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第31話:実家の正式降伏と、新しい主従関係

第31話:実家の正式降伏と、新しい主従関係


 鳴神役所の大広間。


 畳敷きの広間の中央に正座させられていたのは、かつて一馬を「無能」と罵り追放した実父・橘当主と、長男・橘宗馬だった。二人は粗末な麻布の小袖を着せられ、手足の震えを必死に抑え込んでいた。背後には太刀を抱えて静かに佇む源蔵と、天井の梁から冷徹な眼光を落とす篝。そして上座には、白銀の陣羽織を纏った千代と、いつもの作務衣姿の一馬が座っていた。


 「……殺せ」


 宗馬が唇を噛み切り、血を滲ませながら絞り出した。


 「三千の全軍を失い、敵の城門の前で飯を乞うたなど……武士として最大の恥辱! 我が首を刎ね、見せしめとして城下に晒すがいい!」


 当主も目を伏せ、覚悟を決めたように深く首を垂れた。


 「……一馬よ。お前を荒野へ追放した我が不明、いまさら弁解するつもりはない。……当主である儂の首一つで、橘の城下の者たちと領民だけは見逃してくれまいか。橘領には、山間の三十二村と二つの宿場町がある。戸数にして約六千。人口は、およそ二万七千……」


 張り詰める大広間の空気。二人は処刑を、あるいは凄惨な復讐を覚悟していた。


 だが――一馬は深くため息をつき、温かい麦茶の湯呑みを二人の前にトン、と置いた。


 「父上、兄上。首なんて刎ねるわけないでしょ」


 「……なっ!?」


 宗馬が目を見開いた。


 「ば、馬鹿にするな! 謀反人を許すなど、領主としてあり得ん! 情けをかける気か!?」


 「情けじゃないよ。『無駄だから』だよ」


 「……無駄、だと……?」


 「うん」


 一馬は帳面を開き、炭で橘領の地図を描き始めた。


 「父上たちを処刑して終わりにしたってさ、橘の領地にはまだ二万七千人もの領民がいるんでしょ? 指導者を殺して統治が空白になったら、領内がパニックになって、隣国の悪い豪族が攻め込んできて、民が略奪されて、結局難民がこの鳴神に何千人も押し寄せてくる。……それ、うちの現場が余計に大混乱するだけじゃん。殺して恨みの連鎖を作っても、誰も得しないんだよ。復讐なんて、一番生産性のない無駄な作業だからね。……だから、取引をしよう」


 一馬は地図の上に、太い三本の線を引いた。


 「まず第一に、軍事権の整理。父上。橘家の領主権を、今すぐ奪うつもりはないよ。ただし、軍事と徴税と治水については、鳴神の監督を受けてもらう。領民を守れない領主に、好き勝手な行政権を持たせるわけにはいかないから。軍を全部鳴神で管理するわけじゃないよ。村には村の番所。町には町の警備隊。街道には街道警備。鳴神が全部の仕事を抱え込んだら、こっちが潰れる。橘領の各村から信用できる人を選んで、治安組織を再編する。鳴神はその教育と監査をする。直接支配ではなく、標準化だよ。僕が全部やるんじゃない。仕組みを作って、現地の人に回してもらうんだよ」


 「……っ!」


 「第二に、鳴神スタンダードの導入。橘領内のすべての水田に暗渠排水を敷き、用水路を繋ぎ直し、鉄心工房の規格農具を配備する。年貢の七割掛けなんて狂った重税は、段階的に引き下げる。いきなり三割にする。……本当に大丈夫なのですか? 大丈夫じゃないから、段階的にする。まず今年は五割。来年は四割。排水と農具と肥料が整った地域から三割まで下げる。税率だけ下げて行政が破綻したら意味がないからね。税を下げるんじゃなくて、税を下げても回る生産構造を先に作るんだよ。いきなり収穫量が三倍になるわけじゃないよ。まず排水不良による収量損失を減らす。次に肥料。その次に品種改良と輪作。収量を三倍にするんじゃない。今ある生産能力を、捨てている分から回収するんだ。生産量そのものが上がれば、税率が下がっても、橘家に入ってくる絶対的な税収は以前より増える。……算術の基本だよ」


 一馬のあまりに淀みない経済論理に、当主が息を呑んだ。


 「そして第三に――」


 一馬は父と兄を真っ直ぐ見据えた。


 「父上と兄上には、橘領の『現地行政官』として、その土地の開墾と民の生活向上のために、死ぬ気で働いてもらう。……領民を飢えさせない仕組みを作るまで、贅沢も身内の贔屓も絶対に許さないからね」


 「……一馬殿。本当に、この二人を行政に残すおつもりですの?」


 千代が静かに尋ねた。


 「うん」


 「以前の彼らの統治を考えれば、危険では?」


 「だからこそ、監督するんだよ。権力を取り上げて終わりにしたら、二人は何も学ばない。でも、自分たちが壊した土地を、自分たちの手で立て直させたら……毎日、自分たちの失敗を見ることになる。それは罰ですか? 罰じゃないよ。再教育だよ。父上と兄上には決裁権を持たせない。現地の仕事をして、報告書を上げてもらう。最終決裁は鳴神役所と現地の代表者で行う。元領主だから偉いんじゃない。経験があるから現場要員として使うんだ」


 「な……な……っ!?」


 宗馬が絶句し、当主は震える手で畳を掴んだ。処刑されるよりも重く、しかしこれ以上なく合理的で、どこまでも民の命を救うための判決。一馬は復讐のために実家を奪ったのではない。腐敗し機能不全に陥っていた実家の統治システムを、「自らの手で解体し、豊かに暮らせる新しい行政組織へと再構築」したのだ。


 「父上、橘領にも役所を作る」


 「……役所?」


 「村ごとに記録を取る。人口、田畑、井戸、水路、収穫量、病人、出生、死亡。全部記録する」


 「そんなものを、なぜ……」


 「数字が分からなければ、問題が起きても直せないから。僕は人を支配したいんじゃない。問題を見つけて、直せる街を作りたいんだよ。ただし、僕が橘領の農業を全部知ってるわけじゃない。村ごとに一番田んぼを知ってる人を集める。水利に詳しい人、土に詳しい人、鍛冶に詳しい人、帳簿を付けられる人。それぞれに担当してもらう。僕は設計する。でも、現場を動かすのは現場の人だよ」


 「……一馬よ」


 当主の目から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。


 「儂は……儂は、とんでもない神童を……日ノ本の宝を、無能と見誤って捨てたのだな……。許してくれ……許してくれ……!」


 当主が床に額を擦り付けて号泣し、宗馬も膝をついて肩を震わせた。


 「ふう……これで実家の話も片付いたね」


 一馬が笑ってお茶をすすると、隣で一部始終を見ていた千代が、感嘆の吐息を漏らした。


 「……見事ですわ、一馬殿」


 「え? そう?」


 「ええ。首を刎ねるより遥かに安全に、橘領の広大な土地と二万七千の民を、一滴の血も流さず鳴神の保護・監督下に置いてしまいましたわ。……これで橘本家は、名実ともに鳴神の保護・行政監督下に入りました」


 千代が誇らしげに胸を張る横で、源蔵も満足そうに頷いていた。


 「御屋形様の御采配、真の王道にござる」


 こうして、第1話から続いた実家との因縁は、完全なる「統治改革」という形で幕を閉じた。


 ――だが、安堵したのも束の間。


 「……さて、千代さん」


 一馬は立ち上がり、腕をまくった。


 「実家の統治も決まったし、本番はここからだよ。外にいる二千九百人の元兵士たちと、鳴神の三千二百四十人が使う……【便所と下水の大突貫工事】を始めるぞ!!」


 「ええ! 今度こそ、徹底的に街の衛生基盤を作り上げますわよ、一馬殿!!」


 「……一馬殿。三千人以上の人間が暮らす街です。さぞかし大変でしょうね」


 千代が呟く。一馬はしばらく黙って街を見下ろした。


 「うん」


 「……?」


 「戦争に勝つより、こっちの方が大変だよ」


 「え?」


 「三千人分のご飯は鍋を増やせばいい。でも――」


 一馬は街の向こうに並ぶ長屋を指差した。


 「三千人分の排泄物は、勝手に消えてくれないからね」


 千代が固まる。


 「……そこですの?」


 「そこだよ」


 一馬は真剣な顔で帳面を開いた。


 「水道、便所、排水、汚物処理、堆肥化。ここを失敗すると、疫病が来る。戦争は終わった。でも、都市建設はこれからが本番だよ」


 実家を監督下に置き、数万の勢力へと拡大した鳴神。しかし一馬の視線は、天下の権力ではなく――三千人が健康に暮らすための「循環型都市インフラ」の現場へと真っ直ぐに向けられていた。


 一馬は帳面を開き、炭を走らせた。


――――――――――――――――――――

【鳴神開拓記録:三百六十一日目】

・鳴神常住人口:3,240人

・鳴神滞在者:約30人

・橘領人口:約2万7千人(暫定調査)

・統治:橘本家が降伏。鳴神による保護・行政監督体制へ移行

・軍事:橘本軍を解体。各村の治安組織を再編し、鳴神が訓練・監査

・行政:橘領各村の人口・農地・水利・収穫量の調査開始

・税制:過重年貢を段階的に縮小。農業生産力の回復と連動して減税

・農業:暗渠排水・用水路・規格農具の導入計画を策定

・人材:父・宗馬を現地行政官として配置。ただし決裁権は鳴神役所の監督下

・次期工事:三千人都市の便所・排水・汚物処理・堆肥化システム

――――――――――――――――――――

【本日の反省:領地を奪うだけでは、何も解決しない。人・土地・水・税・治安を一つの仕組みとして再設計せよ】

【現在の目標:三千二百四十人が安全に暮らせる衛生インフラを完成させよ】

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