第3話:水抜きと斜面安定
僕は塹壕の隅っこで、小さな泥山を作っている。
「……やっぱり、昨日の長手積みでも、背後の地盤が死んでたら意味がないよな」
僕はバケツの泥水を、自作のミニチュア土塁にじわりと垂らしていく。昨日の「土嚢積み改革」で物理的な壁の強度は劇的に上がった。だが、どれだけ頑丈な壁を作っても、その裏側に水が溜まれば、逃げ場を失った圧力は内側から構造を食い破る。
「おいおい、ドルト。また泥遊びか?」
通りかかった歩兵が、鼻で笑いながら声をかけてくる。
「昨日はあの妙な土嚢の積み方で曹長に褒められたからって、次は泥細工の研究か? まったく、農家のガキはこれだからなぁ。お前、そんなに暇なら俺の分のバケツも運んでくれよ!」
「……。遊びじゃないですよ。これ、構造の冗長性を維持するための大事な実験なんです」
僕が力なく言い返すと、彼らは「はいはい、ご苦労さん」と笑い飛ばして去っていく。
(……笑ってられるのも今のうちだぞ。この水の入り方……。土の粒子の隙間に水が入り込んで……)
ミニチュアの土塁が、水の重みに耐えきれず「ぐにゃり」と不気味に形を崩す。
一昨日、あの巨大ゴーレムを「液状化」で沈めた時と同じ理屈だ。それが今――――
「ドルト! 休憩終了だ、持ち場に戻れ! バケツを持ってこい!」
ゼノ曹長の怒鳴り声が響く。僕は溜息をつき、崩れた泥山をぐしゃりと無造作に踏み潰した。
――――降り続く豪雨が、最前線の塹壕を飲み込もうとしている。
止まない雨音と、遠くで響く魔導砲撃の振動が、泥濘に足を取られた兵士たちの精神を削り続けていく。
「あー、もう! このままじゃ、戦う前に泥に埋まって窒息ですよ……。不本意だ、あまりに不本意すぎる……」
僕は泥水をバケツで汲み出しながら、不満を漏らす。 一昨日、巨大ゴーレムを沈め、昨日は土嚢の積み方を改革した。それなのに、自然の猛威というやつは、僕の工期を奪うことに容赦がない。
ふと、背後の傾斜地に目を向けた瞬間、僕の脳内にある「現場監督」のセンサーが最大級の警報を鳴らす。 塹壕の背後にそびえる山の斜面が、まるで生き物のように「ぶよぶよ」と膨らみ始めているんだ。
――――2000年代、アルプス長大山岳トンネル群の突沸事故。
アルプス山脈などの大深度地下トンネル掘削において、掘削の最先端(切羽)から、突如として数千トンに及ぶ高圧の地下水と土砂が、まるで爆弾のように爆発的に噴出した事故だ。
断層や砕けた岩盤(破砕帯)の隙間に閉じ込められていた地下水は、地上の何十倍もの猛烈な間隙水圧を帯びていた。
そこへトンネルを掘り進めたことで、水圧を抑えていた最後の「土の蓋」を破ってしまったんだ。掘削した瞬間に、極限状態の水圧が土の粒子同士をバラバラにして抵抗力を一瞬でゼロにし、硬かったはずの地盤がドロドロの液体となって大爆発(ボイリング・突沸現象)を起こした。事前に「水抜き」による減圧を怠り、力任せに突っ込んだ現場が迎える最悪の結末だな。
その後、大深度トンネル工事では、掘り進める前に必ず「先進ボアホール(前方に向けた長い水抜き穴)」を何本も水平に掘り、地中の水圧を事前に安全なレベルまで低下(減圧)させることが鉄則となった。また、水圧が高い破砕帯に対しては、事前に高圧で化学薬液やセメントを注入し、土の粒子を強制的にガッチリ噛み合わせる「地盤改良工法」が確立されたんだ――――。
「おい、ドルト! 何を見てる、もっと土を盛れ! 斜面を厚くして、土砂を力で抑え込むんだ!」
ゼノ曹長が、泥まみれの部下たちに指示を飛ばしている。兵士たちは必死に重い泥を積み上げ、さらには魔導師たちが「土壁よ、強固な盾となれ」と、マナを込めて斜面を固めようとしている。
(……バカ言え! 重くしてどうする!)
僕はスコップを放り出し、曹長の前に立ち塞がる。
「曹長、止めてください! これ以上土を盛ったら、重みで滑り面が刺激されて、一気に崩れますよ!」
「何を言っている! 崩れそうだから補強するんだろうが!」
「魔法で表面を固めても無駄です。今、この山の中はパンパンに膨らんだ水風船と同じなんです。必要なのは筋肉(壁)じゃなくて、おしっこなんですよ!」
僕は曹長を突き飛ばさんばかりの勢いで、斜面へと駆け寄る。
僕の視界には、降り注いだ雨水が土の粒子の隙間に入り込み、互いを押し広げようとする間隙水圧の分布が、鮮明な警告色として浮かび上がっている。
この土質、この保水量……あと数分で、土の剪断抵抗力が限界を突破する。 そうなれば、この塹壕は数千トンの土砂に一瞬で埋め殺される。
「シギュンさ……様ぁ! どちらにいらっしゃいますか、今すぐ来てくださると助かります!」
僕の叫びに応えるように、霧の中から銀色の鎧が姿を現した。王国の上級騎士、軍閥貴族家のご令嬢でもあるシギュン様だ。「シギュンさん」などと呼ぼうものなら「俺」は「僕」の身体とおさらばしていただろう。その彼女は僕の「精密な土魔法」とは対照的な、圧倒的なマナを誇る。
「貴公、私を呼んだか? また何か突拍子もない工事を始めるつもりか?」
「説明は後です! あの膨らんでいる地点の等間隔に、風魔法で正確に穴を開けてください。深さは三メートル、角度はやや下向きで!」
シギュン様は一瞬怪訝な顔をしたが、僕の目つきを見て、無言で剣を抜いた。
「よく分からんが……貴公の『理論』を信じよう」
彼女が鋭い一閃を放つたびに、斜面に正確な「穴」が穿たれていく。
僕はその穴の内部に、微々たるマナを流し込む。
土の粒子を魔法で結合し、崩れない「筒状の通り道」――即席の水抜き穴を成形していく。
「全線、開通ッ!」
次の瞬間、穴からゴボリ、と不気味な音が響き、凄まじい勢いで泥水が噴き出した。 溜まりに溜まった地下水が、逃げ場を見つけて一気に外へと流れ出す。
「な、なんだ……!? 斜面の膨らみが引いていくぞ?」
兵士たちが驚愕の声を上げる。
パンパンに張っていた地中の圧力が抜けたことで、土の粒子同士が再びガッチリと噛み合い、山はその安息角を取り戻していく。
その直後、敵の魔導砲撃が斜面に着弾した。
本来ならその衝撃が「最後の一押し」となり、大規模な地滑りを誘発したはずだった。だが、水が抜けて引き締まった大地は、爆発のエネルギーをドッシリと受け止め、砂埃を上げるだけで微動だにしない。
「……ふぅ。安全確認、よし。とりあえず、工期遅延は回避しましたよ」
泥水でさらに汚れた軍服を払い、俺は大きくため息をつく。
「力でねじ伏せようとするから、水に裏切られるんです。通すべき場所を通してやれば、自然は味方になってくれるんですよ」
ゼノ曹長は、噴き出し続ける泥水を呆然と見つめ、「……お前は、力を使わずに山を鎮めたというのか」と、信じられないものを見るような声を出す。
シギュン様は剣を鞘に収め、泥にまみれた僕の手をじっと見つめていた。
「貴公の目は、我々が見ている世界とは違う理を見ているようだな。……ドルト、貴公という男が、少しずつ分からなくなってきた」
「不本意ですよ。僕はただ、洗濯の手間が増えるのが嫌だっただけですから」
空を見上げれば相変わらずの雨だが、足元の地盤は、昨日よりも少しだけ「安全」に近づいていた。




