幕間5 影の意思
聖アルフ歴1887年
任務の報告書を提出するために、木猿は指令室に来ていた。
「任務ご苦労だったね」
紅がそう言うと、木猿は丁寧な口調で答える。
「いいえ。相手の腕は確かでしたが、それだけでした」
(あんな、隠密としての覚悟もない剣捌きだけのゴミに負けるとでも思っていたのか? 僕も見くびられたものだ)
木猿は、心の中で毒を吐きながらも謙遜するようにそう言った。それを聞いた赤毛の男性は、笑顔を崩すことなく続ける。
「一応確認しておきたいんだけど、今回の対象が何か変わったことを言っていたりしたかい?」
紅がそう尋ねると、焦げ茶色の髪をした隠密は、表面的には表情を変えることなく答えた。
「いいえ。特に何も言ってはいませんでしたが、何かありましたか?」
(何のつもりだ?)
木猿が心の中でそう考えると、紅は、真剣な表情で答える。
「抜け忍の遺体を回収した隠密からの報告で、抜け忍が潜伏していた小屋から、この国の極秘研究を告発する資料が発見された。」
「この資料は、彼が隠密を抜けた理由だと僕は考えているんだけど、本当に何も言っていなかったのかい? かなり精密に作られた告発資料の内容も考慮すれば、君を始末する前提で何か言っていた可能性が高いと思うのだけど」
紅は、焦げ茶色の隠密を射抜くような目線でそう言った。持木猿は、僅かに目線を逸らしながら答える。
「いいえ。少なくとも、相手が喋っていたことは、僕には理解できない低俗な物だけだったことは確かです。それ以上のことはありません」
(この赤毛、優男のような風体にしては鋭いな……だが、今言ったことは僕の主観としては嘘ではないし、誤魔化せるだろう)
「……分かった。君がそう言うなら、この件はそうしておこう」
紅はそう言うと、木猿が提出した報告書を受け取った。報告書を大まかに流し読みすると、赤毛の男性は報告書をしまいながら焦げ茶色の髪をした隠密に話しかける。
「そう言えば、君に悪いお話と良いお話があるんだけど、少し時間を貰うよ」
紅が突然切り出した話に意表を突かれたのか、木猿は無言で頷いた。それを見た紅は、柔和な笑みを浮かべながら続ける。
「指令室を出るときにはいい気分でいてほしいから、先に悪いお話からさせてもらうよ」
そう言うと、紅は先ほどまでの柔和な笑みとは異なる、鉄仮面のような無表情になった。
「先日、中忍の銀二から君の考え方についての愚痴を聞いたのだけど、どういう事か説明してもらえるかな?」
紅がそう言うと、木猿は赤毛の男が出した名前に心当たりがないのか、頭の中で思案を始める。
(銀二? 誰だ、そいつは?)
赤毛の男は、焦げ茶色の髪をした隠密がどの話をしていないのかを理解したのか、少し呆れた様に口を開いた。
「君が機能隠密の有るべき思考と行動とやらを話した相手だよ。コードネームも知らなかったのかい?」
紅がそう言うと、木猿は少し気まずそうに答える。
「はい。任務で行動を共にしたこともありませんでしたから」
(僕が理想とする隠密の何がいけないんだよ。第一、一般家庭出身の中忍なんかの意見一つで、何で説教されなきゃいけないんだ)
木猿が心の中で悪態を突いていると、紅は淡々とした口調で話し始めた。
「隠密の役割は、確かに国の国益を裏側から確保することだけど、だからといって、民衆をないがしろにするものではないはずだよ」
紅がそう言うと、木猿は何処か怒気の混じったような口調で答える。
「……敵国の情報機関に踊らされた挙句に、国に楯突くような愚かな民衆を守れと言うのですか? 魔導戦争終結後のふざけた工作に乗せられるような民衆のせいで、国そのものが滅びかけたことは事実ですよね?」
「あの時代の資料を見たことは貴方もありますよね? 100年ほど前には、【戦わなくていいなら。国が無くなってもいい】【戦いに巻き込まれそうになったら国外に逃げればいい】なんて言説が当たり前のように蔓延していたのです。幼少期にこの事実を学んだ僕は、徹底された統治と力こそが国と結果的には人を守れると判断したんです」
木猿が鬼気迫る口調でそう言うと、紅は真剣な面持ちこそ崩すことなく、諭すような口調で話し始めた。
「100年前が、亡国の危機と呼ぶにふさわしい状況で、それをシン国とアメスリアの情報工作によって先導された民衆が招いたということ自体は、確かに事実だ。そのとこに憤ること自体は否定しない」
赤毛の男は、一息入れると、一言をより噛み締めるかのような口調で続ける。
「けれど、民衆が状況を見極めて、選択することも出来るはずだ。君が例えたことの逆をね。実際に、そうして国を良くしようとした動きによって、シン国の工作員が行き場を失ったことが、大狂騒の最大の発端の筈だよね?」
「君の言っていることは、結果的にはシン国のように、民衆を信用せずに、家畜のように飼いならして楽をするということだ。民衆が存在してこそ国も、隠密や防人のような組織も、存在意義を持って機能することが出来ると僕は思う」
紅が要所を区切りつつ諭すようにそう言うと、木猿は唇を震わせながら答えた。
「僕はそのようなつもりは……」
(一般家庭出身の成り上がりの分際で何様のつもりだ……だが、ここで僕がコイツに飛び掛かれば確実に殺される)
焦げ茶色の髪をした隠密が、心中で毒を吐きつつも歯切れの悪い口調でそう言うと、紅は、今度は冷淡な口調で口を開く。
「自覚がないだけで同じだよ。そもそも、今の隠密は国に仕える組織に過ぎない。君が主張するような民衆を捨て駒にするようなことは、不可能だ。君にそう言う考え方を教えたであろう、第二地区の影を含めた、全ての影がね。民衆の信頼を失えば、組織としての形はもちろん、人としての最低限の矜持も終わりだ」
「君は隠密と君自身の考えを必要悪だと言ったけど、それは断じて違うし、他の人々がすることを躊躇うような汚れ仕事を買って出て、他者が被るかもしれない泥を代わりに被り悪逆だと言われる役割こそが隠密だと、僕は隠密の長の一人である影として考えるよ」
紅は冷淡な口調で続ける。
「君の優秀さに免じてある程度は大目に見てきたけれど、僕が甘かったようだね。君が、心の中では他人を見下して来たことを知った時に対処するべきだった」
「君は、過去に合った悲惨な事件と出来事を偏った方向から捉えて、幼少期に教わった偏った考え方を踏まえて、必要悪という言葉で誤魔化しながら独裁者のような得体の知れない何かになろうとしているだけの、ただの愚か者だ。君には隠密を名乗る資格は無い」
紅が焦げ茶色の髪をした男に対して、明確に隠密としての存在を否定する言葉を言うと、焦げ茶色の髪をした男は、精神的に大きな傷を負ったかのようにうなだれた。
それを見た赤毛の男は、今度は心の底から憐れむような目で相手を見ながら続ける。
「その年で上忍に任命したのは、信頼の証だったんだけれど、その信頼を裏切られたことは残念だよ。もう少し民衆を思いやれる人物だと思っていたのだけれどね」
憐れむ様にそう言うと、紅は先ほど見せた冷淡な顔に戻って口を開いた。
「悪いお話は以上だ。良いお話は、休暇のことだよ。本当は君には隠密を止めさせたいけれど、君の技量は本物だからね。手放すわけにもいかないんだ」
「だから、隠密を止めさせる代わりに、地下牢で一か月ほど謹慎だ。僕を恨むなら好きにすればいい。彼を連れていけ」
紅がそう言うと、部屋の脇に存在する死角から上忍用の改良された装備を付けた隠密が二人ほど現れる。木猿は抵抗することなく連れて行かれた。
「やれやれ、出来ればいい気分で指令室を出てほしかったけど、流石に無理が有ったか」
上忍二人に連れて行かれたことを確認した紅は、頭を抱えながらそう言う。すると、鬼の面を付けた上忍が脇の死角から現れた。
鬼の面を付けている隠密が身にまとっている雰囲気からも、先程木猿を連れて行った二人とは違う、熟練の隠密としての気配がにじみ出ている。
「あの男にはあれぐらいは言わねば話になるまい。ああいう自分が優れた存在だと思いあがり他者を見下すような奴にはあれぐらい言わねば変わらん。貴殿が気に病む必要はない」
鬼の面を付けた上忍が野太い声でそう言うと、赤毛の男は、考え込みながら答える。
「ならいいけれど……」
紅がそう言うと、鬼の面を付けた隠密は、話を変えるように口を開いた。
「あの若造の事よりも、お主に任務が来ているのだろう?」
上忍がそう言うと、赤毛の男は、机から極秘と書かれた指令書を取り出しながら答える。
「ああ、イースト国際学園の内偵調査を行わなければならない。だが……」
紅が言葉を詰まらせていると、鬼の面を付けた隠密は落ち着いた口調で答えた。
「だが、あの木猿の考え方や、最近の不祥事を踏まえて、第二地区が怪しい。そう言うことだな?」
鬼の面を付けた上忍がそう言うと、赤毛の男は真剣な表情のまま答える。
「その通りだよ。第二地区の影である五代目段蔵殿は、歴代の段蔵と比較してかなりの武闘派路線で有名だ。本来ならば不祥事が起きること自体珍しいことだと思うんだけれど……」
紅がそう言うと、鬼の面を付けた上忍は、自分の持論を述べ始めた。
「逆かもしれん。厳しく締め付けを行ったからこそ、反動が生じているとも考えられる。実際に、今まで起きた第二地区の不祥事は、この国そのもののやり方に不満を覚えている者の行動が大半だ」
上忍がそう言うと、紅は、納得したようにこわばらせていた表情を緩める。表情が幾分柔らかくなった赤毛の男は、鬼の面を付けた上忍に指示を出した。
「僕がイーストに向かっている間に、事務作業と並行して、木猿の監視と第二地区の調査も頼みたいんだが、頼まれてくれるかな? 彼は上からの命令には基本的には逆らわないけれど、今回の事は、流石に反感を覚える可能性も高いからね」
紅がそう言うと、鬼の面を付けた隠密は、野太い声で答える。
「心得た。万が一の場合は、あの若造の首を刎ねよう」
上忍がそう言うと、紅は申し訳なさそうに口を開いた。
「ありがとう、君や先代の翁殿には世話になってばかりだ」
赤毛の男がそう言うと、鬼の面を付けた隠密は、落ち着いた口調で答える。その姿は、まるで君主に仕える忠実な従者のようであった。
「この身は先代よりこの第五地区の隠密組織に仕え、先祖代々隠密を生業とする影。貴殿が後ろめたく思う必要はない」
上忍がそう言うと、紅は、心の底から感謝居ていることが分かる穏やかな口調で答える。
「そう言ってもらえると助かるよ。早速で悪いけど今から第二地区の調査の方を頼まれてくれるかな? 僕は、今から内偵の準備をする」
「心得た」
紅の指示を二つ返事で受けた上忍は、指令室の扉から外へと出て行った。それを見た赤毛の男は、極秘と書かれた指令書を開いたのである。
次章へ
どうもドルジです。
今回はセリフの部分が大半になる形となりました。次章は紅が主人公格になる予定です。




