神花の定め
唐突に、散華は渓月の頬を叩いた。しかし、霊力が既に稀薄になっているせいで、その手から伝わってくる力は無に等しい。
「師匠?」
渓月は散華を支えながらも、戸惑いを隠せずに、つい眉を顰めてしまった。しかし、それに負けず劣らず怒りを隠す様子もない散華は相変わらず空咳をしながら、軽蔑の色を浮かべた視線を渓月に送る。
「いいですか。古来より、天界の主は我々神花と神花縁を結ぶことにより、私利私欲に走る天帝の出現を阻止してきました。それを、あなたは変えるつもりとは......! 天逆非道の行いですよ、わかっているのですか」
「もちろん。ですが、天界の長となる者の人格が優れてさえいれば、わざわざ我々神花と、互いに命を懸けた契約など必要ないではありませんか」
「それが永遠に続くなら良いでしょう。ですが、そんな事はありえない。いつの日かは必ず野心に満ち、誰のことをも顧みない者が現れるでしょう。それこそ、天君となる資格は持ちませんが、穎水のように」
「でも、それは神花縁とは関係がないでしょう」
「ええ。ですが、そういった者に対しては、少なくとも命を脅しとして、天界に益をもたらせることはできます」
「ですが、わたくしはそれを永池にしたくはありません」
渓月は散華を支える手に力が入り、ぶるぶると震え始める。それはどこから見ても、散華の知る渓月ではなかった。
「渓月」
散華は支えられていた手を渓月の手の中から抜き、渓月の肩に当てた。
「まさか、あなたは天君に必要以上の感情を抱いているのではないですよね?」
その言葉に、渓月はすぐには答えなかった。何と答えるべきなのか、わからなかったからだ。彼女はただじいっと散華を凝視し、少ししてから答えた。
「まさか。そのようなことは......あり得ません。天帝が心を動かし、また天帝に心を動かすものは古来より紅心花のみ、と決まっておりますし」
「わかっているのなら、それで良いのです」
紅心花は、古来より定められている、天帝の后となる資格を持つ花だ。紅心花は天帝が後継者である間の天界外へ初めて修行に出た日に神花湖に植えられる。植えられてからひと月もすれば紅心花は人形をなし、天帝を支える能力を養うための修行をする。それが終わった頃に天帝の元に現れ、天宮で共に暮らすことになるのだ。一般に、天帝は紅心花のみに心動かし、紅心花以外のものは天帝き心を動かさない、と言い伝えられており、古来より例外は無い。
「そういえば」
月夜が白み始めたときに、呼吸を落ち着けながら散華が言った。
「先日天君がおっしゃっていたのですが、神花痕が以前は左腕にあったのに、今は左手首に移ったそうなのです。その理由はわかりますか?」
しかし、渓月は無気力に首を横に振った。
「わたくしにもわかりません。少なくとも、わたくしが今まで読んだ神花痕に関する書物の中に、そのような記載を見かけた事はありませんね」
「それならどこにその答えが載っているのでしょう?」
渓月は少しだけ考えた後で、明確に断定した。
「禁書の中にしかありませんね」




