過去と虎の尾:02
時計は「午後1時」を回っている。
部屋の中は、入って来たときとはうって変わってひどくうす暗く、
窓の隙間からは、金色に輝いた太陽の光がもれている。
有線のBGMはクラシックが流れているが、部屋の雰囲気とはまるで合っていない。
ガラス製のテーブルの上には、空になったスポーツドリンクが3本と、
中身が入ったままのミネラルウォーターが置かれ、
その傍らには「ネタ」と注射器が無造作に放ってあり、
横のあるティッシュと灰皿には、血のようなかたまりがこびり付いている。
そして部屋全体にはなんともいえない、悪臭のようなものが漂っている。
ソファの傍にあるダブルベッドはひどく散乱していた。
その上では、衣服を何一つ身に着けていない水谷が屍のように横たわり、
目を見開いたまま、なにかを見つめていた。
まさに、躁から鬱に変わってしまった状態なのかもしれない。
(またやってしまった。こんなくだらない事に5万円以上も使ってしまった。
一体なにをしているんだ、俺は・・・。)
時計にちらりと顔だけを向けた。
(くそっ、もう1時だ。早く出ないと、またフロントから催促の電話がかかってくる。
さっきは急に電話がかかってきて驚いた。
いつもは24時間を過ぎなければかけてこないのに。
ちくしょう、一人だと思って舐めやがって。)
だが、実際「ネタ」の切れ目で指一本動かすのも億くうだ。
水谷は入り口方面のドアを凝視しており、時折、なにかに反応するかのように動いた。
(何だ?今、またドアの向こうで何か動いたような気がしたぞ。)
部屋が薄暗いため、ドアの向こうから明かりがもれている。
だが、外へはドアを2つ開けないと出れない構造になっており、
一つドアを開け、左へ折れると、洗面やバスルームといった水場になっている。
当然そんな場所には、水谷以外誰も居るはずがないのだが、
覚醒剤の副作用なのだろうか、統合失調症のような症状が徐々に現れる。
約24時間シャワーも浴びず、食事も取らず、時折水分を取るだけで、
ひたすら、テレビ画面の向こう側に居るAV女優との妄想セックスに営んでいた。
その間「ネタ」はメモリ10を3回も「追って」いた。
水谷は目をこすると、手に脂がべっとりとついた。
顔は一晩で痩せこけ、脂が浮いていた。
(早くしないと、また電話がかかってきてしまう。)
水谷は裸のままドアの向こうの何かに注意を払いながら、
物音をたてないよう、ゆっくりとソファへ腰をおろした。
マルボロをくわえ、火をつけると静かに息を吸い込んだ。
そのまま、ソファとベッドの間に置かれている電話の受話器を静かに持った。
フロントの番号を押すと、数回のコールののち、従業員が電話にでた。
「はい、お待たせしました。フロントでございます。」
聞き覚えのない、若い男の声だった。
水谷はひどく勘ぐり、5秒近く声を出せなかった。
「お客様?」
男が怪訝そうな声でいった。
「あっ、すいません。えーっとぉ・・・。
あっ、も、もうそろそろ出ます。」
あと1時間程したら出る。そうしたらいくら追加料金が発生するんだ。
と訊きたかったのだが、知らない声の男が出てびっくりしてしまい、
言おうとして用意していた言葉が、完全に飛んでしまった。
「左様でございますか。少々お待ちください。
・・・お待たせしました。お客様、ご延長されていますので、
鍵を返却する際にご延長分の支払いをお願いします。」
「あっ、はい、わ、わかりました。」
受話器を置くと、マルボロを一気に吸い込んだ。
(なんで男が出たんだ?今までは一度もなかったぞ?
まさか、俺がシャブやってるのが従業員にバレて、上の人間が出てきたのか?
くそっ!いい加減にしろ。余計な事をしやがって。)
水谷の被害妄想が頭の中を交錯するうちに、時計は2時をさしていた。
1時間という時間があっという間だった。
水谷はおもい腰を上げると、べとついた体に服を着つけた。
ようやく出る決心をしたらしい。
(ああ、外が怖い。誰かが外で待ちうけているかもしれない。
そして誰かが追ってくるかもしれない・・・。
だから「あの人」に助けを求めたい。でもそれはやってはいけないんだ。)
水谷は灰皿に溜まった血を拭きとり、荷物をまとめると、
意を決してドアを開けた。