第3話「現実」
「あのな、一体何があったら、そんな下手くそな芝居になる……」
「立花が、泣きながら屋上に走っていくのを見た」
その瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
ほんの刹那的な出来事とは言え、谷田川の言葉は俺の心を動揺させた。
「彩星が……泣いていた?」
「ああ」
谷田川の口角が上がる。
楽しいことが起こっているようには見えなくて、起きている何かを楽しんでいるように感じる谷田川の笑み。
「これから収録を控えてるんなら、不安で泣くことくらいあるだろ」
俺と別れてすぐに、堪えきれなかった涙が零れてきたのかもしれない。
彩星が涙を溢れさせたところなんて見たこともないけど、人間誰しも弱くなるときがあるっていうのは知ってるからこそ心配になる。
「屋上にいる」
本当は、彩星が泣いてしまったのかもしれないと一瞬は焦った。
いつも笑顔を絶やさない彩星だって、弱音を吐いてしまうことだってあると思った。
だから、俺の心臓は変な音を立てたわけだけど……。
「……わかった! 行けばいいんだろ! 行けば!」
谷田川の言葉を受けて、席を立ち上がった。
けど、肝心の谷田川が、あまりにも棒演技すぎて、彩星が泣いていること自体が嘘なんじゃないかって予感が走る。
(屋上で、俺を待ち受けているのは一体なんなのか……)
教室から一番近い階段を上に上にと、上っていく。
階段を上っていく際に差し込む夕陽が、また青春っぽくていい感じだなーと思った。
(ちょっと青春感が漂ってきて……)
ワクワクする。
ドキドキするって、表現でもいいかもしれない。
青春やって、馬鹿やってるって感じが、物凄く楽しいかもしれない。
中学時代は屋上に行くこと自体が禁止されていたから、そのときの感覚を覚えている自分の心臓は激しく揺れ出す。
心臓の高鳴りが更なる高鳴りを煽って、ますます青春感が増していく。
「声優部使用中……」
屋上まで辿り着くと、屋上の入り口には声優部使用中の張り紙が一枚。
谷田川の指示に従うなら、たとえ声優部が使用していても屋上に入っていいということになる。
(彩星が……いるんだよな)
音を立てないように、ドアノブに細心の注意を払う。
声優部が何をやっているかは分からないが、自分の存在を気づかれて邪魔になってしまわないように。
「うわっ……」
屋上への入り口をそっと開くと、そこには雲一つない茜色の空が俺を待ち受けていた。
茜色の空って、実際はどんな色のことを指すんだろうか。そんなことを思っていたときもあった。
でも、俺の視界に飛び込んできた空を、この空を彩星っている色のことを茜色って言うんだなって分かった。体が理解した。頭も自然と、理解した。
それくらい絶景とも言える夕陽が、声友高校全体を照らしていた。
「幼なじみなんて、大っ嫌いーー!」
びっくりすることもできないくらい、弱々しい声量に相変わらずの棒読み具合。
せっかくの夕陽に向かって、なんてことを叫んでいるんだ。
そう思いながら声の主を確認すると、そこには俺がさっきまで同じ時間を共にしていた元相方がいた。
「もう一回」
「はい!」
彩星は、俺が見知らぬ男子生徒の指示に従っていた。
「幼なじみなんて、大っ嫌いーー!」
「もう一回」
「はい!」
声優部が貸し切っている屋上全体を見渡した。
彩星にだけ向けていた視線は、屋上のフェンスに寄りかかっている藤瀬叶を見つけた。
(矢田川を俺の元に寄こしたのは、藤瀬か?)
藤瀬の視線は屋上に入ってきた俺にではなく、屋上から叫びの練習をしている彩星と声優部の部員らしき男子生徒に向いたままだった。
だけど藤瀬は彩星に何も指示を出さないし、アドバイスもしない。
彩星を見守っているだけで、それ以上の行動は起こさない。
「幼なじみなんて、大っ嫌いーー!」
「もう一回」
繰り返される弱い言葉に耐え切れなくなった俺は、自分が立っている位置から一番近くにいる藤瀬の元へとゆっくり歩を進めていく。
「藤瀬」
自分が出せる限りの最高の小声で、俺は藤瀬に話しかける。
彩星の邪魔になりたくないけれど、彩星を見守っているだけなのも辛かった。
「お疲れ様……」
「お疲れ様です」
俺は周囲に気を遣って小声で喋ったというのに、藤瀬は彩星たちに遠慮することなく普段の声の大きさで挨拶を返してくれた。
「なんていうか、ここまで彩星が普通だと思わなかった」
「演技が初めての素人なんて、こんなものだと思います……」
|GLITTER BELLとして活動していたときの彩星の声には響きがあった。
それは嘘でもお世辞でもなく、誰もが彩星の歌唱力と表現力に惚れ込んだ。
それがあって、GLITTER BELLはアニメやゲームソング業界で通じる音楽ユニットに成長することができた。
「埋もれるな、こんな芝居」
今の彩星の声には響きがない。
それと同時に、心もまったく響かない。
演技素人だから仕方がないとも言えるのかもしれないが、その素人という肩書はいつまで許されるのかと心配になる。
「顔いいですからね、彼女」
「ユニットのセンター様は、顔さえ良ければいいと」
「人は推したいものを推す、ただそれだけのことです」
かろうじて、完全な棒読みではない。
ただ、それだけ。
彩星の読みは、本当にただ文章を読んでるだけ。
彩星の声は、人を魅了するどころの話ではない。
「興味深いものを聞かせてもらいました。声優部の程度を知ることができて……」
藤瀬の怒りを買っているんだろうなってことは伝わってくるけど、俺が彩星に対してしてあげられることは何もない。
藤瀬の好感度を高めることは、俺にはできない。
(声の芝居の世界に、俺は関わることができないから……)
俺の同級生の棒読みが酷すぎるのに、彼女は声優を目指していますとか……そういうラノベを書けてしまいそうなところが恐ろしい。
(でも、これが現実)
主人公でもないポジションに立つ人間には、一瞬で人の聴覚を独占してしまうような芝居ができるわけがない。




