天界の後継者
永池は袖を腕にかける。
散華は少しだけ考えた後で、ゆっくりと首を横に振った。
「わかりません。このような事は初めて見ました」
「書物にも記載は無いのですか?」
「わたくしが見た限りでは。でも、わたくしは書物はあまり読んでこなかったので、まずは渓月に聞いてみます。あの子は、修行を始めたばかりの頃、霊力は扱う修行よりも、書物を読む方を好みましてね、よく秋桜閣へ足を運ばされたものです」
散華は懐かしげに笑った後、数回空咳をした。その瞬間、永池はすうっと息を呑む。天界で修行した者ならば、知らない者は誰一人としていない。空咳は、霊力が尽きる前兆であることを。
「ところで帝神殿。天君とは何を話していたのですか? あと、師匠はなぜ突然わたしを破門したのでしょう?」
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。主君からは、明日天界に後継者が出現したことを宣布するので、その準備をするよう言われただけです」
「じゃあ、師匠は......?」
「師匠、ではなく、主神ですよ。渓月は、殿下が天界の後継者であると確信し、天宮へ戻そうとしたのです。そのために、折の良い時を見計らって殿下をした、と渓月は言っていましたよ」
言いながら、散華は空咳をし続けていた。この状況では、散華が霊力を保ち続けるのももう限界なのだろう。
「あ、殿下。わたくしはそろそろ神花楼へ戻りますね。天宮の門限がじきに来てしまうので」
「ん? ああ、はい。あの。ししょ......主神殿によろしく伝えておいてください」
翌日、辰の刻に永聡は大殿にすべての文武の神官を招集した。
相変わらず永聡は玉座に横たわっていたが、右手に霊力をやらせるほどの余裕を見せている。だが、なぜか彼は一言も話そうとしない。傍に立っている永池も、永聡が一体何をしているのか、全く理解に苦しんでいた。玉座の階下には、散華、渓月、緒明、その他すべての神官全員が既に並んで永聡が話し始めるのを待機している。
普段立ち続けている事がなかったせいで、永池はすぐにかかとがじりじりと痛み始める。
ちょうどその時、大殿の扉から謙遜と言うものは、まるで知らないかのような声が聞こえてきた。
「いやあいやあ。すみませんね、皆さん。お待たせしてしまいました。兄上、申し訳ありません。遅れました」
永聡に向けて拝礼をする男から目を背け、救いでも求めるつもりなのか、永池はそっと永聡に目を向ける。すると、彼は相変わらず手元の霊力をずっと眺めたまま言った。
「あれは、わたしの弟だ。つまりは、君の叔父。名を穎水という」
その瞬間、永池は秋桜閣で渓月と緒明があのように言っていた理由がようやくわかった。
「穎水、顔を上げなさい。お前が遅れたのには、きっと何か理由があるのだろう。その点について咎めはしないから、列に並びなさい」
「恐れ入ります」
天帝のみが通ることを許されると言うど真ん中に立っていた穎水は、悪びれる様子を微塵も見せずに、左側の列へゆったり歩き、緒明の前に立った。右側の列に立つ散華と渓月は今にも白目を剥きそうなほどの苛立ちを見せていたが。
「よし。これで、全員が揃ったな。本日、皆を招集したのには、一つ公表したいことがあったためだ。皆、喜べ! 八年の時を経て、我が後継者がようやく天宮へ帰還を果たした!」
穎水以外の全員が一斉にその場にひざまずき、歓迎の言葉を述べていく。だが、唯一不満げな穎水は腰に手を当てながら聞いた。
「兄上。後継者が帰還した、とおっしゃいますけど、その後継者はどちらにいるのです?」
「穎水、冗談は良くない。わたしの近くに立っている子がいるだろう。その子が、我々が帰還を待ち望んだ後継者だぞ」
「でも、そいつに神花痕は誠にあるのですか?」
「永池、見せてやりなさい」
永池は、永聡に見えているかはわからないが、一応うなずいてから、袖をめくり、自らの左手首をあらわにした。
そこに浮かぶ蓮の花の痕を見た後で、穎水は思いのほか、素直にその場に跪いた。
その瞬間、永池は正式に誰もが認める天界の後継者となった。
だが、誰もが予想していなかったことに、その翌日永聡は逝去した。それなのに、おかしなことに永聡と契りを結んだはずの神花、帝神散華は枯れるどころか、空咳すらもしなくなっていた。




