壱①
体が動かない。目が、開かない。
ふわふわと、体が宙に舞う感覚。熱くもなく冷たくもない、永遠に体を浸す事が出来そうな適温の水の中を浮遊しているよう。
ゆらゆら、意識は朦朧としているのに、何故か心地良い。
起きろ。
・・・誰かが、呼んでいる。はっきり聞こえない。耳に神経を集中させる。
起きろって。
今度は聞こえた。おそらく、幻聴ではない。起きなければ、という思いとは裏腹に、瞼が異常に重い。
「死にたいのか!」
「痛っ・・・」
壱の瞼は先程までの重みを失った。体全体を走り抜けた重圧、それと同時に五感が機能し始める。びしょ濡れの服が体に貼り付いて気持ちが悪い。ゆっくりと体を起こす。
何が起こっているのかを把握するには多大なる時間を要した。まずは自分の体を隈無く見聞する。水に濡れた服が泥をも吸って、雨の中を砂場で遊んだ子供のよう。所々にある擦り傷に痛みは伴わない。乾いた唇に舌を這わせると、血の味がした。髪を伝う水滴が頬に流れ落ちる。辺りを見回した。
「・・・森?」
見渡す限りの木々。空が疎らにしか見えない程生い茂った木々は風もないのに仄かに揺れる。自然の匂いがする。億劫ではあったが、足を叱咤して立ち上がる。少し、蹌踉けた。
「ようやく起きたか」
壱は顔を上げた。何となく声のした方向を見上げ、太い枝に腰掛ける人影に目を止めて初めて、頭上から声が降ってくる違和感に気が付いた。
「あんた、誰?」
「ヒトに名を尋ねる時は自ら名乗るのが君達の礼儀でしょ?ま、僕は君の名前なんて知りたくないから別にいいんだけど。何とでも好きに呼んでよ。名はさして重要じゃないから」
「・・・名前はありとあらゆる個体及び生命体を含む万物を区別・認識する為に必要な・・」
「一人前の屁理屈並べるじゃない。僕は自分以外のモノに認識されようという意思はない。一秒後に君が僕を忘れようとも大いに結構だよ。むしろ、僕の事を僕に会ったこともない他者に認識させる術を失うという点では、名乗らない事は最大の防御だと思うんだけど、そのへん君の見解は?」
壱は苦い顔をした。
「降りて来いよ、見下ろされるのは不愉快だ」
「命の恩人にその態度。これだから半端に頭の良い子供は嫌いだよ。プライドだけは高いんだから」
口を尖らせて、太い枝に手を置いた人影は、ぱっとそこから飛び降りる。
あっと声を出す暇もなく、軽い足取りで目の前に着地して見せた人影に不覚にも見とれてしまった。
顔は見えないが、雰囲気のある少女だった。ショールのような薄い青みを帯びた透明に輝く布が、宙から舞い降りた少女をより柔らかく見せる。三メートルはあろう高さから飛び降りて、まるで自ら軽くジャンプをしただけとでも言わんばかりの軽く美しい着地に声を失う。
「変な顔」
少女は壱の顔を見て失笑した。慌てて視線を反らす。
手頃な岩に腰を下ろす少女を横目に見ながら、壱は冷静に少女を観察した。服装は黒のハイネックのタンクトップ、黒の膝丈のパンツ。マントを目深に被っているために、顔はよく分からない。背を一周して肘元から流れるショールが際立つ。足下はブーツ、特に特徴的な模様等はない。
少女は組んだ足に肘を乗せ、頬杖を付く。
「もう分かっているとは思うけど、ここは君達の言うところの異世界。君の常識は一切通用しないから、変人扱いされないように気を付けるんだね」
「は?」
眉根を顰めた壱に、少女は溜息で応じる。
「僕は二度同じ事は言わない」
「ちょ、ちょっと待って。意味が分からない」
「言葉の通りだよ。ここは君の常識の通用しない全く異なる世界。このくらいの高さから飛び降りるなんて、少し鍛えれば子供でも出来る事。君達異世界の連中は体の強度が極端に低いからね、気をつけた方がいい。冗談で肩を叩かれたくらいで骨折してたんじゃあ、お話にならないからね」
「・・・どんな怪力だよ」
壱は半信半疑のままに、毒づく。
「この世界には能力を上げる不思議な鉱石が多々ある。簡単に手に入るとは思わない方がいいけどね、存在だけは教えておくよ。この世界の者は、君が思っている以上に身体能力が高く、代わりに知能指数は若干低めだ。だからと言って、頭が悪い連中ばかりでもないから油断はしない事だね」
そう言って少女は、この世界が王政であること。四つの国があり、それぞれ御家と呼ばれる大家、中家、小家の主である家主が土地を治める制度があること。光珠と闇珠の存在、時の長さと数え方。数えきれない程の種族がいて、彼らが光の者か闇の者に大きく分けられること。五大尊色や狩猟区について、矢継ぎ早に壱に情報を押し付けた。
「一緒に旅をしてくれる気はない、って感じだな」
少女は可笑しそうに口元を緩める。
「僕はそんなに暇じゃないんでね。質問を受けてあげるだけでも感謝して欲しいよ。さあ、質問はないの?」
壱は迷う。そう言われても、全く分からない現状況では質問も出ない。
「君が目指すなら東の二国がいいだろうね。光の者が住まう国だ。国に入るには身分証明が必要だ。君にはないから、なんとかしなよ。いきなり門番に捕まるなんて情けない真似は止してね」
壱は少女を見た。どう見ても自分と同じ、ただの人間だ。いきなり異世界と言われても実感が沸かない。
「最後に一つだけ。君と共にこの世界に流れてきたオトモダチは今のところ全員無事だよ。探すなら勝手にどうぞ。僕の役目はこれで終わりだ」
「!待っ・・・」
にっ、と口元に笑みを携えた少女は、ゆっくりと立ち上がり片手を挙げた。壱の見ている前で宙高く舞い上がり、それと同時に降ってきた水滴で視界が霞んでいる隙に忽然と姿を消した。
ぼんやりと少女が消えた空を眺めていた壱は、夢を見ているのかと自分の目を疑った。実感は沸かない、これから何をすれば良いのかも分からない。だけど、もしも彼女の言っていた事が本当ならば、ここにいては危険だ。狩猟区には獣がいると、そう言っていた。
「東・・・」
壱は空を見上げた。木々が大きく手を広げて、視界を阻む。感覚の鈍い足を引き摺って、壱は移動しながら空にあるはずの太陽を探した。取りあえず、東に向かわねばなるまい。
少し歩くと、視界の開けた少し大きな野原に出た。子連れの親子がピクニックでもしていそうな、晴れやかな緑が目に染みる。
「・・・・太陽が」
光溢れる見渡す限りの青い空に太陽の姿はどこにもなく、それに近い姿をした目に眩しくないただの光の珠が、少女の言った通り、熱ももたらさずただそこに浮かんでいるだけだった。
※
助けてあげなくていいの。
雛姫は、木の高いところから、そう声をかける。隣の木では、雛姫の主が暢気に欠伸を漏らしながら地上を眺めている。
「どうしてきたの、雛姫」
「水砂に言われたのよ。見張ってろって」
「失礼な連中だな。この僕のどこを見張る必要がある」
「ほっといたら年単位で帰ってこないでしょ!」
雛姫の主張に、主は小首を傾げて見せる。小憎たらしい。
「いたらいたで、文句ばかり言うくせに。これは仕事でしょ。あれが、お前の好きだった“彼女”だ」
雛姫は複雑な思いで、徐に歩き出した少年を見遣る。ついに帰ってきたのか、と感慨深くもあり、姿形が全く違うので実感がないのも事実だ。
「小憎たらしいガキだったよ。さて、生き残ることが出来るといいけどね」
「だから、助けてあげればいいじゃない」
「あれを助けるのは僕の役目じゃないよ。ちゃんと、その役目を与えられた者がいる。その者に出会えたなら、とりあえずしばらくは大丈夫なはずさ」
「出会うまでは?」
「その程度で死んだらそれまでの命だ。この世界はまず、ぬるま湯で育った彼らにヒトの死を教えるだろう。役目の者には、彼らのための糧となる運命が与えられる」
雛姫は白い目で主を見遣る。
「あんたが助けたら、誰も死なずに、彼らも酷い目に遭うことはないんでしょ。それをわざわざ血を見せて、役目の者をむざむざ見殺しにするなんて、性格悪いわね」
主はフードを取る。この世の者とは思えぬ美しい顔が、こちらを振り返る。この顔ももう長いこと見ているが、まだ慣れない。その金に輝く大きな瞳が、くっ、と笑う。
「馬鹿だな。血も痛みも死も知らぬ子供が、この世界で生きていけるものか。彼らは優遇されているんだ。命を守ってくれる役目の者がいて、成長する機会をくれる。この世界の子供なら死ぬところを、生きるチャンスをもらえるんだ。命をもらって、甘えは許されない」
「奉るだけじゃだめなの」
雛姫は視線を逸らす。その美しい顔は、直視することすら憚られる。
「奉る。神だからか?彼らに神である自覚はないし、その力は自らで育てていくもの。力も使えぬ神を、なんのために奉るの」
「まぁ、そうね」
「お前に構ってて、次に行くのが遅れたじゃないか。次は、1番近いのは北か。幻影だな」
「様子見は誰に頼まれたの。運命の神様ですか」
雛姫は隣の木に飛び移り、主のフードを被せる。美しさもここまでいくと罪だ。
主は楽しげに、意地悪く笑う。
「そう嫌味を言うな。楽しいだろ、公然と遊べて」
「あんたが遊ぶなら、あたしにもその権利はあるわよね」
「付いてこれるものなら、どーぞ」
ふふふ、と主は笑う。その気になれば、雛姫など簡単に突き放せることなど、雛姫とて分かっている。
北に向かって動き出す主を追いながら、小さくなって行く子供を見遣る。彼が生き残れたなら、何年か後にまた会うこともあろう。
それまで無事で、と雛姫はただ、願う。