第34話:千代姫の決意と、二人の絆
第34話:千代姫の決意と、二人の絆
鳴神の街が、静かな夜の帳に包まれていた。
昼間の三千人の熱気と槌音は嘘のように静まり返り、耳を澄ませば、石積みの側溝を流れる清らかな水のせせらぎと、コトコトと回る水車の音だけが夜風に乗って響いてくる。石畳を照らす篝火の灯り、長屋の窓から漏れる温かな明かり、そして夜空に立ち上る白い温泉の湯気。
役所の裏手、街を一望できる高台に新設された「檜造りの足湯」。そこには、裾をまくって並んで湯に足を浸す、一馬と千代の姿があった。
「……ふぅ。温かいなぁ」
「ええ……本当に、極楽ですわね」
二人の足元で、無色透明の単純硫黄泉が心地よい湯気を立てている。一年前、泥沼と枯れ草しかなかったこの荒野に、今や三千人以上の人々が温かい寝床で安心して眠っている。
千代は膝の上に置いた両手をきゅっと握りしめ、静かに夜の街並みを見つめた。
「一馬殿」
「ん? 千代さん」
「……天下が、貴方を放っておかなくなりましたわ」
千代の声は、どこか切なさを帯びていた。
「橘本家を従え、武藤や白金と同盟を結び、いまや諸国の民が鳴神の生活を求めている。……貴方はもう、ただの追放された若君でも、一地方の町長でもありません。乱世のすべてが、貴方の采配に救いを求めて押し寄せてきます」
「……天下ねぇ」
一馬は湯面をちゃぷちゃぷと揺らし、夜空の月を見上げて首を傾げた。
「あのさ千代さん。天下ってさ……具体的に誰のこと?」
「え……?」
「『天下』って言うとすごく大きくて偉そうに聞こえるけどさ。それって要するに、田んぼを耕してるおじいちゃんや、赤ん坊を抱っこしてるお母さんや、怪我を治したい兵士……一人ひとりの『民』のことだよね?」
「……ええ。そうですわ」
「じゃあさ」
一馬は千代を真っ直ぐ見て、屈託のない笑顔を浮かべた。
「千代さんも、その『天下』の中の一人だね」
「……っ!?」
千代の大きな瞳が、驚きで見開かれた。
「俺はさ、大名や将軍のために働いてるわけじゃないよ。目の前で困ってる人を助けたいだけなんだ。だから……天下のために千代さんを犠牲にしたり、置いていったりするわけないでしょ。だって千代さんは、最初から俺と一緒にこの街を作ってくれた、かけがえのない仲間なんだから。……それ、俺が一番困るやつじゃん」
「…………」
千代の胸の奥で、熱いものがこみ上げてきた。名門の姫として生まれ、「領民のために自分を殺して政略結婚の駒となるのが運命」と教え込まれてきた。だが、この青年は違う。自分を「大名の姫」としてではなく、「千代」という一人の人間として、当たり前に大切にしてくれている。
千代は目頭を押さえ、溢れそうになる涙をこらえて街を見渡した。
「……一馬殿」
「ん?」
「もし、この先……鳴神が天下のすべてを背負うことになったとしても。……この街を、変えないでくださいませ」
一馬はふっと笑った。
「変えるよ」
「……え?」
千代が驚いて顔を上げると、一馬は優しく微笑んで言った。
「もっと良くするよ。もっとご飯を美味しくして、もっと病気を減らして、もっと冬を暖かくして、子供たちが安心して遊べる街にする。だって、今日完成した街が、十年後も一番いい街とは限らないでしょ? 人が増えたら、また水が足りなくなるかもしれない。病気だって新しいのが出るかもしれない。だから、ずっと直していくんだよ。街って、完成するものじゃないから。……その時もさ、千代さんがずっと隣にいてくれると嬉しいな」
「…………っ!」
千代の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ち、足湯の波紋を揺らした。大げさな愛の言葉ではない。しかし、それは明日も明後日も、十年先も共に生きていくという、何よりも固く温かい魂の約束だった。
「一馬殿は、本当に天下を取るおつもりはないのですか?」
「天下を取るって、誰かから奪うことでしょ? 俺はさ、天下を取るんじゃなくて……」
一馬は湯気の向こうの街を見た。
「誰も天下を奪わなくていいようにしたいんだ。腹いっぱい食べられて、病気になったら治してもらえて、安心して眠れて。明日も普通に仕事ができる。それができるなら、誰が天下人でもいいんじゃないかな」
千代は涙を拭い、顔を上げた。その表情には、迷いのない凛々しく美しい光が宿っていた。
「……お供いたします、とは申しませんわ」
「え?」
「私は、貴方についていくのではありません。私自身も、この鳴神を作る者になります。一馬殿が現場を作るなら、私は人と制度を作る。一馬殿が水路を引くなら、私はその水を誰も奪えない仕組みにする。一馬殿が街を作るなら、私は人と制度を作る。一馬殿が新しい仕組みを考えるなら、私はそれを守る仕組みを作ります。人を雇い、税を決め、他国と交渉し、約束を守らせる。そういう面倒な仕事は私が引き受けますわ。……だから一馬殿は、安心して次の水路を考えてくださいませ。ですから――これからも、私を隣に置いてくださいませ」
「あはは! 頼もしいなぁ。千代さんがいないと、俺、たぶん街作るだけで力尽きるよ。よろしくね、千代さん!」
「ええ。存じておりますわ」
二人は顔を見合わせて笑い合い、心地よい湯気に包まれながら、静かに寄り添った。
――そして、翌朝。
ピヨピヨと小鳥が鳴き、爽やかな朝の光が差し込む執務室。二人が温かいお茶を飲んで穏やかな余韻に浸っていた――その時だった。
ドガァァァァァンッ!!
大広間の扉が凄まじい勢いで開け放たれた。
「御屋形様ァァァッ!! 千代様ァァッ!! 大変でございますぞォォォッ!!」
源助と十兵衛が息を切らして飛び込んできた。一馬が茶碗を吹き出しそうになりながら叫ぶ。
「今度は何!? また便所が詰まったの!?」
「いえ! 今度は便所ではございませぬ!」
背後から現れた源蔵が、汗を拭いながら太刀の柄を握りしめ、天井から降り立った篝が息を呑んで報告した。
「東海道より織部家、越後より神杉家、甲斐より武藤家、相模より白金家……さらに西国、奥羽、南国からも、諸国の大名使節団が街道を埋め尽くす大行列で城門前に集結しております!!」
「……は?」
千代が窓の外を見下ろすと、そこには見渡す限りの豪華絢爛な各大名の旗印がはためいていた。千代は額を押さえ、引きつった笑みを浮かべた。
「……どうやら、天下の皆様方が、待ちきれずに押し寄せて参りましたわね」
一馬は呆然と窓の外を見つめ、千代を振り返った。
「……千代さん」
「何ですの、一馬殿」
「……俺たち、今日こそゆっくり温泉大浴場に入る約束してなかった?」
「ええ、いたしましたわね」
「…………入れないじゃん!!」
一馬の悲痛な叫びが、朝の神都の青空に木霊した。しかし、その顔にはもはや恐れなど微塵もなかった。美味しいご飯と温かい温泉を求めただけの青年が、いまや天下のすべてを巻き込み、天下泰平への最初の大舞台へと歩み出そうとしていた。
そして、彼らが持ってきたのは同盟の申し出だけではありませんでした。鳴神の農具を、鳴神の税制を、鳴神の衛生制度を――自分たちの国にも導入できるのか。その問いこそが、天下の大名たちが鳴神へ押し寄せた本当の理由だったのです。
一馬は帳面を開き、炭を走らせた。
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【鳴神開拓記録:三百六十六日目】
・開拓人口:3,240人 + 天下諸大名使節団(数百名が城門前へ集結)
・共同統治体制:一馬・千代による行政分業体制を正式確認(一馬=都市建設・技術統括/千代=行政・外交統括)
・都市機能:自律循環型神都(稼働中)
・外交体制:諸国使節団の受け入れ準備開始
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【第一章最終目標:天下諸大名と協議し、戦ではなく『暮らし』による天下泰平の仕組みを確立せよ】
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