永池の訪れ
渓月は少しだけ首をかしげながら考えた。しかし、彼女の知る限り、神花域の竹林で何か異常と言えるほどの出来事は起こっていない。もし起こったとするならば、神花楼に住む渓月がそれに気がつかないはずがない。
彼女が申し訳なさげに首を横に振ると、永池は案外素直にそれ以上の詮索をやめた。
「それなら、きっと報告した者が勘違いしていたんでしょうね」
と、言う永池がやけに表面的に思考するのを見ながら、渓月は冷たく聞いた。
「主君、竹林で異常が起きたらしい、と言うのは昨日のいつ頃なのですか?」
「さぁ、わたしも夜に報告を聞いたので…」
「ですが、報告を受けたのなら、いつ起きたのかも報告を受けているはずでしょう? それすらもはっきりと答えられないということは、竹林に異変があったと言うのは、事実無根なのですね?」
永池ははにかみながら、渓月へ向けていた視線をすっとそらした。どうやら図星だったらしい。少ししてあげた視線に謝罪の色が浮かんでいた。
だが、渓月は特に注意することもなく、相変わらず微笑を湛えたまま、永池の肩を撫でた。
「次からは同じようなことをしなければ大丈夫ですよ。しっかりと覚えておいてください。今後もこんなふうに好き勝手に行動すれば、野心ある者に弱みを握られてしまうということを」
「……はい。わかってます。でも、久しくし……帝神にお会いしていなかったので、つい、ひと目見えたくなってしまったのです。だって、つい最近までは四六時中一緒にいましたから……」
「確かに、以前はそうでしたね。ですが、今は以前と状況が違います。だから、今の主君はご自身のしたいことをそのまま行ってはなりません。いいですか。主君は霊力があまり高くないわけですから、その地位にとって変わりたいという者たちに事を起こされてしまっては、天界に安寧は訪れなくなるのです」
永池は足元を見つめながら、刻々と小刻みにうなずいている。その様子だけは、三月の間渓月が師として指導を行っていた時と全く変わっていなかった。
「わかりました。今日限りで、わたしはもうここへは来ません。まずは自分のすべきことをしっかりと果たします。でも、もし帝神に会いたくなってしまったら、天宮へ呼びますからね」
「ええ。ぜひそうしてください。ただ、明日から一年の間は、どうしても天宮へ向かえませんので、その点だけ承知していただきたいですね」
「明日から? 明日以降何があるのですか?」
「ええ。明日、この湖に帝花種を蒔こうと思います」
言いながら、渓月は袖から桃色の霊力を微かに放っている五粒の帝花種を出す。それらは全て、渓月が帝神の地位を継いだ儀式の後で現れた。
儀式を終えてから、神花楼に戻ってきたとき、神花湖に浮かんでいる五輪の蓮が霊力に溢れていた。渓月はすぐに蓮を上から覗くと、蓮弁に一粒ずつ帝花種が現れていたのだ。
「帝神、その種は明日必ず蒔かなければならないのですか」
「ええ。実は、もっと早くに蒔いても構わなかったんですけどね。ただ、遅くても明日までには必ず蒔かなければ、次期天君の出現までに修行が終わらない可能性があるのです。ですから、必ず明日までには蒔かなければ」
永池はがっくりと肩を下ろして神花楼を出て行った。その後ろ姿は見ながら、渓月はただ穎水に彼の姿を見られないことだけを祈りながら、帝花種を袖の中にしまった。




