俗境の少年
天后が産んだ子は、速やかに大殿へ届けられた。
ちょうど一人雷鳴を嘆いていた永聡は、生まれたわが子を見るや否や、「例の印」を探し始めた。
すぐに、彼の手首にその痕が残っているのを発見する。
(紛れもなく神花痕だ)
神花痕は天が定めし継承者の意味を持つとされ、これを持って生まれた者は問答無用で天界の継承者となることが決まっている。そして、同様の痕を持つ神花との契約を成り立たせるためにも、この印が必要となるのだ。
永聡は生まれて間もない息子の頭をなでながら、同情するように言った。
「この子の名は、永池にしよう」
十八年後。
神花としての修行を一通り終え、主神となった渓月は天界を遊歴していた。
主神は帝神の後継となる地位で、現帝神の弟子のみがその地位に就くことを許される。
あてもなく歩き続けていた渓月がいつの間にかたどり着いていたのは、俗境だった。
俗境は天界と下界の境目にある場所で、他のどの場所よりも俗気が極めて高い。もし、修練を完全には終えていないものが来れば、その体を俗気に支配され、知らぬ間に下界の者と何の区別もつかなくなってしまう。つまり、天界では廃人と呼ばれることになってしまうのだ。そして、ひとたび廃人に成り下がると、霊力を使えていたころの記憶は消えてしまう。
渓月はこれまでの修行の中で、俗境に来たことは当然ない。だが、散華に教わったり書物の中で読んだりして、ある程度の見識はあるつもりだった。
(だがまさか、ここまで腐敗した地域だとは思わなかった)
かの地には、錯乱した者や物乞いをしている者、罹患した者、屍が道端のほとんどを占めていた。当然、店や軒連なる家々なども廃退している。
だが、渓月はその中に一人だけ、まだ正常さが残っていそうな少年を見つけた。少年といえど、年は彼女と大して変わらないようにも見える。
彼女はその少年の前に膝をついた。
「旅のお方、どうかお恵みを施していただけませんか」
と、少年は震える声で言う。もう、何日も何も食べていないのかもしれない。
渓月は何か施したかったが、手元に食べられるものなど何一つ持ってきていない。せいぜい、神花湖の水を十五日分持ってきているだけ。
「申し訳ありません。わたくしは花なので、ものを食べないのです。ただ、一般の者は決して飲まぬような水を飲んでいるだけですので…」
「そうでしたか。それは、申し訳ありません。困らせてしまいましたね。確かに、霊力のある方は皆さま何も食べる必要はございませんし。わたしこそ、少し考えればわかることでした」
少年が気まずそうに笑った時、気のせいかもしれないが渓月には、わずかな霊力を感じ取った。彼自身も自らに霊力はないと思っているにも関わらず。
「いいんですよ。ところで、わたくしの荷の中には確かに食べ物はありませんが、場所を変えるとあるかもしれません。もしよければ、わたくしと共に行きませんか」
と言いながら、渓月は考える。
(確か、二里北へ進むと桃源郷があったはずだ。そこなら桃の実くらいはあるだろう)
だが、少年は遅々として答えようとしない。
(まさか、俗境の者はその外に出てはいけないというような規則でもあるのだろうか)
と、今まで聞いたことすらない可能性にまで渓月の思考が及んだところで、ようやく少年が口を開いた。
「もし、旅のお方さえよろしければ、ぜひお供をさせていただきたいです」
「わかりました。ところで、あなたの名前は?」
渓月は聞いた瞬間に後悔した。この場所にいる者が、天界で名乗っていた自分の名前など憶えているはずがない。自らの過去ですら忘れてしまっている場合がほとんどだというのに。
だが、少年は困ったような表情を見せることなく言った。
「わたしは、永池と申します」