師匠と弟子
渓月は永池を連れ、まっすぐに奥地へと進んでいく。神花域は天宮の庭園程度の広さしかないため、すぐに神花楼の門に辿り着いた。
「し、師匠。ここは一体......?」
「ここは神花楼。この中には、基本的に神花しか入ることはできません。ですが、あなたの場合は神花湖の水が必要なので、規則だから入ってはならぬなどと言うこともまたできないのです」
「それなら、どうして湖へ行かないのです?わたしに必要なのは神花湖の水なのでしょう?」
「神花湖はここにあります」
渓月は神花楼を指差しながら、不気味に口角を上げる。かと思うと、次の刹那には神花楼の扉を開けていた。
「師匠、ここには普段から誰もいないのですか?」
楼内に入りながら、永池が恐る恐る尋ねる。
「まさか。最近はたまたまですよ。普段は、わたくしの他に帝神がいらっしゃいます。でも、しばらくの間は天宮で済ませることがあるそうなのですがね」
「帝神?」
「ええ。わたくしの師匠です」
「え」
渓月はふっと笑いながら、湖の近くに置いてある桶で水を汲んだ。一切の濁りのない水に吸い寄せられるかのように、永池は渓月の隣に腰掛ける。
「飲みなさい」
汲んだばかりの水を永池に差し出しながら渓月は言った。
「し、師匠。この水は一体何なのですか?」
永池は桶を渓月に返しながら、自らの体に霊力が少しだけみなぎるのを感じ取っていた。
「これは、神花湖の水で、霊力を回復させるのには役に立つでしょう。まあ、あなたにとってはわずかなものかもしれませんが」
「そのように特別なものをわたしに......?」
「霊力を全く回復しないまま、わたくしの弟子になるつもりなのですか」
その言葉で、永池にもようやくわかった。俗境にいたせいで、どれほど霊力を取り戻せるのかはわからないが、渓月にできることなら全て手を尽くそうと考えてくれているのだ、と。
その翌朝から、神花域竹林の中で永池は渓月による修練を始めた。
まずは、霊力を感じるために精神を集中させるところから、ということだったが、何刻経っても永池には自分の霊力を自力では微塵も感じることができない。そうしているうちに、永池はいつの間にか空腹を抑えられなくなっていた。
「師匠、何か食べたいです。朝から何も食べていないのですよ」
必死な声で訴えるも、渓月は眉根すら動かさない。関心がないのか、眠ってしまっているのか永池にはさっぱりわからない。
仕方なく、引き続き霊力を感じ取ってみよう、と彼が姿勢を正した、その時。
「永池」
固く厳しい声で、渓月は読んだ。
「はいっ!」
「集中しなさい。でないと、一生をかけても霊力を操ることはできませんよ」
「でも、お腹が空いているんです」
渓月はようやくゆっくりと目を開けた。少しの間永池を凝視したところで、再び目を閉じる。
「それなら、修行をするのは一旦やめましょう」
「どうしてですか?」
「今の状態では、まだ修行をするのに向いた体ではありません。まずは、体を整えないと。霊気を受け入れられる体にするのです」
渓月は簡単に言ってのけているが、永池の脳裏には疑問符ばかりが浮かぶ。その視線を感じ取ったのか、渓月は薄く目を開いて冷たく言った。
「ここには、霊気に満ちた植物しかないでしょう?植物から採れる露を飲んだり、なっている果実を食べれば、自然とあなたの体は霊気を受け入れられるものに変わるでしょう」
「なるほど。では、いつまでそれを続ければ良いのでしょうか?」
「あなたの場合、ひと月程度でしょうね」