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第17話:手も足も出ない実家の騎馬隊

第17話:手も足も出ない実家の騎馬隊


 夜の冷気が張り詰める、鳴神の丸太柵の前。


 橘家の騎馬隊長・陣内は、手綱を引き絞ったまま、額から冷たい汗を流して動けずにいた。監視台の篝火が、防壁の足元を明るく照らし出している。闇を昼に変えるほどではない。だが、少なくとも「どこに何人いるか分からない」という夜襲最大の利点を消すには十分だった。柵の隙間、直角に曲がる狭い進入路、水門で泥濘化した足元。そして、監視台の上から無言で見下ろす源蔵の抜き身の長刀と、白銀に輝く白金家の旗印――。


 「……隊長、どうされますか」


 副長が声を潜めて尋ねる。陣内は唇を噛み締めた。馬を突入させれば、狭い通路で足を取られ、上から狙い撃ちにされる。かといって徒歩で泥濘地を渡れば、鳴子に引っかかり、闇に潜む忍びに一人ずつ無力化されるだけだ。深い堀を掘ったわけではない。新田の排水路を調整し、街道脇の低地だけを意図的に湿らせたのだ。馬の蹄が沈み、騎馬隊の速度を奪うには、それで十分だった。


 そこへ――丸太柵の通用口から、作務衣姿の一馬が湯呑みを手にしてひょっこり顔を出した。


 「あのさ、陣内さん」


 「な……橘一馬……!?」


 「帰ってくれるなら、誰も怪我しなくて済むよ」


 一馬は湯呑みから立ち上る湯気を見つめながら、心底困ったように言った。


 「貴様……! この落ちこぼれの三男坊が、本家の騎馬隊を愚弄しているのか!!」


 「愚弄なんてしてないよ。たださ……」


 一馬は街道と周囲の泥濘地を指差して、淡々と事実を告げた。


 「三十人でここを力づくで攻めるより、大人しく帰って本家に報告した方が、あんたたちにとって絶対に得だと思うだけだよ。……冷静に見回してみてよ。ここ、攻めるための道がないでしょ?」


 「ぐっ……!」


 「無理に攻めて馬を失って、白金家と大戦争になって、もし勝てたとしても水路が壊れて米も温泉も手に入らない。……そんな損な戦い、現場の指揮官として割に合わないでしょ?」


 陣内は息を呑んだ。怒鳴り散らすわけでも、勝ち誇るわけでもない。ただ「損得」と「物理的な構造」を突きつけられ、完全にぐうの音も出ない。


 「千代さんも中にいるからね。千代さんが白金家の正式な使節として滞在している以上、ここを攻めたら、橘家が白金家に喧嘩を売ったことになるんじゃない? ……今夜は寒いし、お互い温かいところで寝ようよ」


 一馬がお茶を一口すする。そのあまりに隙のない自然体と、背後に控える源蔵の威圧感に、陣内はついに馬首を巡らせた。


 「……退くぞッ! 全軍、反転!」


 ドカドカと地響きを立てて、三十騎の騎馬隊が夜の街道を逃げるように走り去っていった。


 「ふう……よかった。誰も怪我しなくて」


 一馬が安堵の息を吐くと、柵の陰から出てきた千代が、呆れたように深々とため息をついた。


 「……本当に、貴方という人は。あれだけの騎馬隊を前にして、湯呑み片手にお茶を飲みながら説得するなんて……」


 「だってお茶が冷めちゃうと美味しくないからね。……さて、千代さん!」


 「な、何ですの、急に改まって」


 一馬は腕をまくり、真剣な顔で言った。


 「敵が帰ってくれたから、本番はここからだよ。十五人分の寝床と、増設分の便所と、明日の朝飯の準備だ! 十兵衛さん、源助さん、夜勤になっちゃうけど手伝って!」


 「「ははーーっ!!」」


 「……はぁ。本当に、この男の頭の中には『暮らし』しかありませんのね」


 千代はぽつりと呟き、夜空を見上げて小さく笑った。だがその瞳には、かつて見たどの武将よりも頼もしい光が一馬の背中に映っていた。


 「源蔵さん。殺すのは最後の最後だよ。俺たちが守りたいのは、敵を倒したっていう記録じゃない。明日の朝、みんなが普通に飯を食べられることだから」


 源蔵は静かに頷いた。


 「……なるほど。戦わずして暮らしを守る、ということか」


 工事現場でも同じだけど、事故が起きてから人を助けるんじゃ遅い。事故が起きる前に、そもそも危ない場所へ人が行かないようにする。防衛だって同じだよ。敵を倒す仕組みではなく、①見つける→②近づけない→③逃げる→④話す→⑤最後だけ戦う。安全な暮らしは、偶然ではなく設計する。


 ――そして、翌日の昼。


 橘本家の本城・大広間。


 「――な、何だとッ!?」


 逃げ帰った陣内と、以前追い返された茂蔵の報告を聞いた当主(父)と長男・宗馬は、あまりの衝撃に立ち上がった。


 「死の魔境に、丸太の防壁と泥濘地ができているだと!?」


 「一刀流の老剣豪に、気配すら探れぬ忍び……!?」


 「さらに白金家の千代姫が正式な使節として滞在し、旗を掲げている……!?」


 「泥沼だったはずの大地から、黄金色の新米が収穫された……だと!?」


 次々と読み上げられる報告は、当主と宗馬にとって悪夢以外の何物でもなかった。無能と蔑み、厄介払いとして死地に追放したはずの三男・一馬。彼がわずか数ヶ月で築き上げていたのは、手を出せば大国との戦争の引き金になり、力づくで攻めれば手痛い損害を受ける「誰もが安易に手が出せない自立の土地」だったのだ。


 「おのれ……! あの出来損ないめが、他国の威を借りて調子に乗りおって……!」


 宗馬が顔を真っ赤にして刀の柄を握りしめた。


 「父上! 今すぐ本隊五百を動かし、あの小僧を捕縛して鳴神の富をすべて接収いたしましょう!」


 「……馬鹿者がッ!!」


 当主の怒声が広間に轟いた。


 「ち、父上……?」


 「白金家の姫が滞在しているのだぞ! 今攻め込めば、白金領との全面戦争になる! それに……陣内の報告を聞かなかったのか!? 狭い進入路に泥濘地、一刀流の達人と忍びがおるのだぞ! 五百の兵を突入させて、どれほどの損害が出ると思うておるのだ! 五百を鳴神へ送れば、五百人を食わせる米が要る。道中の荷駄も要る。冬ならなおさらだ。白金家との戦になる可能性まで考えれば、五百では済まぬ。……お前は戦を始める費用を計算したのか?」


 当主は青ざめた顔で額を押さえ、震える声で命じた。


 「……橘一馬を、ただの追放者と思うな。奴との関係を……今すぐ、根本から見直さねばならん。力で奪えぬなら、別の手で繋ぎ止める道を探すのだ……」


 第1話で「無能」と捨てられた青年。その青年が、いまや本家が頭を下げて交渉せざるを得ない「一大勢力の主」として、乱世の表舞台にその存在を刻みつけていた。


 ――その頃、鳴神では。


 「よし! 千代さんたちの仮住まいと、増設した二基の便所、完成だ!」


 一馬が汗を拭いながら、新しく建てられた長屋を見上げて笑っていた。本家が恐れ慄いていることなど露知らず、一馬の関心はすでに「迫り来る冬を、鳴神に現在滞在する二十一人全員でどう暖かく越すか」という現場の課題に注がれていた。


 「便所は増やした。でも、これだけ人数が増えたら、今度は汲み取りと処理の仕組みを考えないと……」


 一馬は帳面に新しい項目を書いた。


 『次の課題:人口増加に合わせた衛生設備の再設計』


 戦よりも先に、こちらの方が急務だった。人数が増えたから、混浴のままだと落ち着かない人もいるよね。女性専用時間帯の運用も始めた。


 「……戦争って、始まってから考えるんじゃ遅いんだよね」


 一馬は新しく建った長屋と、四基の便所、そして暗闇の中で静かに燃える篝火を見渡した。


 「誰かが怪我する前に、怪我しない仕組みを作る。誰かが飢える前に、食料を備える。誰かが攻めてくる前に、攻めても得しない街にする」


 一馬は帳面に、今日最後の一行を書き込んだ。


 『安全な暮らしは、偶然ではなく設計する』


 「……よし。明日は水路と便所の配置を見直そう」


 戦国の世を揺るがす防衛の仕組みが生まれつつあるというのに――。一馬が考えていたのは、明日の朝飯と排水のことだった。


 一馬は帳面を開き、新たな記録を書き留めた。


――――――――――――――――――――

【鳴神開拓記録:百三十四日目】

・現在人口:21人

 └ 鳴神常住:6人

 └ 白金領滞在団:15人

・居住区:仮設小屋+増設長屋一棟

 └ 千代一行の居住区画を確保

 └ 女性用居住・入浴時間を分離

・水利:炭砂ろ過井戸+新田用水路

・衛生設備:共同便所4基

 └ 人口増加に伴い、汲み取り・堆肥化方式を検討

・防衛・安全設備:鳴神早期警戒網

 └ 丸太柵・クランク状進入路・簡易監視台・鳴子警報網・周辺湿地の進入阻止利用・避難区画

・対外状況:橘本家騎馬隊30騎の夜間侵入を無血阻止

・外交:白金領との相互協力関係を継続(千代姫一行が鳴神に滞在)

――――――――――――――――――――

【本日の反省:防衛とは、敵を倒すことではない。敵を早く発見し、近づけず、住民を安全な場所へ退避させ、それでもなお必要な場合だけ戦うこと】

【現在の目標:人口21人規模に合わせ、給水・排水・便所・食料・薪・住宅の再設計を行う。白金領との本格交易を開始し、冬を越すための食料・薪・資材を確保せよ】

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