過去と虎の尾:03
「501」を出ると、通路の照明がひどく眩しく感じられた。
通路にも「501」と似たようなクラシックが、軽快に流れている。
水谷は目だけを周囲に気を配り、慎重に歩を進めた。
エレベーターはそれぞれ、上り専用と下り専用に分かれている。
エレベーターの前に着くと一つしかないボタンをゆっくりと押した。
すぐ隣りの部屋のドアが開けっ放しになっており、中からは掃除機の音が通路へともれている。
次の瞬間、水谷は舌打ちをした。
エレベーターは5階を通り越して、上に昇っていったのだった。
仕方なく、横にある非常階段の扉を静かに、且つ早く開けた。
通路とは違い、非常階段はうす暗くなっており、少し落ち着けた。
コツ、コツ。と一歩一歩階段を下りる度に、ブーツの音が静かな空間にこだました。
それと同時に、ブーツを履いてきた事をひどく後悔した。
静かに、且つ足早に階段を下りると、フロントへ「501」の鍵をさし出した。
昨日対応された時と同じ、中年女性の声で料金を告げられた。
その声が、まるで水谷の全てを揶揄しているかのように聞こえて、
毛穴という毛穴から、脂汗が一気に吹き出した。
「ありがとうございました。」
水谷はその声を無視し、くるりと踵を返すと、そのまま自動ドアをくぐった。
回転式の駐車スペースには、すでにBMWが用意されていて、
車へと体をすべりこませると、間髪いれずにエンジンをかけ、すぐに車を発進させた。
駐車スペースを抜けると、金色に輝いた光が目をさした。
そしてみるみるうちに、車内の温度が高まっていくのが肌で感じとられた。
信号待ちをしながらBMWの冷房をMAXにし、息をはきながらシートベルトをしめた。
水谷はバックミラーで自分の顔をのぞきこんだ。
改めて見ると酷いもんだ。
頬や目元は完全に痩せこけており、顔全体がドス黒く見える。
顔から頭皮にかけて脂が大量に浮いており、それをティッシュで拭うと白い粉が吹いた。
耳から首にかかる髪も乾燥していて、パサパサになっている。
信号が青に変わった。
サイドミラーで後方を確認しながら発進させると、
同時に「dream」から勢いよく一台の車が出てくるのが見えた。
(刑事か?いや、多分違うな。だとしたらあの人の仲間か。
くそっ。いい加減にしろ。あいつらは一体何なんだ。)
車は軽自動車だった。
しばらく走ると、軽自動車は水谷のBMWとは別の方向へと消えていった。
(なんだ、気のせいか。そうだ、考えすぎなんだ、落ち着け。落ち着け。)
時折、落ち着け。と、声にも出しながら自宅へと向かった。
しかしどうしても後ろの車が気になってしまう。
結局、かなり遠回りをしながら自宅へと向かった。
自宅付近に着いたときには、空が朱色に変わっていた。
水谷のアパートは主要道路に面しており、朝から夕方までは車がひっきりなしに通過する。
BMWはアパートの駐車場を素通りした。
(あいつらか、刑事に駐車場で待ち伏せされてそうな気がする。
だめだ、まだ家には帰れない。もう少し様子をみないと。)
そのまま水谷は、常に後方の車に勘ぐりながら主要道路や、
時折、民家の細い道路などを通りながら後方の「魔物」を追い払った。
だが、空が朱から黒に変わっても「魔物」は消えることはなかった。
それどころか、「魔物」は徐々に大きくなっているのかもしれない。
憔悴しきった水谷は車内で何度も叫んだ。
誰か助けてくれ。もう許してくれ。などと。
気づくと、道路の真ん中で寝てしまっていた。
いや、気を失っていた、というほうが正しいのかもしれない。
それでも後方にいる「魔物」から逃げた。
朝方4時になり、ようやく家路にたどり着くことができた。
「魔物」は家に着くと消えていた。
そのまま食事も摂らず、シャワーも浴びないまま布団をかぶった。
(俺はやってしまった。)
ケータイの発信履歴には、「眞紀子」の文字が躍っていた。