聖女の檻、黄金の枷
冷たい朝霧が王宮の窓を叩く音で、私は目を覚ました。
背中に触れるシーツはひどく薄く、湿り気を帯びている。昨夜、給仕のメイドが「うっかり」窓を開け放したままにしていたせいだ。
「……寒い」
声に出しても誰も来ない。それどころか、部屋の隅にある水差しは空のままだ。喉を潤すことすらままならない。これが、国を救うとされる「聖女」の目覚めだった。
私は日本という国で、ごく普通の事務員として働いていた。適当に働き、適当に趣味を楽しみ、そして不運な事故で死んだ。次に目を覚ました時、私はこの中世ヨーロッパを思わせるアステリア王国の、魔力を持たない貧民の娘に転生していた。
しかし、十五歳の「啓示の儀」で、私の人生は再び壊れた。
私に宿ったのは、この国で数百年ぶりに現れたという聖女のスキル。
致命傷をも塞ぐ「極光の治癒」、都市一つを覆う「金剛の結界」。
それが判明した瞬間、私は親元から引き離され、教会の管理下に置かれ、そして政治的な道具として王宮へと投げ込まれた。
「おはようございます、聖女様。まあ、まだお着替えも済んでいらっしゃらないのですか? 本当に、育ちの悪い方は困りますわ」
扉をノックもせずに開けて入ってきたのは、年嵩の侍女だった。彼女は私のボロボロになった寝間着を見て、あからさまに鼻を鳴らす。
彼女たちは知っている。私がどれだけ冷遇されても、王も、教会の司祭も、そして私の婚約者である第二王子も、誰も私を助けないということを。
「……すみません。すぐに準備します」
「結構ですわ。どうせ今日は学園の後に神殿での奉仕があるのでしょう? 適当な古着を用意しておきましたから、それに袖を通してください。聖女様が贅沢をなさると、民が悲しみますもの」
差し出されたのは、あちこちが擦り切れた古いドレスだった。王族の婚約者が着るような代物ではない。だが、私は黙ってそれを受け取った。反論する気力は、とっくの昔に王宮の冷たい石床に吸い込まれて消えていた。
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アステリア王立学園。
この国の貴族子弟が集うそこへ、私は「国の象徴」として通わされている。そして、その隣には常に一人の男がいる。
アステリア王国第二王子、アラルガン・ド・アステリア。
私の婚約者だ。
彼はもともと、名門侯爵家の令嬢であるイザベラ様と婚約していた。しかし、私の聖女スキルが発現したことで、王家は「聖女を王家に繋ぎ止める」という一点のみを目的に、彼の婚約を解消させ、私を据えた。
「エレネ、今日の魔力充填率はどうだ」
学園の回廊を歩きながら、アラルガン様が事務的な口調で問いかけてきた。私の方を見ることはない。彼の視線は常に、手元の書類か、あるいはその先にある自身の野望に向けられている。
「……昨夜の奉仕でかなり消費しましたが、今は六割ほど回復しています」
「そうか。午後の演習では結界の強度を最大まで上げろ。隣国の視察団が来る。聖女の性能が落ちていると思われるのは、国家の損失だ」
性能。
彼は私のことを、人間だとは思っていない。ただの高性能な魔導具。あるいは、枯れることのない魔力の泉。
彼にとって、私がどんな服を着ていようが、侍女たちにどんな嫌がらせを受けていようが、興味の対象外なのだ。魔力が出力され、スキルが発動し、国の役に立つのなら、その中身が壊れていようが関係ない。
「……アラルガン様。昨夜、部屋に水が届きませんでした」
私は一度だけ、小さな賭けをするように言ってみた。
アラルガン様は足を止め、ようやく私を見た。だが、その瞳に宿っているのは憐憫でも怒りでもなく、純粋な「不可解」だった。
「それが私に何の関係がある? 給仕に言え。それとも、水がなければスキルが使えないのか?」
「いえ……そういうわけでは」
「ならいい。私の時間を奪うな」
彼はそれだけ言うと、背を向けて去っていった。
知っているのだ。彼は、私が宮廷で疎まれ、いびられていることを確実に把握している。だが、彼にとってそれは「聖女としての機能」を損なわない限り、対処するコストに見合わない些事なのだ。
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「まあ、エレネ様! 今日もお美しい……と言いたいところですが、そのお召し物、少しお疲れのようですわね?」
学園のカフェテリアで声をかけてきたのは、イザベラ・ド・モルガン侯爵令嬢。
アラルガン様の元婚約者だ。
彼女は、私が彼女から婚約者の座を奪った形になったにもかかわらず、いつも信じられないほど友好的に接してくる。
「あ、イザベラ様。ごきげんよう。これは、その……聖女の清貧を重んじる教会の教えでして」
嘘だ。教会は私の生活など一瞥もしていない。
教会にとって私は、王家との交渉を有利に進めるための「金色の駒」でしかない。私がどんな思いで王宮にいるかなど、司祭たちは興味もない。それどころか、私が王宮で苦労していることを知りながら、「それは聖女としての試練です」と微笑んで放置している。
「そうなのね! さすがエレネ様、お心がけが素晴らしいわ。私なら、そんなにボロボロの布を身につけるなんて耐えられませんもの。アラルガン様も、あなたのそういう強いところを尊敬していらっしゃるのね、きっと!」
イザベラ様は、本気でそう思っているようだった。
彼女には悪意がない。だからこそ、その言葉は鋭いナイフとなって私の胸に突き刺さる。
彼女は知らない。私が毎晩、冷たいベッドで泣いていることも。侍女たちに私物を隠され、食事に泥を混ぜられていることも。
私が自分から不遇を訴えない限り、彼女はこの世のすべてがバラ色であると信じ続ける。そして私は、聖女という体面を守るために、泥を啜りながら微笑むことしかできない。
「あ……エレネ様、私、あちらで友人が待っておりますの。また後でお話ししましょうね!」
彼女が去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、私はふと、彼女の後ろに控える令嬢たちの視線に気づいた。
イザベラ様の取り巻きたち。
彼女たちが、私を見ていた。
イザベラ様がいなくなった瞬間、その瞳に宿るのは、燃えるような嫉妬と、純粋な加虐心だ。
「……っ」
私の靴の中に、何かが入っている。
朝、履いたときには気づかなかった。今、歩こうとした瞬間に鋭い痛みが走る。
砕いたガラス。
いつの間に、誰が。
そんなことを考えるまでもない。取り巻きの一人が、扇で口元を隠しながら、勝ち誇ったように笑った。
イザベラ様は、自分の取り巻きが私を執拗にいじめていることなど、夢にも思っていない。
彼女が「エレネ様って本当に謙虚で素敵」と言うたびに、取り巻きたちの憎悪は燃え上がり、私の日常は少しずつ削り取られていく。
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その日の夕刻、私は王宮の地下にある大聖堂にいた。
「聖女の祈り」という名の、魔力抽出作業だ。
この国の結界を維持するために、私は毎日数時間を、この冷たい石の祭壇の上で過ごさなければならない。魔力を引き出される感覚は、血管の中に鋭い針を通されるような不快感を伴う。
「……はぁ、はぁ……」
額から汗が流れ落ちる。
司祭たちは、祭壇の下で書類をめくりながら、私の魔力量を記録している。
「聖女様、少し出力が不安定です。国に仇なす魔物たちの遠吠えが聞こえませんか? もっと強く念じなさい」
無関心。
彼らにとって、私は「聖女」という現象であって、人格ではない。
私がどれだけ疲弊しようが、心が壊れようが、彼らは「聖女が祈るのは当然だ」としか思わない。王宮での嫌がらせ? それがどうした。聖女なら耐えるのが美徳だ。そんな返答が返ってくるのが目に見えている。
私は祭壇の上で、意識が遠のくのを感じながら、かつての日本を思い出した。
なぜ、私はここにいるのだろう。
あのまま死んでいればよかった。
異世界転生なんて、嘘ばっかりだ。
チート能力? 聖女の力?
そんなものは、権力者たちが自分たちの利益のために振り回す鎖でしかない。
魔法が使えても、自分の空腹を癒やすことすら許されない。
スキルがあっても、誰からも愛されず、ただの道具として消費されるだけ。
この世界のすべてが憎かった。
私を道具としてしか見ないアラルガン。
無自覚な幸福で私を追い詰めるイザベラ。
私の不幸を娯楽にする侍女や令嬢たち。
そして、私をこんな場所へ送り込んだ、神とかいう存在。
「……返して」
「何かおっしゃいましたか、聖女様?」
司祭が怪訝そうに顔を上げた。
私は力なく首を振る。
「……いえ。なんでもありません」
返して。私の、何者でもなかった日々を。
誰も私を知らず、誰も私に期待せず、ただ安いコンビニ弁当を食べて眠るだけだった、あの退屈で愛おしい日々を。
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学園の卒業パーティーの日、一つの事件が起きた。
いや、それは私にとっての「終わりの始まり」だったのかもしれない。
会場の隅で、私は相変わらず汚れた――あるいは、巧妙に汚された――ドレスを着て立っていた。
アラルガン様は、私を連れて歩くことすら厭わしいようで、さっさと高官たちの輪の中へ消えていった。
そんな中、イザベラ様が駆け寄ってきた。
「エレネ様! 大変ですわ、あちらで庭師の方が大怪我を……! あなたの力で、どうか助けてあげて!」
彼女は私の手を引こうとする。
だが、今の私に魔力は残っていない。
昨夜、教会の命で「特別な儀式」のために、限界まで魔力を搾り取られたからだ。
「すみません……イザベラ様。今は、魔力が……」
「えっ? でも、あなた聖女様でしょう? 奇跡はいつでも起こせるものではないの?」
彼女の瞳に、初めて「失望」の色が混じった気がした。
それを見ていた取り巻きたちが、待ってましたとばかりに声を上げる。
「あら、おかしいですわね。聖女様ともあろうお方が、たかが治療もできないなんて」
「もしかして、力を出し惜しみしていらっしゃるのかしら? 民を見捨てるなんて、聖女の名が泣きますわ」
周囲の視線が突き刺さる。
あ、ダメだ。
何かが、私の中で音を立てて弾けた。
「……うるさい」
「えっ?」
「うるさいと言っているのよ。この、偽善者たちが」
私は震える声で吐き捨てた。
会場が静まり返る。アラルガン様が冷徹な視線をこちらへ向けたのがわかった。イザベラ様は呆然と立ち尽くしている。
「イザベラ様。あなたは私がどんな生活をしているか、一度でも考えたことがありますか? このドレスの汚れが、本当に教義によるものだと思っているのですか?」
「そ、それは……だって、あなたがいつも微笑んで……」
「そうしないと、生きていけなかったからよ! あなたの取り巻きが私の私物を燃やし、教科書を破り、靴にガラスを詰めている間、あなたはどこで何をしていたの? アラルガン様もそうだ。私が毎晩、飢えと寒さで震えているのを知りながら、一度でも毛布一枚寄越したことがあったか!」
私は叫んでいた。
ずっと、胸の中に溜まっていたどす黒い憎しみが、聖女のスキルとは全く別の「熱」となって溢れ出す。
「この国も、教会も、魔法も、全部大嫌いよ。私をこんなところに連れてきた、この世界そのものが反吐が出るほど憎いの!」
言い切った瞬間、周囲の温度が急激に下がった。
私の体から、真っ白な光ではなく、どす黒い魔力の波動が渦を巻いて噴き出す。
聖女のスキルが、私の憎悪に反応して変質していた。
「極光の治癒」ではない。
それは、触れるものすべてを腐食させ、崩壊させる「滅びの光」だった。
「エレネ、何をしている。その力を止めろ」
アラルガン様が初めて、焦燥を浮かべて声を荒らげた。剣を抜き、私に向けようとする。
教会から派遣されていた護衛の騎士たちも、一斉に私を取り囲む。
ああ、そうか。
結局、最後までこれなんだ。
私が壊れ、悲鳴を上げても、彼らが心配するのは「聖女というシステム」の不具合だけ。
「いいですよ、アラルガン様。機能停止してあげます」
私は微笑んだ。
きっと、今までのどんな時よりも綺麗な笑顔だったと思う。
私は、自分自身を標的にして、全魔力を解放した。
聖女の結界を、自分の内側に向けて。
外部からの攻撃を遮断するその力は、今度は私の肉体をこの世界から完全に隔離し、押し潰すための盾となる。
「……っ、やめろ! 結界を解け!」
アラルガン様の叫びも、イザベラ様の泣き声も、もう届かない。
結界の中は、ひどく静かだった。
異世界転生。
もし、次があるのなら。
もう二度と、誰かに見つかるような「特別」なんていらない。
ただ、冷たくないベッドと、一杯の清潔な水がある場所へ。
光が弾け、私の視界は真っ白に染まった。
アステリア王国の「聖女」が消滅したその瞬間、私はようやく、この忌々しい檻から抜け出すことができたのだ。
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聖女が自害したという事実は、国家の最優先機密として処理された。
アラルガン様は、その後すぐに別の「聖女候補」を探すための探索隊を組織した。彼にとって、エレネという少女の死は、単に「貴重な機材の全損」という報告書の一行でしかなかった。
イザベラ様は、しばらくの間寝込んだ。
自分が何も知らなかったことへの罪悪感からではない。彼女の完璧に美しかった世界に、「憎しみ」という消えない汚れがついたことへのショックからだった。彼女は後に別の貴族と結婚したが、生涯、他人の苦痛を理解することはなかった。
侍女たちは、新しい聖女候補がやってくるのを待ち構えていた。
今度はもっと、いたぶり甲斐のある子が来るといいわね――そんな会話をしながら、彼女たちはエレネの遺品を、ゴミのように処分した。
教会の司祭たちは、聖女を死に追いやった「王家の管理不足」を厳しく追及し、より多くの予算と権力を勝ち取った。彼らにとって、エレネの死は最高の政治的カードとなった。
誰も、彼女を悼まなかった。
誰も、彼女がかつて日本という国で、青い空を見上げて笑っていたことを知ろうとはしなかった。
ただ、彼女がいなくなった後の王宮には、以前よりも少しだけ、冷たい隙間風が吹き抜けるようになったという。
それは、異世界転生という残酷な奇跡に翻弄された、一人の少女の最期の溜息だったのかもしれない。
(完)
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