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いろんな人がいろんなところで

太る薬

掲載日:2026/07/04

 太る薬


「太る薬が来たぞ」


 昼休みになると、営業課長がお客様からのお土産を持って帰ってきた。


 取引先からいただいたどら焼きだった。


「課長、それ薬じゃなくてお菓子でしょう」


「違う違う。これは太る薬だ。効き目は抜群だぞ」


 課長は笑いながら一人一つずつ配った。


 二十二歳だった私は、甘いものが大好きだった。


 どら焼きを二つ食べても体重は変わらない。仕事が終われば同期とラーメンを食べ、休日は、彼女とケーキバイキングへ行く。それでも健康診断では「やせ気味」と書かれていた。


「課長、この薬、全然効きませんよ」


 そう言うと、課長は豪快に笑った。


「そうか? この薬は遅効性なんだ」


 その場にいた全員が笑った。




 それから四十年が過ぎた。


 定年を迎え、朝の散歩を日課にしている。


 食が細くなって食べる量は減った。なのに体重が増える。


 お腹を見下ろしては首をひねる。


「おかしいな……」


 この間の健康診断で医師に言われた。


「少し体重を落としましょう」


 夕食では妻が言う。


「今日はご飯を半分にしておきますね」


「若い頃は三杯食べても平気だったのにな」


 妻は笑った。


「若い頃と同じじゃ困るんですよ」


 その夜、アルバムを整理していると、写真が出てきた。


 社内報に載せる写真を庶務課が撮りに来た時の一枚だ。


 全員の机にどら焼きが乗っていた。


 真ん中には、どら焼きの箱を掲げて笑う課長。


 裏を見ると『太る薬、配布の日』とあった。


 思わず吹き出した。


「課長……」


 四十年前の声が耳によみがえる。


『太る薬が来たぞ』


 わたしは写真に向かってつぶやいた。


「課長、効きましたよ」


 もちろん、どら焼きにそんな薬効はない。


 年齢とともに代謝が落ちただけだ。


 それは分かっている。


 それでも、あの課長なら胸を張って言うだろう。


「だから言っただろう。遅効性なんだ」


 きっと今ごろ天国でも、菓子折りを抱えて歩き回り、人に配っている。


「太る薬が来たぞ」


 新人たちは笑う。


「課長、全然効きませんよ」


 課長はいつもの笑顔で答える。


「安心しろ。四十年後に効く」


 わたしは写真立てにその一枚を飾った。


 毎朝、その前を通るたびに笑ってしまう。


 人生には、本当に効く薬と、心に効く薬がある。


 あの日のどら焼きは、きっと後者だった。


 食べた甘さは一日で消えた。


 だが、課長の冗談は四十年たった今でも、私を笑顔にしてくれるのだから。




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― 新着の感想 ―
こんにちは。 なんという温かくもほろ苦い話。 読んだ後、小説を読んでいるような気分になりました。
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