彼氏?」
「なぁに、それ」
メアリは苦く笑いながらこちらを見た。その目に涙はない。
「とてもとても、大切なヒトなの。だから自分が死ぬ前に、大切に弔ってあげようと棺を作っていたら、あなたに出会ったの。あなたは学ぶのよ。私が生きている間に、私が知っているこの世界のことを」
「縁起でもないこと、言わないでくれよ。俺には、メアリしか頼る人がいないのに」
「そんなに心配しなくても、私はだいぶしぶとい人間よ」
メアリはそう言って、長く長く棺を眺めていた。
幻影とメアリがその地を発ったのは、幻影の肩の傷が疼かなくなるのを見計らってのことだった。メアリは右側の髪を無造作に切り落とし、棺の中に入れて、棺の下半分だけを埋めた。
スコップなどというものがあったわけではない。巨大な石を他の石で削り、掘削するための道具を自ら作っていた。その様子を眺めながら、サバイバル能力とはこういうものだと、今後のためにしっかりと目に焼き付けた。
幻影の肩が直るまでの間に聞いた衝撃の事実としては、幻影が大丈夫だと判断して食べていた実の悉くには、毒性が「あった」ということだった。
「体にはなんの異常もないけど」
そう訴えたが、メアリは頭を振った。
「赤い実なんて一番食べては駄目よ。毒性が強くて、体が思うように動かなくなる。獣がいる地に生っていることが多いの。実を食べて体が不自由になってしまった生き物を襲うのよ」
幻影は異世界人だから、毒が効かなかったのだろうか。メアリは不思議そうに首を傾げていたが、それについては深く言及せずに目的地を告げた。
「目指すのは、とりあえず紅国ね」
この世界には今大きく分けて四つの国がある。紅国、雷国、水国、氷国だと言う。この世界に四つある国を分割統治するための単位の一、それが大家だ。
一国の中にある大家の数は国によって違うが、紅国などは七つの大家が王に代わって各土地を統括している。一つの大家の中には複数の中家が、一つの中家の中には小家が分立し、小家は十数の村を治めている。
最も小さな集合体の単位は村。小家、中家、大家を総称して御家と言うが、その規模には歴然とした差があるのは言うまでもない。
大家はそれ一つで国に近く、全ての大家を統べるのが王都に君臨する王ではあるが、それぞれの大家には個々で定めた法律もあり、王といえども迂闊には干渉できない力を持つ。
紅国と雷国が隣接しており、水国と氷国はそれぞれ隣接する国はない。国と国を隔てるようにして世界の中央を陣取っているのが今幻影のいるこの地、狩猟区だという。
その名の通り狩猟を行う場所で、生息しているのは主に獣だ。獣が暮らすこの地に好んで住んでいるのは、国を追われたお尋ね者や、獣を狩ることを生業にしている獣売屋と呼ばれる人々だという。
メアリがどちらかは、なんとなく聞かないでおいた。
「なんて大家を目指すんだ?」
「冰大家かな」
紅国は、四国の中で二番目の大きさの土地を所有している。中でも冰大家と言えば、歴史が浅いにも関わらず昨今その名を轟かせる名家であるという。治安が良いことで知られ、旅行者や移住者が多いため、はみ出し者の住まう狩猟区でまともな生活をしてみたいと言う者の六割が冰大家を目指すのだそうだ。
「ああ、駄目よ、幻影」
メアリが幻影の服の袖を引く。軽く引かれただけなのに、メアリに体を預けるようにしてよろけた体を支えられる。少し、緊張で体が硬くなる。
「その花は踏んでは駄目よ。ラーエという花で、踏むと毒を放つわ」
そんなのばかりだ、と幻影は小声で呟きながら花の形を覚える。無知であったが故に生きてこられたのだと思う。知っていたら身動き一つ自由にとれず、食べることも叶わず餓死していたことだろう。
「あの木を見て。葉が巨大な手のような形をしているでしょう。触ってみて」
言われるがままに背伸びをしてそれに触れると、ゴムにも似た弾力ある質感がある。
「この葉をちぎって、こう・・・」
言いながらメアリは手に似た葉の指の部分を重ねて合わせ、同じ木から垂れ下がる髭のような細い枝を切って、差し込むようにして器用に結んでいく。
「これは命の木と呼ばれているの。こうして葉で袋を作って、水を貯めておくのよ。探せばそこそこ数はあるから珍しい木ではないけれど、見つけたら新しいものを作って取り替えるといいわ。強い葉だから破損したりはしにくいけれど、劣化はするから」
メアリはこの狩猟区と呼ばれる地域で生き抜くための術を、目に付いたところから教えてくれた。この世界の常識を教え込むことも忘れない。
「紅国は商業国、雷国は農業国、水国は鉱業国なの。この世界に生きる全ての者は大きく二つの種族に分けることが出来て、それが光と、闇。光に属する者は、光の満ちる時間帯「明」に活発に活動をし、闇の蔓延る時間帯「暗」には活動能力が半分以下にまで低下するの。物をうまく捉える事が出来ず、活力が不足しうまく動けない。個人差はあるのだけれど、酷い者になると暗には動くことが困難になる者もいるわ。彼らを光の者と総じて呼び、闇の者の定義は光の者と間逆となる。紅国と雷国は、光の者が住まう国、幻影も光の者なら、自然と訪れるのは紅か雷が適切ね」
「それで、紅国なんだ。雷じゃないのには理由が?」
「昨今の情勢を鑑みてのことなのだけれど。ごめんなさい、実は私にも問題があって、雷国には入れる状況にないの」
それは、と言いかけて幻影は言い淀む。聞いてはいけないことだろうか。
考え込む幻影を見てか、メアリは可笑しそうに言う。
「幻影は優しいのね。私が何者か、隠すほどのものでもないのよ。でもなんというか、・・・そうね、顔が沢山ありすぎて、どの私を話せばいいのか迷ってしまうの」
「えーっと・・・・じゃあ、その、一番気に入っている自分だけ」
メアリは目を丸くした後、吹き出すように笑う。
「ああ、なんて可愛いのかしら」
「・・・」
きゃらきゃらと笑い出して止まらないメアリを見て、幻影は俯く。耳が熱い。
「気分を害したのならごめんなさい。えっとそうね、それじゃあ、幻影に一つ、頼みがあるから、それに関する私にしようかしら」
幻影は上目遣いにメアリを見る。少し、睨んでしまったかもしれない。
「私は紅国が大家の一つ、冰の生まれなの。実は、私の故郷に向かっているのよ」
紅国の出身で雷国でお尋ね者とは、どういう状況なのだろうか。紅国は商業国だという。商売絡みで詐欺でも犯したのだろうか、いや、そんな風には見えない。
メアリはとびきりの美人というわけではなかったが、人好きのする優しい顔立ちで、くりっとした大きい目と、ころころと変わる表情が愛らしい。気丈で頼りになる一面もあれば、時折びっくりするほど華奢に映る。そんな不思議と守ってあげなければ、と思わせる魅力がある。・・・恥ずかしいので本人には言えないが。
「えーっと、氷国は?なにで生計を立ててるんだ?」
なんだかメアリの事を根掘り葉掘り聞くのが急に恥ずかしくなって、幻影は話題を変える。
「あの国はとても特殊なの。内部のことは詳しく分からないのだけれど、どこの国とも貿易をしていない独立国家で、狩猟区内にあるの。ほとんど訪れた者のいない、不思議な国」
「へぇ・・・それでも、四つの国の一つに数えられるってことは、大きいの?」
「面積的な意味合いでは最小よ。そうね、面積だけで言えば、大きい順に、水、紅、雷、氷。氷は水の十分の一もないと思うわ。それでも氷国が独立して四大国の一つに名を連ねているのは、王の力なの」
「氷国の王様?」
「ええ。確認されている現世におわす神の一人、水神なのよ」
カミ。一瞬意味が分からなかった。
「え、神様?そんなのいるの?」
「ええ、いらっしゃるわ。たくさんね。天上におわす神々はたくさんいらっしゃれど、この世界に降りて来られてる神は実際に確認されているだけで、今は二人。その一人が、氷国の王、水神よ。雨神とも呼ばれるわね。その名の通り水を司る神で、逆らったら雨を与えてもらえず、土地や人が枯れる天災を招かれかねない」
「無敵じゃないか!」
そうよ、とメアリは当たり前のように言う。
「だから、独立国家なの。誰も氷国に侵攻できない。たった一人の王が治めるうちは」
とうとう神様まで出てきたのでは、もう何を言われても驚かない。
「神様って、その人はすごい長生きしてるとか?」
「さぁ、神についてはよく分からないの。どうやって降りてこられるのかとか、そもそもその姿が天上におわす時と同じなのか、ヒトの姿を借りているのか、とかね。神様に聞かなきゃ分からないわ」
「よく分からないのに神を信じるんだ?」
メアリはきょとんと幻影を見ながら首を傾げる。
「だって、実際にいらっしゃって、水を操られるんですもの」
「メアリも見たの?」
そうねぇ、とメアリは曖昧に笑う。
「それじゃあ、ただの噂かもしれない」
幻影が主張すると、メアリは幻影の目をじっと見て、母親のように優しく微笑む。
「そうね。幻影は、彼にきっと会える。自分の目で見て、私の代わりに確かめて頂戴」
「俺が会えるなら、メアリだって会えるだろ」
幻影はじっとメアリの目を見ているのが気恥ずかしくて、視線を逸らす。メアリがそんな幻影を見てまた笑っているのが、目の端に映った。
「さあ、幻影。そろそろ今日の寝床を探しましょう」
ここ何日か、メアリは幻影に夜を過ごすための場所を探させる。獣は夜行性の種が多いが、夜目が利くわけではないのだという。耳が発達しているため、音が立ちにくい柔らかい草が敷き詰められ、かつ、身を隠せる太い幹を持つ木の根元が最適らしい。そんな場所を一人で探せるようにという親心に近い教育的優しさか、メアリは幻影が場所を見つけるまで一切口を挟まなかった。
メアリは自身で紅国の出身だと告げたように、光の者だ。幻影なども光がある方が動きやすいので光の者で良いのだろうが、こちらの世界の光の者ほど闇に弱いわけではなかった。メアリは闇が辺りに立ち込め始める頃から動きが明らかに鈍くなり、暗い間は幻影の方がまともに動けるほどにまで身体能力が低下した。
そのため、寝床を確保するのは、暗くなる三時間前には開始する。
この世界の時間は明るい光の時間帯が十四時間、暗い闇の時間が十四時間、そして明暗の境が一時間ずつと、幻影の世界より一日が六時間ほど長い。実際の活動時間は境をいれた十六時間ほどなのだという。自分の時間帯でない間は基本的に寝て過ごすのだそうだ。
「ここはどうだろう」
幻影が見つけた場所をメアリが改める。草の感触や木の太さを確認しているようだったが、木を見上げると小さく唸り声をあげた。
「んー、まぁ候補にしてもう少し探してみましょう。幹は太いのだけれど、枝が細いでしょう?獣に襲われて木の上に逃げることになった場合に、私達の体重を支えきれないわ」
なるほど、と幻影はまた一つメアリから学んだことを記憶する。メアリは実に丁寧に、なにも知らない幻影に優しい指導を繰り返す。それがまるで、メアリがいなくなった時の保険のようで、少し気持ちが沈む。
「・・・メアリはさ、その、俺を冰大家まで送ったらどうするんだ?家族と暮らす?」
ようやくメアリのお眼鏡に叶った大木の下に落ち着き、火をつける。これも火を灯すのに適した種類の石があることは既にメアリに聞いていた。この石を使えば素人の幻影にも、簡単に火を熾すことができた。
メアリはしばらく沈黙を守った。既に辺りは薄暗くなり始めている。疲れたのだろうか、と盗み見るようにメアリを見ると、目が合った。慌てて逸らす。
「心配しなくても、あなたを放り出したりはしないわ」
・・・ばれた。途端に恥ずかしさで顔が火照る。
メアリの忍び笑いが益々幻影を追い詰めた。
「だって、俺にはメアリしかいないからっ・・・その、えっと・・・・」
勢いよく言い放ってまた恥ずかしくなって、語尾が萎んでいった。メアリが何か言ってくれるかと思ったが、彼女は、今度は笑わなかった。しばしの沈黙の後、耐えられなくなって口を開いたのは結局幻影だった。
「・・・こんな他人を拾って、役にも立たないし、迷惑だと分かってるんだ。メアリには家族がいて、今帰って行ってるんだから、待っている人のところへ行ってしまうのは、分かってるんだ。でも、その、・・・俺、メアリといたいんだ」
「まるで好きだと言われたみたいだわ」
メアリと目が合う。彼女は笑わなかった。だが、その瞳はとても優しかった。
「そ、そういうわけじゃ・・・」
「あら、嫌われているのかしら」
違う、と消えるように言う。からかわれているのは分かったが、嫌な気持ちにはならない。すっかり照れて俯いてしまった幻影の頬をメアリがぽんぽんと、優しく触る。
「大丈夫、私はずっとあなたといるわ。死ぬまで、ずっと」
「え?」
メアリは優しい微笑みを称えたままだったが、瞳がゆらりと揺れた。少し考える素振りを見せつつ、マントを脱いだ。それを胸元に当てて隠しつつ、上着を一気に脱ぎ捨てる。あまりに迷いがなかったので更に下に何か着ているのだと思ったが、何も着ていなかった。白い肌が目に飛び込んできた瞬間、幻影は意識する間もなく身を翻していた。
「ど、どうしたんだよ、急に!」
「照れちゃって。ちゃんと前は隠しているから、見てご覧なさいよ」
背中がなんだというのか、幻影は逡巡した後、盗み見るようにそうっと振り返る。白い肌が火の灯りでぼうっと映し出される。いつの間にかすっかり暗くなりつつあった。
幻影は言葉を失う。
その白い背には無数の切り傷があり、一つは腰の辺りまで達する深いものもある。その殆どが癒えている様子ではあったが、ところどころはまだ真新しい傷だ。それも数が多い。一際目を引くのはその背の中央を占める巨大な火傷の痕だった。相当古い傷のように見受けられたが、直径二十センチほどは上下にあろう火傷は、怪我当時のメアリの苦痛をありありと物語っていた。
「驚いたでしょう?ヒトの背がその者の人生を語るのだとしたら、私はきっと失格でしょう ね」
「・・・痛くないのか」
「実は痛いの」
メアリは背を向けたまま、顔だけをこちらに向ける。傷を見たからか、その顔が青白い気がして幻影は突然恐ろしくなった。
「幻影は違和感を覚えていたことでしょうね、私が性急にあなたにこの世界のことを教えることに。私のこの背中にある傷で私が死ぬことはないけれど、いつ死んでもおかしくないような、私はそんな生き方をしてきたの。だから一日一日、明日死ぬ命を思って幻影に接しているつもり」
幻影はその背にそっと触れる。この傷の数だけメアリは死と背中合わせの戦いをしてきたのだ。それが人か獣なのか、相手は分からないが、壮絶な三十年を生きてきた。最近最愛の誰かをなくし、拾ったのがなんの役にも立たない自分。なんて、不幸なのだろう。
「俺、剣を習いたいよ」
「獣と戦うの?それとも、ヒト?」
「自分を守るために、自分を襲うものと戦う。メアリが、自分の身だけを守れるように」
メアリが上体を捻って振り返る。居直って真っ直ぐに幻影に体を向けると、マントを抑えていない方の手で幻影の頬を撫でた。
「優しい子。大丈夫よ、私は強いの。でも、剣は教えてあげる」
「・・・子供扱いするなよ」
せめて優しい「人」と言って欲しい。
「まだ十六じゃないの」
メアリはようやくクスクスと笑った。その笑顔が眩しくて、幻影は俯く。もう十六だ、と思ったが、こちらの寿命が二百なら、単純に幻影の考える十六の半分、メアリには八歳ほどの子供の感覚なのかもしれない。
メアリの目に子供としか映っていないことが、なぜか癪だ った。