桃源郷の珍客
渓月は桃源郷へ向かっていた。『神花縁奇書』を読みたばかりの時はどっと疲れが出たせいで、眠くてたまらなかったはずなのに、いざ、寝床に横たわった瞬間に、目が冴えてしまったのだ。あてもなく、ただ歩いていたら、いつの間にか、桃源郷へと足が向いていた。
桃源郷は、最初に永池と共に来た時と変わらなかった。桃の花はこれでもかと言うほどに咲き誇り、桃はまるで永池のような食いしん坊に食べさせるためで、あるかのごとく実をつけている。
渓月は桃源郷の中心、周辺を見回すだけで、桃の花と実のついている木が交互に伸びている場所に、渓月は座った。とは言え、桃の花を鑑賞する気も、ましてや桃の実を食べる気もさらさら起きていない。特に何かをする気も受けず、ただ月を眺めていた。
すると、夜の桃源郷に、めったにするはずのない足音が聞こえてくる。しかも、それは一歩、一歩渓月の元へ近づいていた。
彼女が背後に背を向けると、そこには黒ずくめの服を身に纏った穎水がいた。彼は特に何かをするわけでもなく、ただ渓月の隣に腰を下ろしただけだった。
「帝神みここで月を鑑賞するつもりか?」
「さあ。穎水殿こそ月の鑑賞に来られたのですか?」
穎水は特に何も答えず、ただ大声で何の品性もなく笑っただけだった。
「こちらには、まさかわたくしを探してこられたのですか?」
「当たり前だろう? 天君が即位してからずっと帝神の同行を見張らせていたことを、まさか知らなかったとでも?」
「まさか。神花域には何人の密偵を送り込んでいたのですか?」
「三人だ。何せ、神花域はあまりにも狭すぎる。それ以上は送らなかった。残念なことだ」
「ふん。ところで、いつまでこのような作り話を続けるおつもりですか? そもそも神花域は密偵を遅れるような場所ではない」
穎水はうなずきながら、やはりがははは、と大声で笑った。
「そうだ。しかも、神花域にわたしが密偵を差し向けることで利益も一切ないしな。ところで、どうしてさっきはわたしの作り話に付き合ったんだ?」
「わたくしが修行していた時からそうだったじゃないですか。以前にお会いした時も、同じようにまずは作り話からでした。その腹のうちに何を隠していても、それだけはずっと変わらない。しかも、その作り話に付き合わないと、あなたは機嫌を悪くして、どんな行動を起こすかすらわからない。わたくしがまだそのくだらない習慣に慣れていなかった頃、あなたの作り話に付き合わなかったと言うだけで、神花楼の調度品を全て壊されてしまった。ご存知ですか? あれを作り直すのは面倒なんですよ」
「ははは。だが、全てで作ったものだろう? あんなの、作り直せば何とかなる」
「まあ、良いでしょう。どうせ作り直したのはあなたではなく、わたくしなんですから。ところで」
渓月は穎水から目を離すことなく尋ねた。
「先程の作り話の中で、わたくしを探しに来た、と言うのだけは事実でしょう? それならば、一体わたくしに何の用ですか?」
嘘臭く笑っていた穎水は一瞬にしてその笑顔を片付け、悪鬼のような顔を渓月に向けた。それを見た瞬間に、渓月は思う。これこそが、穎水の持つべき顔だ、と。
「わたしと、駆け引きをしないか」




