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神々の夢  作者: みみみ
第一章「五人の少年少女」
18/77

壱⑥

 壱はあてもなく彷徨い歩いていた。

 昼が長いせいで数時間は時をやり過ごしたはずなのにまだ明るい。振り返ると翠家の城が高く聳えている。あまり城から離れてしまっても行くあてがないので、城周辺を彷徨く。否、城の側にいたところで、唯壱がいなければ、おそらくもう入ることは出来ない。彼女は、それが分かっていたから別れを言ったのだろう。

 この先どうすべきかを考えねばなるまい。知人の一人でも作らなければ絶望的だ。一文無しで一人旅が出来るほど壱はアウトドア向きな性格をしていない。

「ぼうず、何度店の前を通過すれば気が済むんだい」

 声のする方を振り返って初めて、自分に向かって発せられた言葉だと気付く。

「そんなにうちの商品は見る価値を見いだせないかい?安くするよ、寄っていきなよ」

 男の顔から、商品に目を落とす。周囲の商品に比べれば見栄えはしない、シンプルな雑貨が並んでいる。この男と話をするのもいいだろう。何を聞いても収穫になるに違いない。

「これはどこの商品?」

「よくぞ聞いてくれた。かの有名なキッテン産の器だ」

 キッテン。おそらくは地名だろう。

「へえ、本物?」

「勿論さ、偽物を売ったら捕まってしまう」

 男はにやりと笑った。壱に向けられた視線が、何かを語りかけているような。

「・・・さっきアコダを見た。俺は昨日この城下町に到着したばかりであまり詳しい事は知らないんだけど、頻繁に行われるものなの?」

 壱は棚に肘を付き、男と視線の高さを合わせた。緑の長髪を束ね、渋い緑の眼をぎらつかせる男は再び小さく笑う。

「行われるなあ。暗が明けた途端にアレだ。気も滅入っちまうよ、まったく」

「・・・ここの家主は中々の暴君のようだね」

「おいおい、口は慎みな!家主の眼はそこらへんに転がってるんだからよ」

「さっきは妃が大活躍だったね。アコダが行われない明は初めてなんじゃないの」

 違いねえ、と男は甲高く笑う。どうやら「明」の使い方は間違っていないようだ。聞いてはいて知っているが、実践できるかどうかは自信に繋がる。

「でもよ、妃も愚かな事をしたもんだよな。城を抜け出して民衆に顔を晒すなんて。あんな事してよ、助かった男もお先真っ暗だぜ。可哀相にな」

「・・・どういう事?」

「どこから来た旅の方なのか知らねえが、ここいらじゃ家主の妃は決して城から出てはならないのが決まり。城を出る時は女のお供を従え、四方を高価な布で守られたハコブネに乗って移動する。布は勿論顔を見られないための幕さ。決して妃は民衆に顔を見られてはならない。そんな妃が堂々と顔を晒して、供も連れずに歩き回っていたというじゃないか。とんだ阿婆擦れだぜ。出の悪い妃だから仕方ねえのかもな。一体どんな美人なのかと噂していたが、確かに家主が入れ込むのも頷ける程の美人ではあったなあ」

「出の、悪い・・・?」

「ああ、うちの妃殿は庶民の出なのさ。村の中でも小さなイロ村の出身だと聞くぜ」

 壱は身を乗り出した。

「それで、助かった男のお先が真っ暗なのは何故?」

「妃は夫である家主に仕える者。家主を支え、家主に尽くし、家主に最上の助言を与える者。つまり、家主が悪行に至った場合に責任を取るのは、家主に適切な助言を出来ず、止める事が出来なかった妻の責任なのさ。アコダが始まったのは今の家主に代替わりしてからだ。それまでにも処刑はあったが公正なる審判の元で行われていたうえに、大衆処刑ではなかった。ひっそりと闇に葬られていたのさ。それがどうだい、今のアコダの惨さといったらねぇだろう?」

「・・・つまり、アコダを実施しているのは妃であり、憎まれる対象である、と?」

「その通り。飲み込みが早いね、旅の方」

 男は煙管に火を付けた。壱の中指ほどの長さの煙管から煙が上る。

「では・・・今日のアコダで妃が男を助けた行為はどうなる。あれも蛮行だと?」

「妃があの場にいた事自体が蛮行だがね、自分でアコダを執り行っておいてよ。妃は気紛れで助けたのかもしれないが世間ではそうは思わねぇ」

「・・・わざわざ顔を晒してまで、供も付けずに助けに来たと民衆は思う」

「その通りだよ旅の方。最もらしい屁理屈並べて、家主以外の男に一切関与してはならぬ妃が命がけで助けた男がこの先どうなると思う。妃の愛人と取られても不思議はないと思わないかい?輝かしい未来は臨めないね。死んだ方が良かっただろうな。妃も妃さ、民衆に適性を疑われる結果になることは承知していた筈なのによ。城内でも居心地が益々悪くなるに違いねぇ」

 伏し目がちに話を聞いていた壱が顔を上げると、先程の余裕ある笑みの消えた男の表情が飛び込んできた。唇を噛みしめ、握る拳にも力が入っている。

「・・・あんたは、妃擁護派なのか」

「は?」

 男が我に返って壱に視線を戻す。口から離れ掛けた煙管を慌てて掴む。

「そうだろう?今の話の流れからいくと、居心地が悪くなって当然だという妃を罵倒する言葉が続くのが普通だ。しかしあんたは、妃を哀れんだ」

 男は押し黙る。小さく舌打ちを漏らして、視線をずらす。

「全員が全員、妃の敵というわけではないんだな。安心した」

「・・・口には気をつけろと言っただろう、旅の方。妃に同情する者は殆どいないのが現状だぜ、袋だたきに遭いたいのかい」

「あんたとはもっと話がしたいな。俺も擁護派だからさ」

 男はまじまじと壱の顔を眺めていた。その間、じっと男から目を反らす事無く正面を見据えていた壱に、男は背を向けた。

「明十一時。暗に向けて全員が店仕舞いを始める。手伝え」

「了解。あんた、名前は?」

 壱はそれ以上何も語らず店に背を向けた。背後から短い返答が得られる。

「・・・・カナメ」

 

 小さな村の出身。それでは、最初から姫君をしていたわけではなく、自由を知り、自分の意思でなんでも出来る立場を奪われてしまったことになる。

 壱には城に囚われる気持ちは分からない。だが、知ってはいる。彼女は再び自由を求めて、泣いていたのだから。




 時間について、それから分かったことがある。

 城の最上部に鐘がついていて、感覚的に一定間隔で鳴る。もしや時計の代わりなのかと、道行く人に問うてみると、壱の予想通り、それは時計だった。一時間置きに鳴るらしく、暗の間は鳴らない。

 明になった瞬間に三度続けて鳴り、それを光の者達は一日の始まりとするのだそうだ。一時間をどう計るのかと問えば、知らないとあっけらかんと言われた。

 三人に尋ねて、三人目でようやく、時刻みのラーという獣の存在を聞いた。

 この世界の者は各々知っている情報にばらつきがあって、唯壱のように尋ねたら大抵のことに解答があるわけではなかった。街にいる者達は決まって知らないことの方が多く、当たり前に起こることに、理由を求めたりしない者が多いと学んだ。

 そういえば、肉体的に強靱な代わりに知能レベルは低いと聞いた事を思い出した。十六歳の壱と対等に話が出来るのはこの世界では何歳の人なのだろう。少なくとも唯壱とは話せたが、彼女は城に仕える者。ある程度の教育を受けていると考えた方が無難だろう。

 カナメの元に向かいながら、壱は考える。彼と別れてから情報収集を兼ねて何人かの者に話しかけてみたが、子供に関しては雑談をするにも的外れな返答に困らされた。大人にしても、少し難しい表現を使うと付いてこられないようだった。

(カナメは頭が良い)

 少なくとも、きちんと会話が出来るレベルの知能がある。年の頃は四十と言ったところか、しかし同年代の別人に話しかけてみたがカナメ程の頭の回転は望めなかった。

(千に近い種族が存在する)

 もしかすると、種族によって差があるのかも知れない。いや、秀でた部分がある者の髪や眼の色が変わると言っていた。即ち大きく能力が変化する可能性もあるという事か。

 壱は頭を掻いた。使える人間か否かは見た目で判断せず話してみなければ信用できないという事だ。壮年でも能力値の高い子供に劣っている可能性は充分にある。

「大変そうですね、手伝いましょうか」

 壱はカナメに声を掛けた。少し、わざとらしかっただろうか。

「・・・すまないね、腰を痛めているもので」

 カナメも下手な芝居を打つ。それはお互い様だ。壱はカナメに倣って商品を箱に詰めた。

 片付けは直ぐに終わった。壱が両手を目一杯広げてやっと持てるか否かという大きな荷物を、カナメは簡単に持ち上げた。肩に乗せ、上手くバランスを持ちながら進む。

「・・・とても腰が痛そうには見えないな」

「ああ、忘れていた」

 カナメは本気で忘れていたようで、苦く笑った後に壱に後ろから支えてくれるよう頼んだ。実際は触れているだけで全く力を入れていなかったが、それでも手助けをしているようには見えたことだろう。

 彼は名を名乗らなかった。カナメというのは呼び名だと言う。


 要


 名を知りたい訳ではないので、彼を呼び止めるだけの効力を持つ“要”という単語さえ教えて貰えればそれで良かった。しかし、名を名乗らない理由は気になる。

「何を言っているんだ。名がそう簡単に名乗るものなら、呼び名は何の為にある?」

「・・・それは、プライバシー保護的なこと?」

「なに言ってんだ、お前。この国では名は気心知れた者にしか証さない。名を教えるという事は、その者と信頼関係を築きたいということだ。互いに名乗り合う時は、お互いを疑わず無条件に信用するという書類無き証明さ」

「・・・へえ」

 壱は小さく頭を掻いた。壱は孤児だったので苗字は持ち合わせていない。壱という単語の他、自分を示す術はない。だから当たり前のように、そう名乗った。あの時の唯壱の顔は覚えている。てっきり名前に同じ文字が使われているから笑っていたのだと思ったが、もしかすると名を告げたこと自体に喜んでいたのかも知れない。

「こっちだ」

 要は壱を誘導し、辺りを憚りながら薄暗くなり始めた空の下を進む。重そうな荷物を軽々と運ぶ女性と擦れ違い、暗に差し掛かる頃に目的地に到着した。周りにある建物とさして変わりない、平凡な建物。空洞になっている一階部に荷物を置いて、シャッターのように四方から木の板を降ろす。

「ほら、早く来い」

 木の板を内側から叩いてその強度を確かめていた壱の頭上から声が降ってくる。見ると、頭上に丸い穴があり、そこから要が壱を見下ろしていた。

「来いって・・・」

 階段のような物はない。当然、梯子もない。

 壱が二階に通じる入り口を探している間にも、要はさっさと居なくなってしまった。一人で上がってくると思っているのだろう、そのまま姿を見せない。

 まさか跳び上がれとでも言うのだろうか。今後も身体能力が低い事には悩まされそうだ。

 壱は商品が入っている箱の中で軽い物を選び、積み上げた。その上に立ち、力一杯ジャンプする。自分の身体能力をお世辞にも過大評価出来ないことは重々承知だったが、意外にも二階に手が届いた。そのまま何とか自分の体を引き上げ、よじ登る。

 これだけの事で息が切れ、手の平は真っ赤になっていた。壱は自分が跳んだ高さを確かめるように穴から階下を見下ろす。積み上がった箱が軽く潰れていたが、商品は無事だろう。高さにして二メートル程だろうか、それでも壱にしてみれば奇跡に近い。否、脚力に奇跡もへったくれもない。単純に、自分の身体能力が上がったと考えるべきだ。

(身体能力が、上がっている・・・?)

 壱は自分の足を意味もなくさする。この異世界に住む者に比べれば全く足下にも及ばないが、確かに壱の身体能力は上がっている。なぜだ、理由に思い当たるところがない。

「やっと来たか。早く床を閉じてこっちに座れ」

「閉じる?・・・ああ」

 壁に穴と同じ大きさの蓋のような物が立て掛けられている。おそらく、これを填め込んで床にするのだろう。言われた通りに床を閉じ、声のした方へと進む。

 外観よりも室内は広かった。訳の分からない物が足場もなく転がっていたが、家具は少ない。おそらく整頓すればさぞ広いスペースが顔を出すことだろう。木造特有の匂いがして、部屋の四隅では太い柱が家を支えている。

「要、もう少し部屋を片付け・・・」

 隣の部屋に目をやり、壱は立ち竦んだ。何の為に息を殺していたのか、四人の男が円形に座っていた。全員の視線が壱に集まる。

「こんな子供が妃の正当性を考えているとは、信じられんな」

「この国の未来も捨てたものではないかも知れませんね」

 末席に座る要に勧められるままに、壱は座布団のない空きスペースに座り込む。

「珍しい髪の色だな」

「お褒めに預かりまして。それで、これはどういった集会?」

「何だ、話をせずに連れてきたのかよ、要」

「今から話すさ」

 要は頭を掻いて、彼の左横に座っている男を示した。

「こいつはジョウ。その隣がヨウ。で、お前の隣がランだ。それで、ぼうずの名は?」

「・・・俺には呼び名がないんだ。適当に呼んでくれればいいよ」

「ほう?今時呼び名がないとは。呼び名は自分でつけるもの、あえて決まった呼び名を持たないのですか?どうやら変わっているのは髪の色だけではないようですね」

 しまった、と思ったがもう遅い。呼び名は自分でつける。それならば、適当に言えばよかった。怪しまれてしまっただろうか。

 にっこりと微笑んで見せた男は少し薄い緑の髪をしていた。伸ばしたストレートの美しい髪を括る事無く背に流し、清潔感漂う白を基調とした服を着ていた。彼が、ラン。

「そんな事より、このボウズが本当に妃を擁護する気があるのかどうかを確かめる事が先決なんじゃないか?」

 壱に鋭い眼を向ける男はヨウ。濃い緑の髪は天然なのか毛先が巻いている。鬱陶しげに長い髪を頭上で纏めているが、所々髪の重みに耐えきれずに垂れていた。擦り切れ、薄汚れた服装がランと並ぶと余計に目立つ。

 その隣がジョウ。彼は同様に緑の髪をしていたが、ランやヨウに比べると短い。腰に掛からない程度の髪を一つに束ね、根本から十間隔に四本のゴムを使って髪を括っていた。一糸乱れぬとはこの事だろう。神経質なのか、皺一つない上着がこの場に浮いている。

「子供。どうして妃を気に掛ける?」

「・・・・今日の行動が、間違っているものだと思わなかったからだ」

「ほう?ボウズ、お前この小家の出身じゃないな?」

「何故?」

「この小家で暮らす者はそうは思わない」

 嫌味に笑うヨウに、壱は同様の笑みを返す。

「なるほど、ではヨウもこの小家の出身者ではないんだな」

「・・・中々小賢しいじゃないか。俺達の事を話すのは、お前が信頼出来る者かを確かめた後だ。こちとら命を賭けているんでね」

「それはこちらの台詞だよ」

 壱は一同を見比べた。彼らは真剣な目で壱を見ている。

「俺はただ単に妃が間違いを犯しているとは思っていないだけだ。貴方達が何を企んでいるのかは知らないが、それに手を貸すか否かは俺にとっても命がけだ。一人でも同士が欲しいんじゃないのか?そんな時にこちらのご機嫌を損ねるような嫌疑を掛けないで欲しいな」

「一理ありますね。だが、全てを話して貴方が裏切った場合、多くの同士が命を落とすことになる。我々は盟約を交わした同士達の命を預かっているのです。話を聞いてから、手を貸さないと言われても対処に困るのですよ」

「貴方達の立場が妃擁護なら、最終的な目的は絞れてくる。その全てを考慮した上で、俺は話を聞こうとしている。手を貸さない事になっても、その目的を否定する訳ではない」

「回りくどいな、はっきり言え」

「我々に手を貸して頂けなくても邪魔はしないと言うことですよ。彼には我々の計画こそ知らずとも最終的に目指しているものが見えている。我々の計画が荷担するに値しないものならば、命を賭けてまで手伝うつもりはないと、そういうことでしょう?」

 沈黙は肯定を意味する。

「これは負けん気の強いお坊ちゃんだぜ。俺達を阿呆呼ばわりするか」

「そうなるかは、計画次第」

 平然と言ってのける壱の背を叩きながら、要は大口を開けて笑う。

「聞いて貰おうじゃないか、俺達の計画」

「・・・いいだろう、ただし」

 ジョウが初めて口を開いた。壱に向けられた瞳に迷いはない。

「盟約を交わして貰えなかった場合、お前には監視を付ける。もしも裏切りの気配を察知した場合は、死を以て償って貰う」

 あまりの迫力に壱が小さく頷いたのを見届けてから、一同は肩の力を抜いた。彼らは本気だ。軽い気持ちで計画に乗るべきではない。

 壱は小さく溜息を付き、それから背筋を伸ばした。彼らがどういった人間かはまだ分からないが、彼らの計画に対する気持ちだけは本物、とすれば覚悟して聞かねばなるまい。

「貴方達が俺を信用出来ない気持ちも分かる。だから、せめてもの誠意を見せるよ。俺は妃の名前を知ってる」

「・・・なに?」

「彼女に狩猟区で助けられ、先のアコダ事件までずっと彼女と一緒にいた」

「それは、本当ですか?」

 俄に色めき立つ面々に向かって壱は続ける。

「彼女は俺に名前を名乗った。どう、信用する気になった?」

「何故、それを突然話す気になったのです」

 優しげな目元はそのままだというのに、ランの表情が少し硬い。

「信用出来なければ全てを話す事は憚られるだろ?中途半端に聞かされて判断しかねるような状況になったら厭だから、さ」

 なるほど、とランは目を伏せた。他の三人の目がランに向かっているところから見ても、この一味の頭は、ラン。必然であろう、最も冷静に物事を判断している。

「では、妃の名を伺いましょう」

 ランのその言葉で、全員の視線が壱へと移る。

「・・・確かに、それが一番手っ取り早いけど、言ったところで妃の名を知っているのが俺だけじゃ意味がない」

「ランが知っている。俺達は席を外すからよ」

 要がぶっきらぼうに席を立ち、隣の部屋に移動する。ジョウとヨウも何も言わずに要に続き、狭い個室が急に広くなる。

 ランは二枚の薄い板を取り出し、片方を壱の前に置いた。何も言わずに平らな別の板を中央に置き、その上に丸い陶器を乗せる。無言のまま、陶器の中に短く太い蝋燭に火を灯して入れる。

「お互いに、これに妃の名を書きましょう。見比べ、燃やす」

「・・・分かった」

 壱に手渡された筆記具は、唯壱の部屋にあったものとは違った。持ちにくく、書きにくい。

 手を動かしながら、ランを見やる。涼しい目つきで手を動かす彼は何者なのだろう。名が盟約の代わりとして名乗るものなら、必然的にランも唯壱に会った事がある可能性が高い。

「書けましたか?」

「・・・うん」

 揃って筆記具を置く。ランが徐に裏返した板に書かれた、文字。


 藍 唯壱


「貴方のものも裏返して下さい」

「・・・」

 壱は無言で言われた通り、自分に宛がわれた板を裏返した。


 翠 唯壱


 板を一目見て、ランは名の書かれた二枚の板を裏返して陶器の上に乗せた。内側からの熱で、真ん中からあっという間に溶けるように燃えていく。

「なるほど、貴方の話を信じましょう」

「苗字が違ったな。アイ・・・って?」

「“ラン”ですよ。彼女の本当の苗字は。翠家に嫁いだので本当の彼女を失ったのです」

「ラン・・・まさか」

 ランは二枚の板が燃え落ちるのを見つめながら、抑揚のない声で告げる。

「私の名はランウ」


 藍 鵜

 

 水滴で床になぞるように書かれた文字とランの顔を見比べて、彼のその優しい笑顔に彼女の姿を重ねた。

「妃の、兄です。貴方のお名前を伺えますか?」

 名は、書類無き結託の証。彼は名乗った。得体も知れない、異世界人の自分を信じると、そう公言した。

「・・・壱」

 藍は優しく微笑んだ。笑った時の目元が似ている。

「宜しく、イチ」

 心臓が高鳴った。自分の名を呼ぶ彼の声は、十年来の友の声に似ていた。


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