第1話 支持力公式と地盤改良(改悪)
降り続く豪雨が、最前線の塹壕を底なしの泥沼へと変えていく。
「あー、腰が痛い。なんでよりによって、僕がこんな泥まみれの場所に配属されるんだ。不本意だ、あまりに不本意すぎる……」
僕は泥を跳ね上げながら、崩れかけた土壁に肩を押し当て、細い体で必死に支える。ここは王国軍と帝国軍の国境、通称「死の泥沼」。降り止まぬ雨と断続的な魔導砲撃は、この急造の陣地を物理的にも精神的にも崩壊寸前まで追い込んでいた。
僕は農家の四男坊で、実家の畑をフカフカにするために軍学校で農学を学んだだけの一兵卒に過ぎない。騎士団のような華やかさとは無縁の僕を待っていたのは、卒業と同時に始まったこの過酷な任務だった。
その時、大地が激しく震える。霧の向こうから現れたのは、帝国の巨大な岩石ゴーレムだ。放たれた攻撃魔法はゴーレムの圧倒的な質量に弾かれ、巨像が踏み出すたびに塹壕の土壁が悲鳴を上げる。逃げようにも足は泥に深く沈み、頭上からは崩落する土砂が迫る。
死の恐怖が心臓を掴んだその瞬間、僕の意識は現実を離れ、加速を始めた。視界が真っ白に染まりこれまでの記憶が逆走」を始める。
――泥にまみれ、不本意な工兵配属に明け暮れながら、実家へ仕送りを続けている絶望の最前線。
(ああ、結局僕は、卒業してから一度も実家の土を触ることもできずに、この泥の中で終わるのかな……)
――仕送りのために校舎の修繕や排水溝の掃除といった雑用に明け暮れた4年間……。
(あの時、必死に泥を掻き出し続けて作ったお金で、少しは家族を楽にさせられたんだろうか……)
――長制限150cmをギリギリでパスしたあの試験……
(まだまだこれから伸びると思ったんだけどな……)
――この痩せた土をどうにかするために、自ら一人で軍学校への入学を決めた計画的な「家出」の日……
(家族は残っていいと言ってくれたが、僕はみんなが幸せになる方法が欲しかった……)
――野山を裸足で駆け回り、真っ赤に熟した木イチゴを摘んでは口に放り込んで笑い合う日々……
(あの山の土はフカフカだった。いつか、家の畑もあんな風にしてあげたかったのに……)
――痩せた土地の農家で、新しい命として産声を上げた瞬間?
(……生まれてからずっと、泥をこねるような人生だったな……)
――すべてが白く染まる。
(……ああ、僕はここまでみたいだ……)
――雲一つない抜けるような青空に燦燦と輝くお天道様。
(もしかして、これが天国ってやつなのかな……?)
視界はその下へと急下降する。
――茹だる様な暑さの中、ヘルメットを被り、「工期がねえんだよ! 安全第一で回せ!」と現場で怒鳴り散らしている人……。
(……えっ、何これ? 誰?……このヘルメットを被って怒鳴っている人は?)
――山間の小さな町で気の強そうな人たちに罵倒されながら、泥にまみれて測量と土の性質を叩き込まれる若者……。
(……なんだか大変そう……)。
――教授が黒板に書く数式を、居眠りしながら眺めている風景……
『いいか。これが地盤の極限支持力を決定する、テルツァーギの支持力公式だ――』
不意に、泥の中に沈んでいた僕の目が、カッと見開かれる。
(……あー、思い出した。僕、あの時も泥まみれだったわ)。
覚醒した僕の視界には、単なる泥ではなく、ゴーレムの荷重によって地中に蓄積された負荷の分布が、鮮明な施工図面のように重なって見えていた。
(支持力が足りないなら、いっそゼロにしてやるよ。この土質と勾配……ここを『液状化』させれば勝機はある)。
対処法を脳内で弾き出したその時、現実の怒号が割り込んできた。
「おい、ドルト! ボサっとしてると死ぬぞ!」。
背後から、上官であるゼノ曹長の怒鳴り声が響く。僕はこびりついた泥を払い、自分自身を確認するように低く呟いた。
「僕は……いや、……俺は工兵、名前はドルト? ……。今はそれだけで十分だ」。
覚悟を決め、ひょろりとした体を揺らして一歩前へ踏み出す。
「……ドルト、行きます! 工期が惜しいんで!」
僕は泥の中に、細い指を力強く突き立てる。
自身の体内のマナは微々たるものだが、そんなものは必要ない。この足元には、あの巨大なゴーレムがご丁寧に一歩進むたびに「チャージ」してくれた荷重エネルギーが、地中のマナを飽和させるほど溢れかえっている。
脳内で『テルツァーギの支持力公式』を高速で逆回転させるイメージを構築する。
土の粒子をベアリングのように球状化させ、内部摩擦角と粘着力を一気に最小値へ引き下げる命令を、地中のマナたちへ送り込む。
「地盤改悪――ゴーレム足元、液状化!」
次の瞬間、ゴーレムが重い右足を踏み出した。
本来なら地面を粉砕し、僕たちを押し潰すはずだったその一歩が、ズブり、と頼りなく泥の中へ沈み込む。
敵のゴーレムは、自身の圧倒的な重量を支えられなくなった。地中のマナが、荷重エネルギーをそのまま液状化の動力へと変換し、逃げ場を失った重力が沈下をさらに加速させる。
「グ、ガガギ……ッ!?」
無機質な咆哮を上げながら、無敵を誇った帝国の重機が、まるで蟻地獄に落ちた虫のようにズブズブと泥沼の底へ沈没していった。
「……ふぅ。安全確認、よし。とりあえず、工期遅延は回避しましたよ」
泥を払いながら、僕は大きくため息をつく。
その背後で、全滅確定だった戦区を「物理法則」で守り抜いた僕を、王国軍の上級騎士――シギュン様が驚愕の表情で見つめていることにも気づかずに。
「あやつ……マナの爆発ではなく、敵の重みそのものを利用したというのか……?」
かつて軍学校で「農学専攻の地味な学生」として彼女の視界にすら入っていなかった僕、ドルトの、これが最初の大仕事だった。
タイトル回収!




