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五月が終わっても、まだしんどいあなたへ

掲載日:2026/06/16

静かな時間の中で読んでいただければ嬉しいです。

六月の朝は、音が少ない。


雨にはならない曇り空で、光だけがぼんやりと広がっている。

駅までの道は毎日通っているのに、今日はどこか薄い膜がかかったみたいに遠い。


佐藤は改札を抜けると、いつもの位置に立った。ホームの端。白線の手前。


電車まで、三分。


スマートフォンを開く。ニュースを眺めているふりをしているが、

内容は頭に入ってこない。指は止まったまま、画面だけが勝手に暗くなっていく。


四月に入社して、二ヶ月。


朝、目が覚める。先に思い出すのは仕事で、そのあとに胃が痛くなる。

玄関で靴を履くとき、少し動きが鈍くなる。駅まで歩く途中で呼吸が浅くなる。

でも会社に近づくと、また同じ重さが戻る。


それを繰り返して、二ヶ月。


「慣れた?」と聞かれるたびに、背中のどこかが固まった。

メールを開くたび、自分宛ての指摘が増えていた。昨日も先輩に謝った。

何について謝ったのか、もう思い出せない。


白線の内側に足を揃えたまま、線路を見ていた。


今日は行けるだろうか。問いは浮かぶのに、答えは出てこない。


隣に人が立った。


年配の男だった。スーツの肩が少し濡れていて、靴の先に泥が残っている。


しばらく、何も言わない。電光掲示板が切り替わる音だけがする。


「顔色、悪いね」


不意に言われて、佐藤は口だけで笑った。うまく笑えていないのが、自分でも分かる。


「……そうですか」


「うん」


それで終わるような声だった。男は線路を見たまま動かない。


風が少し強くなる。


「行かなきゃって思うと、余計に足が重くなる」


男はそれだけ言って、少し間を置いた。


「昔ね、同じようにここで止まってたことがある」


「……はい」


「毎日じゃないけど、来ては立って、また考えて」


男はポケットを探り、何も見つからなかったように手を引っ込めた。


「結局、辞めたよ」


あっさりした口調だった。


電車の接近ベルが鳴る。


「後悔しましたか」


自分の声が少し乾いている。


男はすぐには答えなかった。向こうの信号が変わるのを見ている。


「……したな」


ややあって、そう言った。


「でも、続けててもしてたと思う」


風がまた吹く。遠くから電車が近づいてくる。


「まあ」


男は少しだけ笑った。


「しんどいときは、しんどいままだよ」


扉が開く。人が一斉に動く。


男はその流れに入った。乗る直前、ほんの一瞬だけ足を止めたが、

こちらを見ることはなかった。何か言いかけたようにも見えたが、そのまま車内へ消えた。


扉が閉まる。電車が走り出す。音が遠ざかる。


次の電車まで、五分。


佐藤は白線から、ゆっくり一歩下がった。


近くのベンチに座る。膝の上で組んだ手が、わずかに震えている。


スマートフォンを取り出す。上司の名前を開く。閉じる。もう一度開く。


短い文章を打つ。


「本日、体調不良のためお休みをいただけますでしょうか」


送信ボタンの上で指が止まる。数秒。それでも押した。


画面が静かになる。すぐに返信は来ない。


息を吸う。さっきより、少し深く入る。吐く。


顔を上げると、景色の輪郭が少しはっきりしていた。


次の電車が入ってくる。人が降りる。人が乗る。扉が閉まる。電車が走り去る。


その流れを、ただ見ていた。


今日は、行かない。


それだけだった。



「今日は行かない」という小さな決断が、誰かの明日を守ることもある。

そんな願いを込めて、この短い朝を書きました。

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