私がお花畑で会いたいと言った時、あなたは会いに来なかった
「今年も、マーガレットの咲く季節が来たわね」
庭園の奥、陽だまりに揺れる白い花を見つめながら、私はぽつりと呟いた。
誰にも聞かれないように、けれど彼だけには届くように、小さな声で。
その言葉を拾ったのは、彼ではなく、彼の忠実な従者——リュカだった。
「お嬢様。侯爵閣下より伝言です。『来たる金曜、城下の収穫祭にて。赤い灯籠の下で』とのことです」
「……また、代理人なのね」
リュカは何も答えなかった。ただ淡々と礼をして、風のように去っていった。
彼——レオニス・フィルデ侯爵は、高位貴族であり、国王の側近。私のような平民上がりの伯爵令嬢とは、人目を忍ばなければ言葉も交わせない。
……と、思っていたのは最初だけ。
けれど、何度も、何度も。
「お花畑で会いましょう」
「春の夜会の庭園で」
「秘密の図書館で、夕暮れに」
私は幾度も、彼に会いたいと願い、彼の送る暗号に希望を託した。
けれど彼は、一度として姿を見せなかった。
代わりに現れるのは、リュカ。時には老騎士。時には無言の侍女。
彼らは冷たく、無表情に、彼の伝言だけを残して去っていく。
私は彼に恋をしていた。無言のやりとりの中で、淡い言葉の端に滲む彼の優しさに、心を奪われていた。
でも、会えなかった。
いつも、誰かが来るだけだった。
それでも私は、彼の婚約者になった。
国王の命で、私とレオニスは正式に婚約し、式の日程まで決められた。
しかし、婚約者になっても彼と二人きりで話すことは一度もなかった。
彼は会議に忙しく、城を離れる日々が続いた。
それでも私は、信じたかった。
——彼は私を大切にしている、と。
でも、本当は怖かった。
「彼は、私のどこが好きなの?」
「私のこと、知っているの?」
答えは、いつも風のように流されて、言葉にならなかった。
「この夜会は、侯爵閣下自ら主催されたものだとか」
「へえ、婚約者の嬢さん、また来てないらしいわよ」
「まさか、破談じゃないでしょうね?」
夜会の噂が城を駆け巡る。
それは、彼からの初めての直接の招待だった。
けれど私は——行かなかった。
もう、疲れてしまっていたから。
呼ばれても、行っても、どうせ彼はいない。
誰かが代わりに、言葉だけを届けるのだ。
「今回は、違う」と言われたとしても、信じきれなかった。
私は、お花畑で待っていた。図書館でも、祭りでも、星空の下でも。
でも彼は、一度も来なかった。
だから今さら「会いたい」と言われても、もう、心が応えられなかった。
夜会の翌朝、宮廷にて。
「この婚約は、破棄する」
彼の冷たい声が、玉座の間に響く。
「我が主催する夜会に、たった一度も顔を出さぬとは。王命による婚約とはいえ、その態度は不敬に値する」
誰かが息を呑んだ。
私は、ただ静かに頭を下げる。
「そうですね。婚約を解消しましょう。あなたは、私の言葉に一度も応えてくれなかった」
「……なんだと?」
「私が、お花畑で会いたいと言ったとき。あなたは、会いに来なかった」
声は震えず、涙も流さなかった。
けれど彼の目が、かすかに揺れたのを、私は見逃さなかった。
今さら、その目の奥にある感情を知っても、もう遅い。
季節は再び巡り、マーガレットが咲く季節。
私は今、遠く離れた小さな村で、花屋として静かに暮らしている。
「この花、侯爵様からの贈り物ですよ」
店の少女が、そう言って赤いリボンのついた花束を差し出した。
——赤い灯籠の色だ。
私はその花を受け取ると、静かに花瓶に活けた。
花瓶の花の命は短い。
「会いたかったのよ。あの花畑で。長く咲き、輪廻するお花とあなたとの愛を誓いたかった」