壱④
壱はその日から唯壱に色々な事を教えて貰った。
唯壱は何も知らない壱を訝しむ素振りもなく、丁寧に分かりやすく解説を施してくれた。唯一不審がられた事と言えば、光珠と闇珠に関する質問である。光珠は常に空の同じ位置にあって、地平線に沈んでいくこともない。どこからともなく現れた闇珠によって暗はもたらされるというが、それらは常に同じ位置にあって動かないということは、闇珠は常に光珠と重なった位置にあるということである。
では、光珠と闇珠のどちらが表になるのかは、どのようにして決まるのか。十四時間で、表裏が勝手に裏返るとでもいうのだろうか。
唯壱に明確な解説を求めたが、それはそういうものだから分からないとあっさり切り捨てられた。その瞬間、壱は明暗に関わる全ての科学的解答究明を放棄した。
「ここは、どこなの?」
「雷国が小家の一つ、ミドリ家」
「ミドリ家」
雷国とは確か光の国の一つで、小家とは御家の中では最も規模の小さい単位だった気がする。
唯壱は薄い板を持ってきて、それに文字を書いた。この世界に紙は無いのかも知れない。
翠家
「“翠”というのは雷国の西端に位置する小家なの。特に特色はないけれど、鵡大家楼中家お預かりなの」
「これで小家、なんだ」
壱は生憎と唯壱の部屋しか見たことはないが、上には上があるのだ。壱にしてみれば、五人でこの部屋に住めと言われても文句一つ出ない。
「ここは、四国の中では大きい国なの?」
「いいえ。単純に面積で大きさを測るなら、小さい部類でしょうね。最も大きな国がスイ国。次がコウ国、三番目が雷国よ。スイ国の半分もないわね」
水国
紅国
壱に聞かれる前に、国の名を文字に当てる。
「光の者が暗で力を失うって聞いたけど、実際のところどうなるの?力を失うって」
「失うというか、そうね。力が抜けるというのかしら。壱は三日なにも食べなかったことがあるかしら?そんな感じで体に思うように力が入らなくて、酷く疲れるというか。なにをするにも億劫というか、そんな感じになるの」
「それじゃあ、暗に闇の国が攻めて来たら、戦いにもならないんじゃない?」
「そうね。だから、長い歴史の中で、今の四国歳を築いた王が、初めてこの世界を統一したと言われているの。それ以前には、それこそ暗に闇の者が光の者を攻めたり、明に光の者が闇の者を攻めたり、諍いは止まらなかったというわ。ではなぜ世界統一がなされたのかというと、四国歳を築いた二人の王は、それぞれ光と闇の神だったの」
「え?カミ?神様?」
そうよ、と唯壱はこともなげに言う。
「光珠と闇珠を支配する二人の神が手を携えて世界を統一したの。戦争なんて出来ないでしょう?暗だから光の国を攻めてやろうと闇の者が企んだとしても、それを実行したらすぐに、光の神が世界を明にしてしまうの。途端に彼らの力は削がれて、反乱と裏切りの事実だけが残る」
「・・・神様、ね。そんなの出て来られたんじゃ、無敵だね。その二人の王の前は、その神様はなにをしてたわけ?というか、神様って死ぬの?」
「神は常に現世におわすわけではないの。天上にあって、時折神の力に見合うだけの器が現世に生まれた時だけ、この世に降臨されるのよ。それはごく稀なことで、神は幾人もおわすというけれど、現世に全員がいらっしゃるようなことはないわ。時代によって様々で、今この瞬間でいうならば、確認される神は水神様と火神様のみと言われているわ。神はその力を自在に操るけれど、肉体は不死身ではなくただのヒトよ。刺されれば死ぬし、寿命でも死ぬ。そうして、神の魂は天上に還って、また次の器が現れるのを待つ」
だめだ、神様まで出て来られたのではついていけない。今は二人しかいないというのだから、そういうものなのだと心に留めておこう。
「じゃあ、今は光の神と闇の神はいないから、光国と闇国とで戦争になる危険は常にあるわけだ?」
「なくはないけれど。とりあえずは水神様が牽制の役割を担って下さっているから、そう簡単には争乱にはならないと思うのだけれど」
「水神ってまさか、世界の水の全てを操る、とか言わないよね?」
唯壱はくすくすと笑う。そんなわけないでしょう、と言われているようで、壱はそれはそうだと、恥ずかしさに加えて安堵もする。命の源の水を司られたのでは、正真正銘の無敵だ。光の神や闇の神の比ではない。
「そのまさかよ」
唯壱は、すごいでしょう、と自分のことのように嬉しそうに言う。一方の壱は青くなる。
「嘘でしょ!?」
「本当よ。氷国王が、水神様よ。だから氷国は水国の十分の一ほどしかないのに、誰も軽視しなければ侵攻もしない。他国と国交もない、唯一無二の独立国よ」
「・・・もう、なんと言っていいのか分からないよ」
壱は苦く笑って、考えることを放棄する。
それでは、この世界では絶対君主が存在するのだ。ヒトの力ではどうすることもできない、神のおわす国。否、体はヒトと同じということは、どうにかしようとすれば、出来ないこともないのだろうか。企みさえばれなければ良いのだ。
「えーっと、唯壱は、翠家にとってどんな位にいるの?」
壱は話題を変える。全てを一度に知ろうとしない方がいい。頭が混線してまとまる情報もまとまらない。
「御家の主は家主と呼ばれているのだけれど、私は家主の妃」
「・・・結婚、してたんだ」
若いのに、と言いかけて止める。こちらの世界では早期結婚は当たり前なのかも知れない。この世界について知らない事が多過ぎる現状では、思った事を上手く口に出来ない。
「まあ、ね」
唯壱は少し声のトーンを落とす。どうやら気乗りのする結婚生活ではないらしい。
「それより、もうすぐ家主がまた出かけるの。どう、一緒に城下町に行ってみない?」
唯壱は身を乗り出して提案する。輝く瞳は、玩具を見つけた子供のよう。
「でも、一城の妃が簡単に出歩いたりして良いわけ?」
「問題ないわ。旅装束で行けば気付かれないもの」
家主を見送って来ると言い残し、唯壱は軽い足取りで部屋から出て行ってしまった。余程窮屈な暮らしを強いられていたのだろう、話し相手が欲しかったのかも知れない。
壱は体の自由が利くようになると直ぐに服を求めた。壱が着て来た服は確かに緑に変色し、それが獣の血だと思うととても袖を通す気にはなれなかった。仕方なく、上着によって守られたシャツだけを残し、残りの服は処分して貰った。この世界の服は民族によって様々なのだそうだが、取り敢えずシンプルなものをチョイスした。煌びやかな刺繍は肌に合わない。
黒のタンクトップの上から、長袖の上着を羽織る。衿がなく、首周りがやけに広い。服が首ではなく肩で止まっている感じ、お陰で下に着ているシャツもしっかり見えている。布の余った服で、それだけを着ると女性のワンピースのようにも見えたが腰に紐を巻いてめりはりを付ける。黒のぴったりとしたパンツにブーツを合わせて完成だ。露出した肩に違和感がある。だぼだぼした服が、より幼さを強調しているような気がした。
「真っ白で何も模様がないのは味気ないと思わない?」
と、唯壱が差し出した飾りを首から提げる。窓に映った自分の姿を見て、小さく頭を掻いた。恥ずかしい。こんな格好、友人には決して見せられない。馬鹿にされるに決まっている。
壱は窓から外の景色を眺めた。遠目には城下町にオブジェとして木々が植えられているのかと思われたが、違った。人だ。塀の向こう側に蠢く緑、緑、緑。その悉くが人間の頭だと悟った時、この世界の人間の一般的な髪の色を知った。
そう言えば唯壱が、自分の髪を珍しい色だと言っていた。焦げ茶色と黄銅色を混ぜたような薄い茶色の髪。唯壱の髪も茶系の色だったのであまり気には留めていなかったのだが、どうやら唯壱の髪も変わっている部類に入るようだ。初めて出会った名も知らぬ少女の髪はちらっと見えた感じだとおそらく青系、この世界では髪の色種も多いのかも知れない。五大尊色というのがあるくらいだ、数は分からないが多種の色に出会うことはあるのだろう。
テントのような張られた布の下に、何やら色彩豊かな物々が並んでいるところを見ると、どうやら個人経営の出店のようなものらしい。店はずらりと道沿いに並び、祭りを想起させた。その店の背後にずらりと並ぶ建物は殆どが二階建て。外が臨めるように手すりが付いているようにも見えるが、細部は分からない。
「ごめん、お待たせ」
息を弾ませて戻ってきた唯壱に、壱は城下町を指さす。
「唯壱の髪の色も変わってるんだな」
「うん?そうね、一般的には緑の髪が普通だからね」
唯壱は文机の椅子に腰掛け、首を伸ばして壱の横から窓の外を眺める。
「五大尊色っていうのはなんとなく知ってるけど、その色の髪や目を持つ者がなんで高貴なの?」
「この世は能力主義国家でしょう?特別な力を持った者の髪や目は、生まれつき五大尊色である事が多く、また、能力に応じて髪や目の色が五大尊色に変化する事も多い。彼らはその特別な力でカンシを受け、官になる。緑の髪の高位官は殆どいないくらい。髪が知性及び身体的能力値の基準となっている、と言えば分かりやすいかしら」
官試
「官試に合格する事で、御家に仕える資格が与えられるの。官として城で働くことが出来るのよ。能力が高ければ高いほど、王城に仕える道も生まれるわ。壱も受けてみたらどう?」
体をもう少し鍛えなくてはいけないでしょうけど、と唯壱は笑う。壱はそれに苦笑いで答えて、自分の髪を摘んだ。
「茶色は五大尊色には入っていないんだな。という事は、あまり目立たない?」
「そうね。珍しい色ではあるけれど。五大尊色の、とりわけその中でも薄く淡い色の髪を持つ者が歩いていたら、官という証拠がなくても皆、道を譲る。それ程、薄い色の髪は希少。例えば青でも、紺のような濃い色よりも水色のような淡い色の髪を持っているヒトの方が能力値は高いの。王城に行けば、濃い色の五大尊色の官なんて山のようにいるわ。だけど、薄い色の髪を持つヒトは極端に少ないのよ」
壱は少女を思い起こした。透けそうな程薄い、青髪だった。何者かは分からないが、彼女は余程の地位を持っていた可能性があるという事か。自分よりも幼い雰囲気の、あの少女が。
「あとは何か質問あるかしら?」
「いや、行こう」
にっこりと微笑んだ唯壱は、反対側の壁を指さした。そちらに何も変わった物がない事を確認して、壱は首を傾げる。
「なに?」
「着替えるのよ。まさかこの格好では行けないでしょう?」
あちらを向いていろということか。壱は唯壱に背を向けてベッドを乗り越え、ベッドの脇を背もたれに床に座り込んだ。唯壱からも壱の姿は見えないであろう。
「・・・・どうしてあの男と結婚したの?」
「大嫌いだから」
「・・・ギャグ?」
「ギャグって何?」
引き出しを開ける音。さしたる時間もかからず閉まったところを見るに、着る服は予め決まっていたのだろう。
「冗談の事だよ」
「ふうん、ギャグか。初めて壱から教わった言葉だね」
唯壱が愉快そうに笑うが、壱はどうにも上手く交わされているようで面白くない。
着替えを終えた唯壱は、先程の妃として城に住む者の姿から一変した様相になっていた。艶のある髪を全て束ね、ピアス以外の装飾品は付けていない。上着の胸元はV字型に大きく開き、臍の辺りで紐で留められている。真っ黒の下地が映える。オレンジ色の上着にはよく見ると細かな刺繍が入っており、城に身を置く者の限界を見た気がして笑いが込み上げてきた。黒のぴったりとしたパンツに黒のブーツが勇ましい。
「ずいぶん雰囲気が変わったな」
「女には幾つもの顔があるのよ。覚えておくのね、ぼうや」
ウインクを寄越してふざける唯壱に苦笑いを返して、壱は立ち上がった。少し目を離した隙に、唯壱がいない。扉を振り返るも、出て行った気配はない。脱ぎ捨てられた服が椅子に掛けられた状態で、唯壱が消えた。
「ちょっと、早く」
壱は誰もいない部屋から聞こえる唯壱の声に一瞬肩を振るわせ、大きく深呼吸をした。窓に近寄り、身を乗り出す。窓の真下、平坦な建物の突出部に唯壱は立っていた。窓枠を見る。紐を括り付けた跡はない。唯壱のいる位置までに、手を掛けられるような突出はない。
「何してるの、飛び降りて」
「はあ?」
無理、と言いかけて例の少女の言葉を思い出す。このくらいの高さなら、飛べて当たり前だと言うのか。とんでもない話だ。よくて複雑骨折、下手をすれば自殺に成功する高さだ。
「・・・ははん、高所恐怖症だな?いいよ、受け止めてあげるから」
両手をいっぱいに開く唯壱の頼りない細腕を見て、自分の命を預けようという気は起こらない。何か紐の代わりになりそうな物を見つけて、伝って下りるのがベストというものだ。
唯壱の脱いだ服を見る。これだけでは長さが足りない以前に、高価そうなドレスを綱の代わりに使用して破れるような事にでもなれば弁償は出来ない。この部屋にある物は全て、壱の手出しできるような代物ではないのだろう。
「抜け出している事は内緒なのよ。見つかったら大変だわ、お願いよ。早く」
唯壱が両手を広げたまま、困ったようにこちらを見上げている。仕方なく壱は窓枠に足を掛けたが、矢張り飛ぶには勇気がいる。身体能力の優れた人間。その力の程は今後の参考の為にも調べておく必要がある。死なば諸共、唯壱がいなければ喰われていた命だ。
壱は目を固く閉じ、唯壱に出発を告げる事もなく一気に飛び降りた。
体が宙に浮いていると感じる間もなく、風を切って落ちる。重力はしっかりあるらしい。
「っ・・・」
脳が揺れ、一瞬意識が飛びかけた。そっと目を開けると、唯壱がしっかりと壱の体を抱きかかえている。子供のように抱きかかえられる自分の姿を想像するだけで顔から火が出そうだ。力強く抱えられた背中がひりひりするのとは正反対に、顔には柔らかい胸の感触。慌てて唯壱を押しのけようとする壱を、唯壱は強く抱きしめた。
「ちょっと、足場を見てよ!突き落とすつもり?」
「え、ああ・・・」
壱は視線を足下に向けた。人一人立っているのがやっとといった狭い足場に壱の居場所はない。宙ぶらりんの状態の壱を抱きかかえ、唯壱は跳んだ。彼女の肩に顎を乗せた情けない姿の壱に軽い衝撃だけを残し、無事、地を拝む。
「よし、ばれないうちに行くわよ」
「一城の妃とは思えないな!」
壱は冷や汗を流しながら苦情を漏らす。とんだお転婆だ。
「城にね、嫁ぐ時に心に決めたことがあるの。私はあまり心の強い人間ではないし、ヒトを従えることも出来る気がしなくて、一人の姫君をお手本にすることにしたわ。この翠家の直属である鵡大家にいらっしゃった姫君で、その生き方に感激したの。だから私は、体も鍛えるし、自分の足で世界を見て、民を守るの」
活き活きと瞳を輝かせる唯壱の選んだ脱出ルートは散々たるものだった。壱は幾度と無く付いてきた事を後悔し、その度に唯壱は溌剌と童心に還っていく。
門兵の視線を潜り抜け、塀をよじ登り、城下町に到着した頃には既に壱の体力は残っていなかった。