第15話:魔境を見に来た姫君、温泉に驚く
第15話:魔境を見に来た姫君、温泉に驚く
文蔵との交易から一月ほど経ち、山々の木々が色づき始めた初冬の午後。
「――若殿。街道より、ただならぬ気配の一団が近づいて参ります」
木の上から音もなく舞い降りた篝が、静かに報告した。源蔵もすでに作業用の鉈を置き、腰の長刀の柄に手を添えて街道の先を鋭く見据えている。
やってきたのは、黒塗りの見事な早馬に乗った十数名の武者たちだった。商人ではない。身に着けている甲冑の仕立てや佩刀からして、相当な身分の領主直属の精鋭部隊だ。
その先頭で馬を止めたのは――。白銀の陣羽織を風になびかせ、艶やかな黒髪を後ろで束ねた、凛々しい美少女だった。年の頃は十七、八。抜けるように白い肌に、勝気で知性的な切れ長の瞳。腰には豪奢な細太刀を佩いている。
「……ここが、鳴神か」
少女は馬上から周囲を見渡し、信じられないものを見るように息を呑んだ。
「死の魔境と聞いていたが……この整然と区画された水田と、澄んだ水路は何だ……? 本当に、追放された落ちぶれ若君が一人で拓いたというのか……?」
「あ、こんにちは! お客さん?」
泥のついた作務衣姿の一馬が、柄杓を手にしてひょっこり現れた。
「な……ッ!?」
少女の護衛たちが一斉に刀の柄に手をかけた。しかし――。
スッ……。
源蔵が一歩前に進み出た瞬間、護衛たちの馬が怯えて棹立ちになった。さらに、少女の頭上の枝に音もなく篝がしゃがみ込み、冷たい切先を護衛の頭上に向けている。
「ひ、一刀流の使い手に……忍びだと……!?」
「皆、控えよ!」
少女が凛とした声で護衛を制し、軽やかに馬から降り立った。そして、一馬の前に進み出ると、優雅に一礼した。
「初めにお目にかかります、橘一馬様。私は隣国・白金領の領主代理を務めております、千代と申します。先代当主である父君が病に伏せられ、嫡子である私が政務を代行しております」
「千代さんね。俺は一馬。……遠くからわざわざどうしたの?」
「……商人たちから噂を聞いたのです。『死の魔境・鳴神に、神仏の霊泉が湧き、黄金の米が実る奇跡の都ができつつある』と。我が領は度重なる冷害と凶作で民が飢えに苦しんでおります。まことの理を確かめに、こうして直々に参りました」
千代の瞳には、領民を背負う者としての張り詰めた覚悟が宿っていた。しかし、一馬は腕を組んで呑気に笑った。
「そっかぁ、遠くから大変だったね。山道で体も冷えたでしょ? ……あっちに温泉があるから、入っていく?」
「…………は?」
千代の凛々しい顔が、ポカンと間抜けに緩んだ。
「お、温泉……? 貴方、自分が他国の領主代理と対峙していることが分かっていますの!? これは外交の場ですぞ!」
「外交も何も、寒いでしょ? 十兵衛さんが作った脱衣所もあるし、源助さんが湯加減を最高にしてあるからさ。護衛の人たちも、交代で入っておいでよ」
「な……な……っ!?」
千代は警戒心を露わにしながらも、立ち上る心地よい硫黄の香りと、一馬のあまりに裏表のない笑顔に毒気を抜かれ――結局、護衛に周囲を警戒させつつ、湯小屋へと向かうことになった。
――半刻後。
湯小屋から出てきた千代は、先ほどまでの刺々しさが嘘のように、頬を桜色に染めていた。
「……な、何なのですか、あの湯は……」
千代は濡れた髪を手拭いで押さえながら、放心したように呟いた。
「身体の芯まで温まって、山越えで凝り固まっていた肩や腰まで、ずいぶん楽になりました……。あれほどの湯、我が城下にもございません……」
「温泉だからね。熱いお湯にゆっくり浸かると、血の巡りも良くなるし、疲れた筋肉もほぐれるよ。霊泉……って言われても、たぶん地下の熱と鉱物が溶け込んだ温泉だと思うよ。まあ、気持ちいいから細かいことはいいけど」
「これほどの湯が……毎日?」
「うん。はい、これどうぞ」
一馬が差し出したのは、竹の皮に包まれた炊き立ての鳴神米のおにぎりと、温かい蕎麦茶だった。
「こ、これは……」
千代が恐る恐る口に運ぶ。次の瞬間、彼女の大きな瞳がカッと見開かれた。
「……っ!! あ、甘い……! 何という瑞々しさ……! この米も、あの水田で穫れたものなのですか!?」
「うん。今年の初収穫だよ。美味い飯食って、温かい風呂に入れば、大抵の悩みは軽くなるからね」
「…………」
千代は手元のおにぎりをじっと見つめた。彼女の領地では、冷害と重税で民が痩せ細り、侍たちは奪い合いに明け暮れている。だが、この鳴神では、追放された無能と蔑まれていた青年が、泥を抜き、水を引いて、民が笑顔で腹一杯食える場所を作り上げていた。
千代は深々と息を吸い、姿勢を正して一馬を見据えた。
「一馬様。私は、貴方にお願いがあって参りました」
「お願い?」
「千代さん。白金領は、具体的にどれくらい米が必要なの?」
「……今年だけで申し上げれば、三千俵ほど不足しております」
「三千俵……」
一馬の顔から笑みが消えた。
「それ、鳴神だけじゃ無理だね」
「……やはり」
「でも、来年から白金領でも米を作れるようにすればいい。米を売るだけじゃなくて、田を作る方法そのものを教える。水路、畦、種籾、肥料。全部まとめて。その方が、千代さんの領民がずっと楽になるでしょ?」
千代が目を見開く。
「……貴方は……」
千代は真剣な眼差しで、深く頭を下げた。
「――鳴神の米と農具を、我が白金領と交易していただきたいのです。我が領の特産である良質な絹と木材、そして銀を対価としてお納めいたします。……どうか、飢える我が領民を救うために、貴方の力を貸してはいただけないでしょうか」
それは、支配や強奪ではなく、対等な「経済同盟」の申し出だった。白金領には銀山がある。しかし、鉱山はあっても米がない。銀を掘り出しても、隣領から米を買わねば民は生きられぬ。食料はあるが金属資源が不足している鳴神と、資源はあるが食料がない白金領の補完関係になる。
その言葉の直後、木の上から篝が音もなく姿を現した。
「若殿。……この姫君、少なくとも民を救いたいという言葉に偽りはないようです」
「篝ちゃんのお墨付きなら安心だね。もちろんいいよ、千代さん! 絹や木材があるなら、もっと暖かい家が建てられるし――」
一馬が笑顔で手を差し伸べようとした、その時だった。
――カラン。
源蔵の刀の鯉口が、冷たく切られた。
「……若殿。少々お待ちを」
源蔵は鋭い眼光のまま、千代ではなく――彼女たちがやってきた街道の遥か後方、森の尾根を睨み据えていた。
「姫君。貴殿の誠意に疑いはござらぬ。……だが、貴殿らの背後を尾けてきた『あの者たち』は、何者でござるか?」
「……え?」
千代の表情が、一瞬で凍りついた。
篝が目を細める。
「騎馬の蹄跡が街道から外れている。しかも、千代殿一行のものとは数が合わぬ。……三十騎ほど。一定の距離を保ち、こちらの警戒範囲外を移動しております」
森の木々の隙間。そこには、千代たちの足取りを追って鳴神の境界まで迫っていた、実家・橘家の旗印を掲げた数十騎の武装騎馬隊が、ギラギラとした欲望の目を光らせていた――。
一馬は、街道の向こうに並ぶ騎馬隊を見つめた。
「……三十人か」
源蔵が刀の柄に手を添える。
「御意。多勢にござる」
「うん」
一馬は少し考えた。
「じゃあ、まず道を作ろう」
「…………は?」
「あ、違う。正確には――」
一馬は地面にしゃがみ込み、炭で街道の地図を書き始めた。
「敵が通りたくなくなる道を作るんだよ」
源蔵、篝、鉄心の三人が同時に一馬を見た。
「城壁を作るより、水路と道を使った方が安い。ここは元々湿地だったんだ。だったら……鳴神そのものを、巨大な防衛設備にすればいい」
篝の口元が、ほんの僅かに上がった。
「……なるほど」
源蔵も静かに笑う。
「またしても、若殿は刀を抜かずに戦を始められるか」
一馬は帳面を開き、新たな記録を書き留めた。
――――――――――――――――――――
【鳴神開拓記録:百三十日目】
・開拓人口:6人(健康状態:全員良好)
・居住区:仮設小屋(排煙竈・炭砂ろ過井戸 稼働中)
・施設:鳴神温泉・第一号湯(脱衣所完備・湯治稼働)
・農地:開墾済 約1町歩(新米・蕎麦・保存食備蓄完了)
・外交:【白金領・千代姫との交易同盟・交渉開始】
└ 相手側提示:絹、建築用良質木材、銀
└ 鳴神側提示:鳴神米、規格農具、農業技術指導、湯治客受入れ
――――――――――――――――――――
【緊急警報:実家・橘家の斥候騎馬隊三十騎が、鳴神境界に接近中】
――――――――――――――――――――




