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神々の夢  作者: みみみ
第一章「五人の少年少女」
1/77

幻影①

 生き物を殺したのは、初めてだ。 


 殺したいと思ったこともない。その必要もなかった。もしも、万が一にも必要に迫られた場合には、せめてもの情けに銃を手渡してくれたなら、どれだけ良かっただろう。

 殺したと頭で分かって罪悪感に苛まれることはあれど、こうして肉を貫く感触を手が覚えることもなかった。気持ち悪いと涙を拭い、必死で血を洗い流して許しを乞うこともなかった。手が自分のものではないかのように震え、歯が噛み合わずに言葉が出ない。そんな経験をすることもなかった。 

 誰か助けてと、そう助けを乞うべき相手を刺殺した自分の周りには、もう誰もいない。  


 もうどれほど歩いたのか、体が酷く重い。 

 なぜ自分は森に迷い込んだのだっただろうか、気がつけば雨に濡れた地面の上にいた。 

 自分の置かれた現状を確かめようと周りを見回してみれど、ただ生い茂る木々があるだけの、一見ただの森だった。木が空を覆い、草が茂り、水を多分に含んだ土がある。ただそれだけ。

 体を起こして最寄りの木に凭れ掛かると、茂った葉の隙間を覗くようにして空を仰ぐ。そこには自分のよく知る青い空が、今は昼だと教えてくれるだけだった。 

 どうしてここにいるのか、思い出せない。最後の記憶と現状を結びつけることがどうしてもできず、ただ自分が一人であることだけは認識した。食べ物も水もない、どこかも分からない森にただ一人、かなりまずい状況にあることに間違いはない。

 幻影はゆっくりと体を起こし、そうして歩き出す。あてなどあるはずもない。ただ、じっと座っていても誰も助けてはくれないことだけは頭の端で理解していた。

 とにかく体が重いのは、服が水分を含んで物理的に重いのか、疲労からくるものなのか、それとも両方か。服を搾って出た水は茶色く濁り、それを飲もうとは思えなかった。

 もう三時間は歩いている気がする。空は明るく、夕方になる兆しはない。せめて太陽が見えたなら時間の検討もつけようがあろうが、生憎時々葉の隙間から見え隠れする程度の空に、まだ太陽の姿は認めない。

(そういえば、これだけ葉が覆い茂ってるわりには明るいな)

 幻影はぼんやりとそんなことを考えながら、ただがむしゃらに足を前に出す。立ち止まってしまうと、座り込んでしまうと、きっともうしばらく立てない。とにかく水、水が欲しい。

 ふらりとよろけて、手をついた木には大きな傷があった。それは爪痕にも見える。三本の巨大な筋が、木の上方から下方にかけて斜に線を残していた。

(・・・肉食獣でもいるのかな)

 幻影は我知らず生唾を飲んだが、恐怖よりも渇きが勝る。ちらりと足元に目をやると、泥水が溜まっている。躊躇いつつもそれを掬う手が既に泥にまみれていることに気づき、苦い笑いが漏れる。これでは綺麗な水を見つけたところで、手を洗った水はもはや泥水でしかない。

 意を決してそれを口に運ぶと、じゃり、と変な音がしたが、よほど渇いていたのか、不味いなどという味に関する感想は全く頭を過ぎらなかった。こんなことならば、もっと早くに足元の水を飲めば良かった。渇きが癒えたことで気が抜けて、ずるずるとその場にへたり込む。

 渇きの次は空腹が襲ってくる。落ち着いて見ると、服もとにかく泥臭い。髪までも泥を含んで固まり、掻くとじゃりじゃりと音を立ててそれが落ちてきた。

 木を見上げてみる。食べられそうな実はついていない。今度は根元を見やるも、茸類が生えている様子もなかった。

 目を閉じ、考えてみる。こんな規模の大きな森で、誰かに出会える可能性はどのくらいあるのだろう。ここが森林散策に向いているようには思えない。葉の隙間を縫って差す光が優しく、暗いイメージに結びつきにくいが、樹海の方が近い気がする。そうなると、自分一人で森を抜けることを考えなければならない 。

 どちらの方角に行けば正解に辿り着けるかも分からないのに。

(火で狼煙とかしたら誰か見つけてくれるのかな)

 どうやって火を熾すんだよ、と自嘲してみる。サバイバル経験はないに等しく、すぐに絶望的な気持ちになった。何からすればいいのか、それが分からない。 考えていても仕方がないな、と開き直り、軽く震える足を叱咤して立ち上がる。夜になる前に、食べ物を確保しておく必要があった。



 それから三日が経った、のだと思う。体が疲れているせいなのか、どうにも昼と夜の長さが日によって違う気がするが、とにかく真っ暗闇を三度経験したのだから三日という他あるまい。この三日で分かったことと言えば、どうやらここが幻影の知る世界とはまるで違うということだけだ。

 まず、幻影が気づいた異変といえば、太陽だった。 二日目にようやく開けた場所を見つけ、それからはそこを拠点としているのだが、初めて見上げた覆いのない空に浮かぶ太陽は、いつ見ても真上にあった。勘違いではない。何時間経っても太陽は動かず、じっと真上から幻影を照らしつけて決して地平線の彼方に沈むことなく、靄がかかったようにすぅっと姿を消して夜になった。こうなってくると、本当に三日が経ったのか幻影にも分からない。

 次に気温だ。このままでは風邪を引いてしまうと、服を比較的綺麗な水たまりにつけて洗って乾かす間、下着だけで過ごしてみたが、寒くも暑くもなく、常に幻影にとっての適温状態にあった。試しに濡れた服を身につけてみたが、それでも寒くない。頭上に煌々と輝く直射日光を浴びても、暑いどころか眩しいとすら感じない。

 雲はあるが、流れることがなく常に同じ形の雲が頭上にあって、なにがきっかけなのか時々思い出したように雨が降った。雨雲ではない。普通の白く見える雲からだ。

 いよいよここはどこだと自分に問い、決して答えは出ないが地球の反対側ですらないだろうという結論には至った。もはや考えても仕方がない上に、空腹に気を取られて思考回路が完全に 遮断されそうになっていた。

(もうだめだ)

 幻影は今日何度目かの泥水を啜り、空腹を紛らわせながら近くに落ちる実を拾い上げる。

 この三日で集めた実が足元には転がっている。それに口をつけなかったのは、単に毒性がある実であるか否かの判断がつかなかったためだ。色もよりどりみどり、赤から青、黒に至るまで様々だ。

 黒は避けた。自分の知っている果実に似ている赤の実を選んでしまったのは、無意識ではあるまい。それをゆっくりと手にとり、試しに割ってみる。ぐにゅ、と苺を無理やり割くような感覚があり、潰れるように割れた実から変な香りはしない。汁が滴るように手に溢れ、慌ててそれを口で掬ってから、しまった、と思った。幻影は雫が流れ込んだ喉を抑え、吐き出すかどうか迷った。しかし、甘い甘い汁がすっと喉を通った瞬間には、実に齧り付いていた。

 涙が出るほど美味い。いや、実際に涙が出た。この三日で初めて食べた、味のする食べ物の毒性についてなど、もはや幻影の頭にはない。その場にある同じ色の実を食べ尽くしてからようやく、幻影は腹をさすった。じっと安静にして、体のどこかに異変がないかを確認する。腹痛などの痛みも、手足に痺れもない。五分ほどそうしていただろうか、ようやく詰めていた息を吐き、きっと毒性はなかったのだろうと頭にメモをする。どの実に毒性があったのか分かるように、一日に食べる実は一種類と決めた。

 こうして一箇所に腰を据えていては、見つかるものも見つからない。それは分かっていたのだが、しばらく体を癒すことに専念して、さらに三日ほどをその開けた土地で過ごした。その間に食べた実は、幸いなことにどれも幻影に痛みと死をもたらすものではなかった。


 初めて咆哮を聞いたのは、その夜だった。

 毎日仮住まいの場所を中心に散策をしていた幻影は、なにか大きな生き物がこの森にいるということに、残念ながら気づいていた。人の足跡や野宿の跡といったものは一切発見できなかったところから鑑みるに、どうやら森一帯、或いはこの辺りは人以外の生命体の暮らす土地のようだった。幻影の身長よりも遥かに高い位置にくっきりと刻まれた爪痕に、否が応でもその存在を認めざるを得ない。

 飛び起きたまでは良かったが、今の幻影に何ができるわけでもない。ただじっと地面に這いつくばって息を凝らし、周囲を窺う。

 今度は別の咆哮が聞こえた。共鳴し合っているのか牽制し合っているのか、そこから何度か咆哮が聞こえ、やがて絶命の叫びを聞いた。それを聞いたことがない幻影でも、今までの咆哮とは種類が違うことが分かった。おそらく、獣と獣が争って、一匹が死んだ。

 森はもとの静寂を取り戻し、ただの夜に戻る。幻影は身を固くしたまま一夜を過ごし、空が白んでくるのを待った。

 明けて、幻影は恐る恐る咆哮が聞こえた方角へと足を向けた。この三日雨が降っていないせいか、土地がからっと渇き、抜き足で歩く自分の足音がどうにも気にかかる。

 仮住まいの広場には大きめの穴を掘って、前の雨による水は確保しているが、どの頻度で雨が降るのか分からないので、もう少し用心して、帰ったら穴の数を増やそう、などと考えながら進むと、三十分も歩かぬうちにそれは現れた。

 巨大な獣だった。地面に染み込んだ血がどす黒く、真新しい。血溜まりの中に獣が一体横たわっていた。頭部は残っていたが、腹回りの肉が散乱し、食い散らかされている。目を覆いたくなる惨状であったにもかかわらず、幻影は意外にも真っ直ぐに獣の死骸を見ていた。

 頭部だけで一メートルはある。見たことのない獣だが、強いて言うならばライオンに近いだろうか、鬣はない。

 目は生きていれば震え上がるような血の色をしているのだろうが、くすんで赤黒く、四本あったであろう牙は一本が折れていた。その牙だけで幻影の肘下ほどの長さがある。体はあるようなないような状態であったが、食い残された足までの距離から大体推察するに、全長は三メートルあるかないか。ぷんと放つ異臭に顔をしかめ、吐き気を堪えるように鼻と口を腕で覆う。

(これは、負けた方の獣だ)

 幻影は 喉元まで込み上げてきた吐瀉物を、生唾と一緒に飲み込む。折角とった養分を吐いている場合ではない。ただ、その場にじっといたのでは臭いにあてられそうだったので、後ずさるようにしてその場を少し離れた。

 幻影は考える。こんな獣を食べるような奴が、まだこの辺りにいるのだ。そいつは夜行性なのかさえ分からないが、ここにいてはそのうち弱く狩るのが簡単な幻影を襲ってくることは目に見えている。

(気持ち悪い・・・)

 脳裏に浮かんだ獣の血肉と、服に染み付いた異臭から、結局幻影は吐いた。グロテスクな描写はテレビでこれまでに見たことがあるが、実際の臭いがつくと話は大きく変わるのだと、幻影は身をもって体感した。 実物を観察している時よりも、脳内に焼き付いた映像の方が、幻影の気分をみるみる悪化させていく。

 幻影は一通り吐いてから、もう一度現場に戻る。吐くものもないのだろう、胸がむかむかするものの、鼻をつまんでいればなんとか状況を見聞できそうだ。

 幻影が知りたかった情報は、それと意識してみればすぐに目に飛び込んできた。獣を食ったであろう獣は、幻影が仮の住まいとしている場所とは丁度真反対に去っていった跡がある。

 幻影は生きている獣から避けるように逃げようかと迷う。死骸にはまだ肉が残っていた。それを目当てに他の獣が寄ってくるかもしれないし、こないかもしれない。広場から逃げても、他の獣の縄張りに足を踏み入れるかもしれないし、そうではないかもしれない。こればかりは、獣の習性を知らない幻影には検討のつけようもなかった。折角見つけた実の成る木や、溜めた水を捨ててまであてもなく移動する価値を見いだせず、結局幻影はその場に残ることにした。


 その日は唐突に訪れた。

 それからもなんとか何事もなく、ある意味平穏な暮らしに慣れ始めた頃、幻影は自分のものではない足跡に気がついた。一見しただけでは分からないような茂る草の中や、木の根付近を選んで歩いているのは明白で、明らかに自分の痕跡をあまり残さないよう画策した、二足歩行をする生物の足跡だった。

 足のサイズも幻影とさほど変わらない。この一風変わった世界にいる二足歩行の生物が、幻影と同じ形態をした人間であるかどうかは定かではなかったが、それでも、人間らしき生物に会えるかもしれない高揚感に、幻影は逸る気持ちを抑え、辺りに気を配りながら足跡の痕跡を追った。

 雨が降った日を思い出してみる。一昨日だ。この足跡は、一昨日以降につけられたものだとするならば、さほど遠くまで行っていないかもしれない。

(村とか、あるかもしれない)

 自然と顔が綻ぶ。言葉は通じるだろうか、この森から抜け出す方法を知っているだろうか。気がつくと走っていた。足跡を探しては走り、一昨日に通ったであろう何者かを懸命に追う。この機会を逃してしまっては、幻影にはもはや打つ手がない。たとえあの広場で永らえられたとしても、それで何になるというのか。ただ、なんとか命を繋ぐだけだ。そしてそれも、獣に出くわした瞬間に全て水泡に帰す。

 急に視界が曇る。今度は何が起きようとしているのか、などと考えていたが、なんてことはない、幻影は泣いていた。涙が次から次へと出てくる。急に手が震えてきた。足が震えてきた。涙が止まらない。

 誰か、誰か 、誰か、誰か!

 このまま一人、たった一人で死んでいくのかと思うと怖くて堪らない。誰でもいい、言葉の通じる誰か、助けて。

 幻影はふと、足を止める。

(足跡が・・・)

 すっと、背筋に寒いものが走る。足跡が、見つからない。空へと浮かび上がってしまったように、ぷつんと急に足跡が途切れている。幻影は涙を何度も拭い、辺り一帯を隈なく探してみたが、どうしても足跡が見つからない。

 がくん、と膝をついていた。もう、足に力が入らない。

「誰、か・・・」

 幻影は掠れる声を出す。久々に自分の声を聞いた。

 この十日ほど、ただひたすらに生きるための手段を講じてきた。相談する相手などいない。ただ、自分一人で考え、自分がいいと思う方法を試す他なかった。声をかける相手など、いない。

「誰か・・・」

 足に力が入らなかった。絶望が背筋を這うようにして、体の自由を奪っていく。

 もう広場に戻る元気もない。戻ったところで、どうなるというんだという諦めにも似た感情が次から次へと襲ってきて、幻影の体の機能を拐っていく。

 どのくらいその場に座り込んでいたのだろう、涙が枯れた頃、幻影は小さく頭を振った。

(元の場所に戻ろう。また、あの辺りに現れるかもしれない)

 あの足跡の主がなんのためにあの場所を訪れたのかは分からないが、もう一度訪れないとは言い切れない。なにか目的があって訪れたはずなのだ。その用事がまだ済んでいないことに、希望を見出す他なかった。

 漏れる溜息を噛み殺しながら腰を上げようとした、まさにその時だった。

 頭上を、なにかが掠めたのが分かった。泥で固くなった髪が僅かに揺れる。

 風ではない。この地には風が吹かないことを、幻影はなんとなく察していた。

 ゆっくりと目線を上げるのと、頭上に何かが落ちてくるのとが同時だった。頭上に落ちてきたものは、そのまま足元にずり落ちて、木の枝が折れただけだと幻影に教えた。否、折れたのではない。鋭利に切られた痕がある。

 最初、幻影自身が追ってきた人物だと思った。目を上げると真っ先に、二本足が目に飛び込んできたからだ。そのままゆっくりと顔を上げて行くと、幻影は冷水を掛けられたが如く血の気が引いて行くのを感じざるを得なかった。

 これは、この世界でいうところの「人」なのだろうか。二本足には違いないが、目の前にいる生き物はきっと、獣のように四本足で走ることも出来るのだろう。芸を仕込まれた猫が足だけで立っているようだった。背丈にして幻影と然程変わらず、毛髪のように顔面を中心に鬣がびっしりと生えている。

 恐ろしきは顔だ。眉はなく、小ぶりな丸い鼻がちょこんと顔の真ん中を陣取っているまでは良いが、三白眼で口が異様に大きい。目はじっと、こちらを観察するように見据えており、口からはだらしなく長い舌が胸の辺りまで垂れている。獲物を見る目だと思った。

 なまじ人間に近しい立ち振る舞いが不気味で、悍ましい。これが獣であったなら襲われ、人間であったとすればきっと幻影とは相容れない。ただただ込み上げる絶望に、幻影は呆然と立ち尽くす。

 話しかければ良いのか、逃げれば良いのか、などと混乱しきった頭で考えていると、その異形は一歩、様子を窺うように幻影に近づく。その口元が卑しく笑った瞬間、幻影は無意識のうちに一歩下がっていた。  喰われるという恐怖より、やはり人はいなかったのかという絶望の方が大きかった。自ら獣を追いかけてきた自分の間抜けさに呆れながら、座り込んでしまいたいという欲求とは裏腹に、体は生きるために反射的に動き出す。

 背中を向けていいのかよ、と自分に毒突きながら、本能的に走り出す。頭のサイズは然程大きくはなかった。果たして幻影を喰えるだろうか?もっと小さな生き物を食べる生き物なんじゃないのか。

「いっ・・・」

 不意に襲った痛みに幻影は思わず痛みを抑え、どろりとした生温い液体に触れた。血だ、と瞬間的に思ったが 、量がおかしいと思ったのも事実だった。慌てて振り返ろうとするのと、異形が飛びかかってきているのが同時だった。

 後ろによろけるようにして尻餅をつく幻影の頭上を、やはり四本の足で疾走しながら駆け抜けていく。風が髪を揺らした。

 初めてこいつを見たときと同じ。あれも、飛びかかってきていたのだと、幻影は呆然と頭上を通り抜けていく異形の、先ほどまでとは桁外れに大きく牙を剥き出しにした顔を見ながらぼんやりと思った。

 幻影は上半身だけ捻って背後に回った獣の姿を見据える。獣はまた、人のような顔をして笑いながらこっちを見ていた。

 まんまと油断させられていたのだと思うと、情けなくなってきた。涙が滲んできたのはそのせいか、痛みからか。一体いつ傷つけられたのか、肩の辺りから流れるように血が出ている。今襲いかかられたのではないとすると、初めて風を感じたあの時だろうか、気づけば服が血でぐっしょりと濡れている。

 これ全部、自分の血なのか、と問いながら、意識が遠のいてくるのを感じる。膝が尋常じゃないほど震えている。傷を認識してしまうと、傷みは激痛へと変わり、体全体が痙攣を起こすように揺れている。

「たす、け・・・」

 声が掠れた。こいつに言葉なんか、通じるものか。それでも、請わずにはいられなかった。

「助けて、くれ」

 震えのせいか、貧血のせいか、涙のせいか、獣の姿がぼやけてよく見えない。このまま倒れ込んだら、放って置いても死ねる気がした。それでも幻影は叫ぶ。

「助けてくれ、助けて、助けて!」

 喰われるのは嫌だ。喰われるのは嫌だ。

 脳裏に、先日見た、食い荒らされた獣の姿が浮かぶ。死んだ獣の虚ろな瞳、腹を喰い荒らされた無残な姿が自分と重なる。こんな、どこかも分からない森で喰い荒らされて、虚ろな目をしてひっそりと放置される恐怖。

 ああ、痛い、痛い、苦しい。

 助けて、と何度目かの声をあげようとして、言葉が詰まる。喉がひゅーひゅーと鳴っているのが分かった。口の中で血の味がする。

 獣はじっと三白眼をこちらに向けたまま襲ってこない。そんな幻影の様子を愉しんでいるかのように、勝手に果てるのを待っているかのように、にやにやとこちらを見ている。

 どうしてこんなことに、と今更ながらに泣けてくる。老衰が無理でも、喰われて死ぬなんて死に方、どうして自分に予想ができただろうか。なぜ、どうして。

 獣が一歩近づいてきた。幻影は動けない。気持ちだけが後ろに下がる。

 逃げない幻影を見て、獣が人の姿を捨て、口を大きく開く。顔の皮が伸びるようにして横に大きく裂け、三倍近い大きさになっている。幻影の頭など、一口で飲み込んでしまうだろう。どんどんと距離を詰めてくる獣を見上げながら、幻影は尻餅をついたまま後退る。 

 気がつけば砂を掴んで投げていた。小枝を握りしめて振り回していた。

 何を恨めばいい。誰を恨めばいい。この行き場のない苦しみや痛みを、どこにぶつけて死ねばいい。

「どこだ、・・・どこに行ったんだ」

 手近にあるものを投げ尽くし、幻影は目前に迫った獣から、それでもまだ身を守ろうと両手で顔を覆う。 目を閉じると、溜まっていた涙がぼたぼたと落ちた。

「どこに行ったんだ、壱――」

 ガツン、と頭に衝撃が走る。


 その後の記憶はない。


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