五月が終わっても、まだしんどいあなたへ
静かな時間の中で読んでいただければ嬉しいです。
六月の朝は、音が少ない。
雨にはならない曇り空で、光だけがぼんやりと広がっている。
駅までの道は毎日通っているのに、今日はどこか薄い膜がかかったみたいに遠い。
佐藤は改札を抜けると、いつもの位置に立った。ホームの端。白線の手前。
電車まで、三分。
スマートフォンを開く。ニュースを眺めているふりをしているが、
内容は頭に入ってこない。指は止まったまま、画面だけが勝手に暗くなっていく。
四月に入社して、二ヶ月。
朝、目が覚める。先に思い出すのは仕事で、そのあとに胃が痛くなる。
玄関で靴を履くとき、少し動きが鈍くなる。駅まで歩く途中で呼吸が浅くなる。
でも会社に近づくと、また同じ重さが戻る。
それを繰り返して、二ヶ月。
「慣れた?」と聞かれるたびに、背中のどこかが固まった。
メールを開くたび、自分宛ての指摘が増えていた。昨日も先輩に謝った。
何について謝ったのか、もう思い出せない。
白線の内側に足を揃えたまま、線路を見ていた。
今日は行けるだろうか。問いは浮かぶのに、答えは出てこない。
隣に人が立った。
年配の男だった。スーツの肩が少し濡れていて、靴の先に泥が残っている。
しばらく、何も言わない。電光掲示板が切り替わる音だけがする。
「顔色、悪いね」
不意に言われて、佐藤は口だけで笑った。うまく笑えていないのが、自分でも分かる。
「……そうですか」
「うん」
それで終わるような声だった。男は線路を見たまま動かない。
風が少し強くなる。
「行かなきゃって思うと、余計に足が重くなる」
男はそれだけ言って、少し間を置いた。
「昔ね、同じようにここで止まってたことがある」
「……はい」
「毎日じゃないけど、来ては立って、また考えて」
男はポケットを探り、何も見つからなかったように手を引っ込めた。
「結局、辞めたよ」
あっさりした口調だった。
電車の接近ベルが鳴る。
「後悔しましたか」
自分の声が少し乾いている。
男はすぐには答えなかった。向こうの信号が変わるのを見ている。
「……したな」
ややあって、そう言った。
「でも、続けててもしてたと思う」
風がまた吹く。遠くから電車が近づいてくる。
「まあ」
男は少しだけ笑った。
「しんどいときは、しんどいままだよ」
扉が開く。人が一斉に動く。
男はその流れに入った。乗る直前、ほんの一瞬だけ足を止めたが、
こちらを見ることはなかった。何か言いかけたようにも見えたが、そのまま車内へ消えた。
扉が閉まる。電車が走り出す。音が遠ざかる。
次の電車まで、五分。
佐藤は白線から、ゆっくり一歩下がった。
近くのベンチに座る。膝の上で組んだ手が、わずかに震えている。
スマートフォンを取り出す。上司の名前を開く。閉じる。もう一度開く。
短い文章を打つ。
「本日、体調不良のためお休みをいただけますでしょうか」
送信ボタンの上で指が止まる。数秒。それでも押した。
画面が静かになる。すぐに返信は来ない。
息を吸う。さっきより、少し深く入る。吐く。
顔を上げると、景色の輪郭が少しはっきりしていた。
次の電車が入ってくる。人が降りる。人が乗る。扉が閉まる。電車が走り去る。
その流れを、ただ見ていた。
今日は、行かない。
それだけだった。
「今日は行かない」という小さな決断が、誰かの明日を守ることもある。
そんな願いを込めて、この短い朝を書きました。




