太る薬
太る薬
「太る薬が来たぞ」
昼休みになると、営業課長がお客様からのお土産を持って帰ってきた。
取引先からいただいたどら焼きだった。
「課長、それ薬じゃなくてお菓子でしょう」
「違う違う。これは太る薬だ。効き目は抜群だぞ」
課長は笑いながら一人一つずつ配った。
二十二歳だった私は、甘いものが大好きだった。
どら焼きを二つ食べても体重は変わらない。仕事が終われば同期とラーメンを食べ、休日は、彼女とケーキバイキングへ行く。それでも健康診断では「やせ気味」と書かれていた。
「課長、この薬、全然効きませんよ」
そう言うと、課長は豪快に笑った。
「そうか? この薬は遅効性なんだ」
その場にいた全員が笑った。
それから四十年が過ぎた。
定年を迎え、朝の散歩を日課にしている。
食が細くなって食べる量は減った。なのに体重が増える。
お腹を見下ろしては首をひねる。
「おかしいな……」
この間の健康診断で医師に言われた。
「少し体重を落としましょう」
夕食では妻が言う。
「今日はご飯を半分にしておきますね」
「若い頃は三杯食べても平気だったのにな」
妻は笑った。
「若い頃と同じじゃ困るんですよ」
その夜、アルバムを整理していると、写真が出てきた。
社内報に載せる写真を庶務課が撮りに来た時の一枚だ。
全員の机にどら焼きが乗っていた。
真ん中には、どら焼きの箱を掲げて笑う課長。
裏を見ると『太る薬、配布の日』とあった。
思わず吹き出した。
「課長……」
四十年前の声が耳によみがえる。
『太る薬が来たぞ』
わたしは写真に向かってつぶやいた。
「課長、効きましたよ」
もちろん、どら焼きにそんな薬効はない。
年齢とともに代謝が落ちただけだ。
それは分かっている。
それでも、あの課長なら胸を張って言うだろう。
「だから言っただろう。遅効性なんだ」
きっと今ごろ天国でも、菓子折りを抱えて歩き回り、人に配っている。
「太る薬が来たぞ」
新人たちは笑う。
「課長、全然効きませんよ」
課長はいつもの笑顔で答える。
「安心しろ。四十年後に効く」
わたしは写真立てにその一枚を飾った。
毎朝、その前を通るたびに笑ってしまう。
人生には、本当に効く薬と、心に効く薬がある。
あの日のどら焼きは、きっと後者だった。
食べた甘さは一日で消えた。
だが、課長の冗談は四十年たった今でも、私を笑顔にしてくれるのだから。




